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ほどほどで作ったものは、やっぱり“ほどほど”にしか伝わらない

「やっぱり、“作るもの”には時間をかけないとアカンよな」

私と分野は違うけれど、コンテンツを生み出す仕事をしている弟と話していたとき。

自分が作るもの(私だったら原稿)に対して、「何が大切だろうね」という話をしていたら、弟がぽろっと言ったことにガツンと頭を殴られたような気持ちになった。

「そやんなあ」と、これまで歩んできた社会人人生を思い出して、なんだか消えたくなってきた私……。

「時間がなくてやっつけでやった仕事って、熱意が感じにくかったり、ミスが目立ったりするからさ。やっぱり丁寧にやった仕事は受ける印象が違うと思うんよな」

グサッと心に深く刺さって、そろそろ倒れそうになっているけれど……なんとか深呼吸をして立ち直る。

弟が言っていること、その通りすぎて泣ける。



noteを書いていても思う。

時間をかけて何度も読み返して推敲した記事って、不思議と伸びるんだよね。

例えばこの記事。

編集部のおすすめに載ったわけではないのに、なぜか160以上のスキがつき、PV数も伸びて驚いた。

でも、なんとなく伸びた理由が分かるんだよね。

だってこの記事、時間をかけて書いたし、自分の想いを伝えたく、何度も行ったり来たりして書いたから。

時間をかけて「1人でも多くの人に届いたらいいな〜」なんて考えて書いていた気がする。同じように文章を書く仕事をしたい人が「こんな人もいるんだ」と思ってもらえるような。そんな小さいな引っかかりになれば最高だよなと、自分の気持ちを召喚させるに加えて、考えていた。

もちろん、いつも書いているnoteも楽しいし、思い入れがあるものばかりである。

だけどじっくり考えて書くと、地に足がついたというか、丁寧な作品ができるんだなと思った。


何事もそうだけど、忙しいとつい“ほどほど”で対応してしまいそうになる。

でもこれって、ものを作る人(コンテンツを生み出す人)は気をつけないといけない。

ほどほどで作ったものは、やっぱり“ほどほど”にしか伝わらないんだよね。

だってほどほどなんて世の中にたくさんあるから。すぐに埋もれて消えてしまう。

技術的に100点満点なのかは分からないし、上には上がいるからなんとも言えないけれど……まずは自分の中で「やりきった!」といえる状態で、ものを作るのが大切だと思う。

(たとえば、文章だったら文法が綺麗で完璧というものより、多少荒っぽくてもいいから、ちゃんと想いを載せられるかなどを、妥協せずに工夫する、出しきることが大切だと思う。だ〜っと気持ちを出しきった記事は日本語がちょっとおかしくても不思議と感情が動かされるのよね。時間を確保して100%出しきれているかは自問自答したいなあ)

ライターの仕事はもちろん、書いているnoteや発信しているTwitter。完璧にせねばとプレッシャーになるんじゃなくて、まずは自分が「頑張ったな」と思えるものを出していきたい。

荒っぽいけれど、丁寧に、心を込めて。文章を生み出せる人になりたい。

最後まで読んでいただきありがとうございます!短編小説、エッセイを主に書いています。また遊びにきてください♪