死について考える Part.22

今日は仕事と死について少々。

死ぬまでに長い時間を費やす仕事。本当に大半の時間を占めるわけだが、大半の時間を占めるからこそ、無駄な時間にはしたくはないと思いますよね。仕事が無駄な時間になっているのかどうか。これを考えていく。

やりたい仕事をやれていれば、仕事の時間は無駄な時間ではないでしょう。しかし、やりたい仕事をやれていない、やりたくない仕事をしている場合は、無駄な時間になっているでしょう。やりたくない仕事をしていても、他のことに役に立つ、もしくは、将来的に役に立つ、やりたい仕事につながる場合は無駄ではないでしょう。

ようはその人の気持ち次第。仕事をどう感じるか、どういう風に自分のために使えるか、それが大切。何か目標を、目的を持って仕事をすることである程度それが解決できそうだ。目的は簡単な内容から、もっと先のことまで。何かのためにといったことまで広げられると良い。それがお金だとどうかと思うが。お金のために働くのも良いと思うが、あまりに当たり前すぎるわけで。

お金以外のために働くこと、そういうことをやっていけるといい。何のために働くのか。例えば、BtoCならお客様のためにだ。お客様に喜んでもらうため、が一番妥当な答えなのか。そんな簡単なことでいいのか。簡単なようで難しいのか。喜んでもらうために様々な努力が必要だろう。様々な工夫が必要だろう。

喜んでもらうため以外には何があるのか。

何だか話が脱線しているようだが、これも人生の目的といっても過言ではない。死ぬまでに仕事でほとんどの時間を過ごすのだから。仕事で成し遂げることは人生で成し遂げることにニアリーイコールでも問題ないではないか。

さて、私はBtoCな仕事なわけだから、先程の例をそのまま考えていかねばならない。お客様へ何を提供すべきなのか、仕事を通して、何を伝えたい、いや、与えたい、いや、なんだろう…

もっとこう、あると思うのだが、なかなか考えが進まない。

やはり、これは私自身が目標も、目的もなく仕事をしているということの証明だ。ただただ、仕事をしている。ただただ、死への時間を浪費しているわけだ。人生を浪費しているわけだ。

何か、自分のためなのか、仕事で関わる人へのためなのか。自分のために働くことはいけないのか。どこかで悪というのも見たことがある。しかし、それが正として仕事をしてきた。

まずは自分のためなのではないだろうか。他人のために仕事をするほど自立もしていないし、力量もないのだから。様々な記事を、意見をいろんなところで拝見するが、どこも、他人のため、自分のためだけではダメと。それはわかっている。だからこそ焦っている。でも、それは余裕が出てきた人がやるべきではないだろうか。私はまだ余裕がない。人より成長も遅いからだ。これからなのだ。これから余裕を出すように、今努力をしなければならないのだ。

それでも、やはり、世間で評価されるのは他人のために何かができる人であろう。世間の評価を気にしているのか?そうだ。私はけっきょく周りの目を気にしているのだ。自分は違うと思っていたが、ぜんぜん違くも何ともない。そのへんの承認欲求ほしいマンと同じなのだ。

だったら、どうこれから変わっていけばいいのか。人生は長いようで短い。そのうち来ることを早める努力をしてもいいのではないだろうか。自分のために、また、人のために、両方同時に進めてもいいだろう。そうだ。そうに違いない。

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