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未来の自分を苦しめがちな大人たち

「言わなきゃよかった」と思うことがある。

それは、この社会を生きていくうえで、多くの人が円滑に物事を進めるためにポロっと言ってしまう「またご飯に行きましょう」「ぜひ」のくだり。

「〇〇をやってみたい」なんて、本当に興味があって実行に移したいのかは分からないけれど、なんとなく今、この瞬間に「私がもし〇〇をしたらどうなるのかな〜」と思ってしまったために、言ってみたこと。

そんな、「本当に実現したいのかどうか不明なこと」に対して、油断するとうっかり足を踏み入れてしまう。



もちろん、どれも言っていいことばかりである。発言は自由な世の中だし、「社交辞令」の意味でもある通り【つきあいをうまく進めるための儀礼的なほめ言葉やあいさつ(参照:goo国語辞書)】は、自分の身を守るために使ってしまう場面は大いにある。発言によって何かのヒントを得たりもするから、大前提として言ってしまうのも問題ない。

ただ、私は漠然と「また社交辞令を言ってしまった」と嘆くよりも、「また未来の自分を苦しめてしまった」と感じてしまうんだなあ。

できるだけ「実現させたいと思う性格」だから。

口だけにならないように、自分の言葉に責任を持つよう常に意識。自ら「やってみたい」と言うのであれば、全力で実現を狙っていく。フリーランスになってからは、一層自分が発言する言葉には注意をしている。(もちろん失敗も多いですが……)

信頼をなくすのが怖いから。「口だけじゃん」になるのが怖いから。

でも何よりも「口だけで終わらせてしまった自分」が好きじゃない。

だから「やりたい」と思ったのなら「やる」。「行きたい」と思ったのなら特別な理由がない限り「行く」。無理な場合はちゃんと事情や気持ちを説明する。小さな口約束を守るように気をつけている。

きっと社交辞令が好きじゃない人は「口だけで終わった自分が好きになれない」が理由な人もいるはず。自分を好きでいられないのが一番つらいよね。うっかりと「本当に実現したいのかどうか不明なこと」に足を踏み入れてしまった暁には、私はすごく苦しくなってしまう。

迂闊だった。また私はやってしまった。それ本当に行きたかったの?行くつもりはあったの?それ本当に実現したいことなの?自分で頑張れるの?

「どうしようかなあ。あんまり乗り気はしないけど、言ってしまったしなあ」と悩み出す始末。未来の自分を苦しめているじゃん。

この流れが、とても苦手だ。





私は未来の自分を苦しめたくない。いいプレッシャーは与えたいと思うけれど、苦しめたくはない。

プラスにならないことで「どうしようかな」と悩むのは、私にとってはかなり気を病む案件なので回避したい。実現するための試行錯誤で悩みたい。

反射的に言葉を返すのはもちろん賛成だけど、1秒でもいいから「それ本当?」と自分に問いかける。本当に実現したいことなの?

発する言葉に自分の“意思”があるのなら、与える印象はガラッと変わっていくんじゃないかな。

未来は楽しく待ちたい。

最後まで読んでいただきありがとうございます!短編小説、エッセイを主に書いています。また遊びにきてください♪