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【インタビュー】地方ライブハウスが受けた新型コロナウイルスの影響 【秩父ladderladder】

新型コロナウイルスの影響で苦境に立たされているライブハウスだが、東京と地方のライブハウスでは事情が大きく異なる。2009年にオープンしたladderladderは、人口約6万人の埼玉県秩父市にあり、東京・池袋から2時間弱という微妙な距離が状況を難しくさせている。ladderladderの店長/経営者であり、自身が率いるHOCKLE HOCKのVo/Gtとしても活動するヒキママサノリ氏に、コロナ以降のリアルな状況や、ライブハウス、バンドについての想いを話してもらった。

●緊急事態宣言の1ヶ月前から休業

――コロナの影響は、どんなものでした?

ヒキマ:それは苦しいですよ。うちはコロナ前からギリギリでやっていたので、日頃から親しい連中には「生き地獄だな」とか言ってたんですけど、コロナの影響が出始めてからは「本当の地獄って、これなんだな」と思うようになりました(笑)。

――いまの状況と比べたら、それまでの苦しさはウソだったと……。コロナの影響が出始めたのは、いつ頃からだったんですか?

ヒキマ:去年の2月に大阪のライブハウスでクラスターが発生したじゃないですか。あれでニュースやワイドショーにライブハウスというワードがたくさん出てきて、あんなにライブハウスが社会的に認知されたことって、いままでなかったと思うんです。だから言い方は難しいんですけど、最初は知ってもらえるチャンスだと思ったんですよ。でも、こういう田舎町なので、3月の頭に大苦情が届いて……。

――そんな危ないもの営業するなと。

ヒキマ:そうです。苦情の電話が僕のところにも、ビルのオーナーにも来て。「私がコロナにかかって死んだら誰が責任取るの!?」みたいな感じで、ものすごい剣幕だったんです。そのときはビルのオーナーもフォローしてくれて、穏便に済ませられたんですけど、それをきっかけに営業を止めたんです。だから緊急事態宣言の1ヶ月前から休業していました。

僕たち自身はライブをやりたいし、たぶんお客さんも来てくれるけど、そういう状態で営業を続けたら、せっかく10年かけてこの街にライブハウスがあるっていう状態を作れていたのに、なくなるきっかけになっちゃうかもしれない。それは嫌だなと思ったんですよね。

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――それで3月はまるまる閉めて、4月も緊急事態宣言が出て。

ヒキマ:3月の下旬に1本だけライブをやりました。そのあとにツアーで来るバンドのライブ予定があったので、その前に自分たちのバンドで予行演習しておこうと思ったんです。結局、そのツアーバンドのライブは中止になっちゃいましたけど。それ以降は7月まで閉めてました。

――緊急事態宣言が終わってからも閉めていたんですか?

ヒキマ:緊急事態宣言中に7月まで入っていたライブは全部中止、延期、キャンセルになっちゃって。ただ、僕は早い段階から、1〜2年は収まらないだろうなと、漠然と思っていたんですよ。

それで再開するまでの間に、これからのこととか何周もいろいろ考えたんですけど、いままでも限りあるなかで最高な日を作ってきたんだから、コロナだからと言って何かが変わるわけでもないという結論に達して。制限されているなら、そのなかで最高な形を目指そうと思ったんです。だから気持ちは折れなかったです。お金だけはキツかったですけど(笑)。

――営業できなくても、家賃はかかるわけですよね?

ヒキマ:家賃は払いました。正直、いままでもライブハウスだけでは食えてなくて、並行して別の仕事をやっていたんです。僕はラッキーなことに、自営している同級生が多いんですよ。だから彼らに、営業があるときは休むことになっちゃうけど、それでもよければ都合よく使ってと話して。今日も解体の仕事をしてきましたけど、そういうのでつないでいる感じですね。あと、売れるものは全部売りました(笑)。

――大変という言葉だけでは言い表せないですね……。ここのスタッフはどうしているんですか?

ヒキマ:スタッフはみんなバンドマンで、それぞれ並行して別のバイトをしていたので、ここで生計を立てているわけではなくて。良くも悪くも、ちゃんとビジネスとしてやっているライブハウスとは、もともとやり方が違うんです。だから緊急事態宣言に入るときは「店は守るから、みんなは緊急事態宣言が明けてもバンドが続けられる方法を考えて」っていう家族会議みたいなことをして、一家解散するような感じでした。

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●売上は通常時の3割もいかない

――夏からはライブを再開したんですか?

ヒキマ:いちおう7月に再開したんですけど、7月下旬に秩父で感染者が続出して、友達の友達くらいのところまで迫ってきたんです。秩父の人たちは、ほとんど生活圏が決まっているから、どこで感染者と接触しているかわからない。毎年8月は周年イベントをやっていたんですけど、この状態で営業するわけにはいかないなと思って、僕の判断で全部中止にさせてもらいました。

――じゃあ8月までほぼ営業できず、その間は他で仕事をして、家賃を払って、場所を守って。

ヒキマ:そうですね。最低限かかってしまう必要経費だけは、なんとか支払いして。それもまわりにたくさん助けてもらいました。地元のバンドのヤツらが音源作って売上を寄付してくれたり、昔からの仲間が勝手にTシャツを作って、勝手に販売して、勝手に売上を寄付してくれたり、CDを作って売上をladderladderと富山のSoulPowerに寄付してくれたり。Tシャツ100枚送ってきたヤツや、「口座番号教えろ」って直接現金を振り込んできた輩もいました。

タワーレコードtoeのライブハウス支援プロジェクトにも参加させてもらって、本当に助かりました。それもHOCKLE HOCKのメンバーが、府中Flightで店長をやっていて、「Flightにこういう話が来たので、ladderladderのことも言っておきました」って。そうやってまわりから助けてもらって、本当に恵まれているなと思います。

――9月からは営業できたんですか?

ヒキマ:やりました。でも、そんなに本数も組めないし、収容人数の制限もあるし。やっぱりこの状況では、ライブをやりたいというバンドも少ないので。

――この状況で県外から来るバンドは少ないでしょうし、かと言って地元バンドだけではスケジュールを埋められないし。そこは東京のライブハウスとは違う部分ですよね。

ヒキマ:そうですね。もともとladderladderは「地元にもっと音楽を」というテーマを掲げて始めたこともあって、県外から来てくれるバンドが多かったんです。だから秩父が地元じゃないのに「ladderladderがホーム」と言ってくれるバンドもいて。

お客さんも県外から来てくれる人がたくさんいて、そういう人たちは変わらず来てくれました。その分、こっちも万全の状態で迎えなきゃと思っていたので、他店と同じような対策にはなりますけど、少しでもリスクを下げられるように感染防止には気をつけました。ただ、それでも売上は通常時の3割もいかないくらいでした。

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●二度目の緊急事態宣言で全イベント中止

――そういう状況のなかで、二度目の緊急事態宣言が出て、ladderladderは決まっていたイベントを全部延期・中止にしてましたよね。それはどういう決断だったんですか?

ヒキマ:うちは不特定多数が出入りするというよりは、特定少数側の店だと思っていて。みんな昼間は仕事して、仕事が終わって、ladderladderでライブやってるから観に行って、また明日もがんばろうって帰って行くんです。だから時短営業に合わせたら、その人たちは来れなくなる。

それに、この状況で来てくれる人たちは、ライブハウスにライブを観に行くっていう以上の気持ちで来ているじゃないですか。自信過剰ですけど、ladderladderを応援したいから、ladderladderでライブがあるなら行こうと思ってくれてる人もいると思うんです。そういう僕たちが大事にしている人たちが来れない状態でライブをやるのは、本末転倒だなと思っちゃって。それで極端すぎるかもしれないけど、一旦全部中止にすることにしたんです。

――週末だけ営業するとかは考えなかったんですか?

ヒキマ:週末は組めなかったんです。いつ状況が悪化するかわからないから、だいたい1ヶ月先、遠くても2ヶ月先までしか組んでなくて。そこに年明けに緊急事態宣言が出るんじゃないかって、年末くらいから煽られていたじゃないですか。それで1月は数本しか組めてなかったんですよね。だから思い切って、昼間にやるのはやめようという判断をしたんです。

結果的に1月に入ってから秩父も感染者が増えてて。この店がある番場町でも感染者が出たんですけど、自粛警察みたいな人たちから3件連絡が来ましたね。「番場町でコロナが出たのはご存知ですか?ladderladderさんじゃないですか?」って。それは「休業していたので、ライブ自体やってないんです」と説明させてもらいましたけど、やっぱり小さい街なので、どこで出たのか知っておきたい人が多いんでしょうね。

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●東京の事情を当てはめられても難しい

――ちなみに配信はやらないんですか?

ヒキマ:配信やるなら手伝うよと言ってくれる人もいるんですけど、僕はライブハウスの魅力はそこじゃないと思っていて。いちライブハウスファン、いち音楽ファンからすると、ライブハウスまで行く道のり、店に入る直前の気持ちの切り替え、入ったときの匂い、音だけじゃなくて振動とか、そういうことも含めてライブハウスが好きなんです。

配信ならライブハウスじゃなくてもできるし、そこを割り切ってやったとしても、需要がないですからね。言い方は悪いですけど、ここで活動しているバンドたちは、自分たちも含めて、ほとんどがプロではない。配信ライブをやったとしても、視聴者が3人とか全然ありえるし、それだと悲しすぎるじゃないですか(笑)。

――有名なアーティストじゃないと見ないし、かと言って東京のアーティストはコスト的にも感染防止的にも東京でやったほうがいいし……。

ヒキマ:東京のライブハウスなら成り立つかもしれないですけど、それを全国のライブハウスに当てはめられても、現実的に難しいです。この状況に対して、いろいろ情報は仕入れていましたけど、わりと初期段階の取捨選択で、配信という選択肢はカットしてましたね。それでも地元のバンドが配信をやりたいと言うなら、STUDIO JOY(秩父の音楽スタジオ)が配信機材を買っていたので、そっちでやってもらえるように紹介したいです。

じゃあ、どうしろって言うんだよっていう話なんですけど、ライブハウスって人と会う場所じゃないですか。でも、いまはそれができない。そしたら他で働きますよっていう感じになっちゃうんですよね。いまの状況で考えると、やりたいことができないので、またやりたいことがやれるようになるためには、やりたくないこともやらないと。

――ライブを組んでも中止になって、家賃は変わらず払い続けて、なんのために働くのかわからなくなってきますね……。

ヒキマ:なんのためというか、気持ちのバランスが難しかったです。ライブハウスの人と、いちバンドマンとしてのバランスが、よくわからなくなっちゃって。なんのために働くのかとか、考える余裕もなかったです。ただ、この感じは超カッコ悪いなと思っていて。ライブハウスもバンドも、お客さんには非日常であってほしいんですよ。僕が言うのもアレですけど、バンドマンは誰かの夢や目標であってほしいんです。

――でも、秩父という決して大きくない街で、10年以上もライブハウスを続けているのは、純粋にすごいなと思いますよ。

ヒキマ:なんだろう。意地とかじゃなくて、ただライブハウスが好きなんですよ。ライブを観ることも、やることも。ちょっと自分でも狂ってるなと思います(笑)。

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●秩父にライブハウスを作った理由

――そもそも、なんで秩父にライブハウスを作ったんですか?

ヒキマ:ずっとバンドをやってて、いろんなところをツアーでまわらせてもらえるようにもなれて、各地に仲間ができるじゃないですか。それでツアーをまわっていると、そいつらが「俺たちの街に来てくれてありがとう」と言ってくれるんです。もともと僕らは(秩父から電車で1時間強の)熊谷のライブハウスで活動していたので、最初は「熊谷から来ました」と言ってたんですけど、実際は生まれも育ちも秩父じゃんって、ずっと思ってて。そういうことがリンクしていって、俺たちの街にライブハウスがあれば、俺たちが迎えられるよなと思うようになったんです。

どこの地方も、それをつないでいったから、いまがあるわけじゃないですか。それを自分たちで作りたかったんですよ。自分の性格的にも、イチを5とか6とかにするのは嫌で、ゼロをイチにしたかったんです。

――それで物件を探して。

ヒキマ:さっき話したSTUDIO JOYは、数年前に移転するまで同じビルに入っていたんですけど、そこにいたときにビルのオーナーが入ってきて、偶然にも僕の生まれ育った家の近所のおじさんだったんです。それで「俺バンドやってるんですよ」みたいな話になって、しばらく談笑していたら、「俺ももう年だから、何かやりたいっていう若いヤツがいたら紹介してくれよ。応援はできるから」って言ったんです。そのときは既に物件を探し始めていたので、「俺、ライブハウスやりたいです!」って。

――マンガみたいな展開ですね!

ヒキマ:オーナーは他にもビルを持っていたので、そこから物件をいろいろ見させてもらって、最初は違うところに決まりかけていたんですけど、他のテナントとの兼ね合いで直前にダメになっちゃったんです。いまの場所はもともとフィリピンパブだったんですけど、営業していないみたいだったので、「あそこは借りられないんですか?」と言ったら、もう店やめるらしいという話で、借りられることになって。内見したときに「口約束は嫌だから、一ヶ所だけ壁ぶっ壊していいですか?」と言って、壁を壊させてもらって、「これで契約で!」って。

――すごい契約の仕方(笑)。

ヒキマ:それでオーナーからお金を借りて、ladderladderを作ったんです。

――ビルのオーナーには、かなり助けられてるんですね。

ヒキマ:はい。ずっとですね。コロナのときも、たくさん相談に乗ってもらって。これはコロナ禍でよかったことのひとつなんですけど、オーナーと関係がよくなりました。「この状況でも店を開けたいんですけど、どうですかね?」「こういう街だから、やめといたほうがいいんじゃない?」とか。それもあって最初にコロナで休業した3月の家賃は、支払いを待ってもらえたんです。

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●全員から「無理だよ」と言われた

――秩父でライブハウスをやるのは大変だと思うんですけど、実際どうなんですか?

ヒキマ:大変ですよ(笑)。お客さんもバンドも、絶対数が圧倒的に少ないので。そもそも若者が少ないんですよ。

――秩父の街自体は、最近ちょっときれいになって、人通りも増えた気がします。

ヒキマ:いまはコロナで少ないですけど、数年前から観光に力を入れるようになって、観光客は増えました。でも、地元の学生バンドは、どんどん少なくなっていて。去年文化祭でladderladderを使ってくれた高校も、1時間くらい離れた街の高校でしたからね。それに大学もないから、高校を卒業したら高確率で上京しちゃう。

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――秩父から都内なら通える距離じゃないですか?

ヒキマ:通っている人たちもいるんですけど、それはそれで地元で過ごす時間は必然的に少なくなるじゃないですか。僕も大学生のときは通ってましたけど、全然帰ってなかったですから(笑)。だから絶妙な地方なんですよね。東京までの距離とか、街の状況とか。ザ・地方っていうほど地方じゃないというか。

――そもそもライブハウスをやるには難しいエリアだったというか。

ヒキマ:そうですね。ただ、それは承知で始めているので。ladderladderを作ろうと思ったときに、ライブハウスをやってる先輩とかに相談に乗ってもらったんですけど、全員から「無理だよ」と言われたんです。やっぱり田舎だけど田舎すぎてないし、大学もないから学生もいないし。

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●ここで人生ひっくり返されるヤツがいる可能性を信じている

――それでも10年以上続けてきたわけで、これを読んだ人に「コロナで苦しいなら諦めればいいじゃん」とは思ってほしくないんですよね。勝手な言い分ですけど。

ヒキマ:それで言うなら、このコロナを乗り越えるっていう言い方は、僕は正しくないと思っていて。これが収束して、いままで通りに戻るのかわからないですけど、いろんなことが緩和されて、みんな少しゆとりができて、ライブハウスっていうものが、いままでよりも少しだけ身近に感じてもらえるようになったときがスタートなんじゃないかなと思います。

いまは苦しいですけど、なんとか笑いながらやれているのは、ここがなくならなければ未来があると思えているからで。なくなっちゃったら「コロナで苦しかったもんね」で終わりじゃないですか。でも、言われてみれば苦しいですけど、実際は苦しくないんですよ。もしかしたら半年後のある日に、誰かがこの場所で歌ったことによって、人生をひっくり返されるヤツがいる可能性はゼロではないから。

――ここで人生を変えられた人は、少なからずいるでしょうね。

ヒキマ:その可能性だけはずっと信じているので。それはライブハウスとしても、バンドマンとしても。だから、いつでも閉ようと思えば閉められますけど、ladderladderのスタッフたちがやっているバンドが終わらない限りは続けたいと思ってます。いま一緒にいるヤツらとは、これから先も一緒にいたいので。

いま地元にmabutaっていうバンドがいるんですけど、最初の緊急事態宣言後にすぐツアーをまわったんです。この時期に地方のライブハウスに行って、関係を築いてくるのって、そんなありがたいことないと思うんですよね。逆の立場で、誰かが秩父に行きたいって言ってくれたら、「こんな時期なのにありがとう」と思うから。そういう志あるヤツらには、いなくなってほしくないんです。

――ここがなくなってしまったら、バンドをやめてしまう人もいるかもしれない。

ヒキマ:さっきも言いましたけど、バンドマンは誰かの夢になるかもしれなくて。でも、いまの状況は、その可能性をゼロにしちゃってる。僕はこの先もこの場所をつないで生きていきたいと思ってますけど、それは自分の人生じゃないですか。でも、僕以外のスタッフやってるバンドマンだって、当たり前に年はとっていくし、彼らのモチベーションは自分とは違う。彼らの未来とかを考えると、そっちのほうが眠れなくなります。お金のこととかよりも、そっちのほうがツラいですね。

●ずっとクラウドファンディングみたいな状態

――ライブハウスを続けてきて、このコロナ禍で改めて感じることはありますか?

ヒキマ:ここ10年くらいでライブハウスに来ている人たちの過ごし方が、すごい変わった気がしてて。ladderladderだけなのかもしれないですけど、みんなバンドマンと一緒の感覚で過ごしているんじゃないかなっていう感じがするんですよ。

――僕も何度も観に来てますけど、バンドマンとお客さんの距離感が近いですよね。

ヒキマ:そうそう。良くも悪くもですけど。でも、そういう人たちの姿を見ることが、僕の活力になっているんです。僕が遮二無二がんばって、なんとしてもladderladderを残したいんだと思っているというよりは、ここを大事にしてくれている人たちが、「あー、明日もがんばろう」って言いながら帰る姿を見て、来月もこの店があり続けられるように、またイベントを組もうと思うんです。

――自分が誰かの役に立っていることを感じられる場所みたいな。

ヒキマ:そうですね。だから自分じゃないんですよ。自分がバンドでライブをやるときに、そう思うことはあまりないんですけど、ライブハウスの人としては、ライブを観て帰るお客さんの顔つきとかで、すごいパワーをもらえるんですよね。

だから、楽しみなことはいっぱいあって、自分でも怖いくらいポジティブですよ。それにライブハウスより苦しいところなんて、山ほどあると思うし。ただ今回、身に染みて思ってるんですけど、12年前にオープンしたときから、ずっとみんなに助けてもらっていたから、つないでこれたんですよ。僕が稼いだことなんて一回もなくて。ladderladderに出てくれるバンドがいて、そのバンドを観に来たお客さんがお金を使ってくれて、ずっとクラウドファンディングみたいな状態じゃないですか。

――確かに、そういう考え方もできますね。

ヒキマ:それがコロナ禍になって、営業がなくなって、まわりの人たちが助けてくれて。すごい感謝しましたけど、そこで改めて気づいたのは、そもそもずっと助けられていたということなんですよね。

だから、コロナで助けてもらったから恩返ししたいというよりは、いままで通り、ここで自分たちが出るときは(演奏する)30分を最高な時間にしたいし、ここで1日を作る店の人間としたら、お客さんが楽しんでくれる日を1日でも多く作っていきたいし、やっぱり誰かの人生がひっくり返るような瞬間を作れる場所でありたい。ずっとこだわってきたのは、それだったので。

●支えてくれる人がいるからバンドを続けられる

――HOCKLE HOCKのほうは、もう20年くらいですか?

ヒキマ:20年以上ですね。

――ずっとメンバーチェンジしつつ、続けているわけじゃないですか。

ヒキマ:なんでなんですかね。

――別にやめるものでもないと思いますけど。

ヒキマ:そうなんですよ。「やめるものでもなくね?」というのはあります。やめられる機会は何回もありましけど、メンバー脱退とか悪いほうの節目があるたびに……。

――「じゃあ、俺が弾きますよ」みたいな。

ヒキマ:そういうことだったんです。メンバーが見つからなくて、やめていった人もたくさん見ているし、こいつは続けるだろっていうヤツがやめていくのを何度も見ているじゃないですか。だから、僕はラッキーなんですよね。考え方によってはアンラッキーなのかもしれないけど(笑)。

――やめさせてもらえない(笑)。

ヒキマ:それもあるときに思ったんですよね。秩父のバンドで、解散ライブをした子がいて、お客さんも少なかったんですけど、その解散ライブを観ていたときに、なんかカッコよかったんですよ。それと同時に、僕にはそういう花道がないなと思いました。

――もうここまで来たら解散してほしくないですけどね。

ヒキマ:それはわかんないですよ。メンバーあっての自分なので。

――別に一人でもできなくはないじゃないですか。

ヒキマ:いやいや(笑)。それで言ったら、やり方なんていくらでもあるじゃないですか。でも、単純に「経た」んだと思うんですよ。10年前だったら、サポートや掛け持ちのメンバーがいるのは嫌だったんですけど、だんだん受け入れられるようになってきて。年齢が上がっていって、この年になってもバンドを続けさせてもらえる奇跡みたいなことに甘えたくないから、突っ張るのはずっと突っ張ってるままなんです。だけどラッキーなことに、それを支えてくれる人がいてくれるから、またバンドできて、それが続いているんです。

●「どうやったら全員ぶっ倒せるんですかね?」みたいなバンドがいてほしい

――この先は、いち店長として、いちバンドマンとして、どうしていきたいですか?

ヒキマ:いち店長としては、繰り返しになりますけど、誰かの人生がひっくり返るところを見続けたい。それでひっくり返された子がバンドを始めて、もしくはバンドをやってた子が、ここでバンド観や人生観が変わって、またそいつが誰かの人生をひっくり返す。そのループというか、そういうのをつなげる場所でありたいなとは思いますね。バンドのほうは、そもそも勘違いで始まったようなバンドだからなぁ……。

――そうなんですか?

ヒキマ:若いときにバンドを組む感覚って、みんなそうなんじゃないかなと思うんですけど、僕はライブハウスで人生ひっくり返されたので。

――バンドを始めたきっかけは、なんだったんですか?

ヒキマ:暇だったんです。西武鉄道で大学まで通っていたんですけど、別の学校に行ってる同級生とよくサボってて。池袋に向かう電車のなかで、このまま大人になっちゃうの嫌だなと思って、そいつに「バンドでもやる?」みたいな。それが19歳か20歳のときでした。

――その前に楽器は弾いていたんですか?

ヒキマ:弾けなかったんですよ。ギターも持っていなくて。COKEHEAD HIPSTERSのKOMATSUさんに憧れてたので、最初はピンボーカルでした。でも、ピンボーカルが嫌で、ギターを練習して、「ギターを持って歌っていい?」ってメンバーに言って。そこからギター&ボーカルになったんです。

―それが20歳のときですか?

ヒキマ:21歳だったかな。初めてライブした日は覚えているんですよ。「AIR JAM '97」の次の日。当時のHOCKLE HOCKのメンバーと行って、Hi-Standardがやってるのを後ろのほうから観て、「余裕だな」と言って帰りました(笑)。

――若気の至りですね(笑)。

ヒキマ:全然余裕じゃなかったですね(笑)。でも、いまの若い子たちにも、「俺たちで世界を変えてやるぜ」くらいな気持ちがあってほしいんです。ライブハウスをずっとやってて、そういうヤツがいないなって思うんですよ。学校に来る生徒みたいな子たちが多くて。「どうやったら全員ぶっ倒せるんですかね?」みたいなバンドがいてくれたら、超うれしいですね。

――威勢のいい若い子が出てくるといいですね。

ヒキマ:いまは難しいですよね。既にやっている連中は変わらずいられたとしても、これからやりたいと思っている連中は「やるな」と言われてるようなものだから。コロナでいちばん悲しいのは、新しい人と出会えないことなんですよね。

それでも配信を押すってなったら、プラットフォームとしてYouTubeとかを使うわけじゃないですか。いま流行っている音楽も、そういうものが増えてきてますし、僕自身もけっこう好きなんですけど、そうなると生で、自分の体から鳴っている音を感じてもらうことを知らないまま発表していくことになる。お客さんが何人いるかわからないライブハウスに行って、その人に向けて音楽をやるっていうこと、音楽だけじゃなくて、人に向けて表現をするっていうことをなくしたくない。だからライブハウスはなくしたくないなと思うんです。

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ヒキママサノリ/Masanori Hikima
1976年10月7日生。埼玉県秩父市出身。1997年に前身バンドを結成し、HOCKLE HOCKへの改名を経て、Vo&Gtとして活動。2002年にWONDERS、GLEAM GARDENとの3way split『Scooping Goldfish』、2006年にはTIGHT RECORDSから初の単独作『Life's a game,everyday』を発表。2009年に秩父でライブハウス「ladderladder」を設立。HOCKLE HOCKでは幾度かのメンバーチェンジをしながら、2014年に約8年ぶりのアルバム『HOCKLE HOCK』を発表。現在も秩父を拠点に活動を続ける。
https://ladderladder.net/
http://www.hocklehock.net/

以下よりサポートしていただいた売上は、noteの手数料を除いた全額を取材協力費としてladderladderにお支払いします(2021年12月末日まで)





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