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死について考える【68日目】

スケジュールに追われているとどうも生きている心地がしない。

死ぬまでにのんびりと暮らすのもせっせと暮らすのも自由だ。人それぞれだ。田舎の人はどちらかというとのんびりと暮らしているだろう。都心の人はどちらかというとせっせと暮らしているだろう。どちらが幸せでどちらが良いなんてものはない。どちらも幸せは見いだせるからだ。

どちらかというと世間一般的にはのんびり暮らしている方が幸せというイメージは強いのではないだろうか。しかし、少数の人にとってはそれはどうしても暇で暇で仕方ない。だから、老後に旅に出る人だっているわけだ。そういうのを逆に羨ましがる人もいるだろう。毎日のスケジュールが埋まっているのが羨ましいのか、毎日のスケジュールなんてものがないのが羨ましいのか。

活発的に動く人は、つまり、せっせとしているのが幸せと感じる人は少数なのだろう。暇すぎるのも良くないから、畑仕事でせっせとしているというのもありだが、ここで言うせっせとしているというのは、スケジュールが埋まっている人を指していた。ちょっと語弊が生まれそうなので、忙しい人に変えようか。趣味で畑仕事をしている人は忙しい人ではないであろう。せっせと働いているかもしれないが。どちらかというとのんびりだ。

忙しい人というのは、旅行の予定が詰めてあって、人と合う約束があって、何かの講演をする予定があって、と、そういう人だと、ここではそう定義しよう。その忙しい人は幸せではないのかというとそういうわけでもない。そして、おそらくそういう人は少数だ。

まず、少数から。なぜ少数か。なぜなのかの真理はわからないけれども、考えるに、単純にその領域まで考え込んで踏み込んで行ける人、その考えにまで到達しているかどうか、そういうのではないだろうか。つまり、こうやって、私みたいに、日々何かを考え、それを、私はできていないが、行動に移し、その体験を永遠と、いや、さらに高みへと伸ばして行ける人であろう。のんびりと暮らす状態に入ってしまえば、高みは薄れていくだろうから。ただ、どこを高みとするかで、また違った解釈もできるが、ここでは一度保留しておこう。

少数な理由は、一言で言えば、高尚かどうか、であろう。そして、その少数な人がどういう人か。高尚な人なわけであるが、頭が良いという意味での高尚でもない気もする。社長に近い人達がそういう暮らしをしている確率が高いであろう。しかし、社長というのはみながみな高尚なわけではない。逆に言うと、社長じゃない人もみながみな高尚じゃないわけではない。ただ、確率的に多いであろうということだ。

その少数が、まぁ、社長だったとして、そういう人が忙しい人であって、そして、次。忙しい人というところだ。偉いのだから予定が詰まるのは当り前だが、そうでない予定も詰まっているであろう。旅行などがそうだ。そうした人はそういったところに投資できる余裕があるからできるのか。そうでなくとも、社長でなくとも旅行好きな人もいるわけだ。ここは趣味の範囲なのかもしれない。ただ、行く先にもよるだろう。例えば、ハワイ。そこへ度々行く人なのか、年に1度行く人なのかでかなり違う。旅行といっても、そういった観点で考えた時の旅行という話をしている。

さて、忙しい人は幸せなのか。そういった旅行の話だけを聞くと幸せそうだとも思う。また、仕事が好きであれば、仕事の予定も幸せの一部だろうと。

仕事が好きという考えがやはり少し違う。

大変申し訳無いが、10分経ってしまった。長くなりそうだから簡単にまとめよう。

のんびり暮らすことだけが幸せではない。忙しくても幸せは見出だせるということ。

最近、私は忙しくてどうも生きている心地がしないが、それは考え一つで変えられるかもしれないということだ。

どうせ生きるなら、考えを変えたほうが幸せだろう。

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