【短編小説】 いないと困ります
辞令を言い渡されたとき、ふと片倉さんのことを思い出した。
昨年の3月に退職した先輩。いつ、どんなときに声をかけても必ず手を止め、相手の顔を見て「どうしたんですか?」と言ってくれた片倉さん。誰に対しても敬語で、仕事を一生懸命こなし、常に笑顔で優しい人だった。私と4歳しか離れていなかったけれど、今時こんな人もいるんだと驚いたっけ。図書館の司書か保健室の先生として働いていそうな雰囲気だった。
上司からも部下からも、取引先からも愛されていて、「この人はきっと長く勤める人なんだろうな」と思っていた。もし結婚しても、妊娠をしても、この人はまた戻ってくる。私たちをおいていくような人じゃないと思っていた。
*
「片倉さん、本当に辞めちゃうんですか」
退職日当日、黄色いミモザのブーケを抱えビルを出ようとする背中に思わず声をかけた。先ほどあれだけ部署のメンバーと「ありがとうございました」「寂しいです」と言ったばかりなのに。ブーケと色紙と一緒に、ちょっとしたお菓子も渡したのに。これじゃあ片倉さん帰れないじゃんと思いつつも、どうしても声をかけたくなった。
「片倉さんがいなくなったら困りますよ。寂しいです」
足を止め、くるりと振り向いた片倉さんは、一瞬間をおいてからにっこりと微笑んだ。
「今井さんなら大丈夫ですよ。ふふふ」
いつものあの笑顔に胸が締め付けられる。嘘だ、片倉さんがいないと困る。私はあんなふうに優しく対応ができない。仕事が回せない。
「でも……」
「絶対、大丈夫ですから。頑張ってくださいね」
にっこりと笑って片倉さんは歩き出す。何か声をかけたかったけれど、もう何を言えばいいのか分からなくなった。
*
「今井さん、本当に異動しちゃうんですかあ?」
舌足らずな声で後輩のあずみが言う。来年度から他部署に異動するのは私だけで、今日は部署のメンバーが開催してくれた送別会だった。
「そうだよ。会社の辞令だからね、仕方ないの」
「今井さんがいなくなったら困りますよ〜。もう部署回らない!」
困り顔をしたあずみは、酔いが回っているのか私にべったりともたれかかってくる。人懐っこいあずみには最初の頃は手を焼いたが今となっては可愛い後輩だった。私たちの様子を見かねたもう1人の後輩が「こら!もう離れなさい!」を叱っている。
「ちょっとごめんね、お手洗い」
あずみの攻撃をさらりとかわし、トイレへと向かう。
このチームでの勤務も今日で終わりかと思うと、なんとも言えない気持ちが込み上げてくる。大変だったけれどあっというまだった。優秀とは言い難いが一生懸命働いてきたつもりだ。「いなくなったら困る」とみんなが言ってくれて、嬉しいような切ないような不思議な気持ちになる。私がいなくなったらどうなるんだろう。ちゃんと回るかな。
*
トイレから戻り個室の扉を開けようとしたとき、「今井さんがいなくなると、XX案件の資料作り頑張らないとな〜」とあずみの声がし、はたと手を止める。
「取引先の人ちょっと怖いからね。あ〜今井さんがうまくやってくれていた部分、これから全部私が担当するから怖いな。あはは」別の後輩の声がする。
「そうだ部長、この間お話していた新規案件の件なんですが……」若手のエースである峰田くんが部長に話しかける声が聞こえる。
「新入社員どんな子だろうね。うちの部署にも来てくれるかな」これは私の同期だ。
「4月は部署でお花見ですよね?担当どうします?」真面目できっちりと仕事をこなす堺さん。こんなところまで業務の確認をしなくていいのに。
一瞬、扉の向こう側が、別世界のように感じた。自分という存在が一体どこに行ったのか分からなくなった。
「いなくなったら困ります」という言葉が頭の中で響く。そっか、「いなくなったら困ります」って「仕事」が困るからか。「あなた」が困るからか。私個人の存在は二の次だった。
ーー今井さんなら大丈夫ですよ。
片倉さんの笑顔が蘇る。
ああ、そうだ。あのとき片倉さんは私の表情を見ていた気がする。今日のあずみのように私は困り顔をしていたのかもしれない。見抜いていたのかもしれない。
本当は、いなくても困らないことに。
「いなくなったら困ります」は、“私”が困るから言っているだけだった。会社が困るからじゃない。本当は“私自身”が困るからだ。“私”の仕事が増えるから。片倉さんがいたら、仕事が、コミュニケーションが、空気が、楽になるから。あの優しさに甘えておけば、いろんなことが楽になるからいてほしいだけだった。
私は片倉さんという存在を、ちゃんと見れていたのだろうか。
*
体がずしりと重く感じた。
扉のすぐ近くに飾られているミモザの花と目が合う。強く生きろと言われているような気がした。
こちらは、第5回文芸課題"ぶんげぇむ" 参加の記事です。
◆お題:「ミモザ」「図書館」「ふたり」
◆執筆ルール:
・お題に沿った作品を作ってください。
・小説/エッセイ/詩 などの形式・ジャンルは問いません。
・フィクション/ノンフィクション問いません。
・今回のお題は「キーワード」ではありませんので、お題を本文に入れ込む必要はありません。
最後まで読んでいただきありがとうございます!短編小説、エッセイを主に書いています。また遊びにきてください♪