「苦痛な休憩時間」

数学と感染症の関係は深い。ワイドショーは対数グラフと指数関数をきちんと説明していない。対数グラフの目盛りを読むことなく平気で海外と日本の数字の比較をして、日本も増えてますという。16進数やムーアの法則に支配されているIT業界にいると、指数関数の恐ろしさを実感しているが、中学でならったはずの指数関数をほとんどの人は忘れている。毎日の報告される感染者数の上下に一喜一憂するだけで、母集団や調査タイミングに気を配る来なく数読みをするだけだ。

数学と今の事象をイタリアの数学者であり文学者であるパウロ・ジョルダーノの「コロナの時代の僕ら」をnoteで読んだ。

https://www.hayakawabooks.com/n/nb705adaa4e43?fbclid=IwAR3RnPqulo0doUTLL0p6b_-HO1bv9menifpL2Eu_kfyXXOz3uvE2gqm5ulI

以下、引用
「感染症の流行時は、人類の有能さが人類の不幸の種ともなる。」
「数字はパニックを生む原因として非難されてきた。」
「(数字をめぐって)市民と行政と専門家のあいだの愛情のもつれだ。どうも現代においては、三者が互いを愛する術(すべ)を失い、関係が機能不全におちいっているようなのだ。」
「感染症の流行中は誰もが色々なものを数えてばかりいるからなのかもしれない。僕たちは感染者と回復者を数え、死者を数え、入院者と学校に行けなかった朝を数え、株価の暴落で失われた莫大な金額を数え、マスクの販売枚数を数え、ウイルス検査の結果が出るまでの残り時間を数え、集団感染発生地からの距離を数え、キャンセルされたホテルの部屋数を数え、自分と関係のある人々を数え、自分があきらめた物事を数える。」

そして「苦痛な休憩時間としか思えないこんな日々も含めて、僕らは人生のすべての日々を価値あるものにする数え方を学ぶべきなのではないだろうか。」と語っている。

「苦痛な休憩時間」。。。言い得て妙。

我が家では、カミさんがテレワークになって、慣れないシンクライアントとzoomと格闘しながらも、そもそもの業務の問題に気づきを得ているようだ。上の子はハードワークな会社を辞めちょうど転職の隙間のサバティカルな1か月と緊急事態宣言がかぶった。安穏と好きな手芸や絵を描いているし家事を手伝ってくれるのはうれしい。下の子は、この間自作PCづくりにいそしみ、大学もネット授業化して、画面の前にいる充実感を得ているようだ。私はというと、経営している零細企業はインバウンド売り上げが落ちて休業体制へシフトしている。給付金を受けて凌ぎながら今後に向けてほかの出口を探さねばならない。実際、経営は大変だ。大学院の研究は2月に入ってストップしている。この社会・経済全体に影響する「禍」の前に経営学とは何なのか?自分の研究は?というシンプルな疑問がわいて、書き始めた修論の筆が止まってしまった。もう一つの仕事、コンサルしている会社のワークショップをハングアウトに切り替えた。これはこれで「ITとコロナ」を考えるテーマにして、ポスト・コロナをみんなで考えるのは自分にとっても有益だと思った。

休業日は、日高の家に行って、寒さでストップしていたDIYのカーポートづくりを再開した。両方とも自分の家なので不要不急の移動ではない(?)あとは屋根を張るところまで進んだ。日々、成果が見えることをやるのは楽しいし、目に見えない数字を積み上げていることを忘れさせる。埼玉の田舎は東京と違ってのどかである。山をMTBで走っていると悠久の時の自然の中で、ウイルスも人間もほんとにちっぽけなものだと感じる。苦痛な休憩時間を「価値あるものする数え方」にすべきと実感する。

さしあたって、家族で一緒にいる時間が増えたのは価値があることだ。仕事もポストコロナに向けて考え、研究もそろそろ再開しようと思う。価値あることにつながるはずだ。仕事をしながらCNNをずっとつけてたので、ヒアリングは少しばっかり上達したように思う。そろそろコロナじゃないニュースを聞きたい。本を読む時間も増えた。積読の解消もあるけど今まで興味のなかった分野に触手が動くようになった。ここ2か月ほどは、なにか落ち着かず、かといって何かを進めるモーメントが働かなかったが、次の段階に入るれそうな気がしてきた。「苦痛な休憩時間」にコロナが気づかせてくれることがあるはずだ。

文京区と日高市に2拠点居住中。