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司馬遼太郎「坂の上の雲 2巻」

2巻は、一気にキナ臭くなってくる。

朝鮮を巡る対立からの “ 日清戦争 ” に突入する 。
そこからの “ ロシアの脅威 ” といったところか。

世界史は、いわゆる “ 帝国主義 ” のエネルギーで動いている、と司馬遼太郎は書く。

列強は、植民地獲得に興隆の源泉を見て、たがいに国家的利己心のみで動いている。

人類は多くの不幸を経て、帝国主義的戦争を犯罪として見るにまで進んだ。

が、この当時の価値観は違っている。
それを愛国的栄光の表現とみた。

日本という国は、そういう列強をモデルにして、この時点から20数年前に国家として誕生したのである。

・・・ 実は、この「坂の上の雲」を読む前には “ 帝国主義 ” のことなどよくわかってなかった。

なんとなく、悪いイメージがあるだけ。
ただ、それだけ。

もし、もしも説明しろといわれたら、ちょっと難しい顔でもして「よくないこと」だと答えておけば無難だと、頭の片隅にあっただけ。

それが、一気に理解が深まった読書だった。


伊藤博文が熱い

2巻で登場するのは、伊藤博文である。
主人公といってもいい。
やたら熱いのだ。

伊藤博文といえば、枯れた老人のイメージ。
あごヒゲが、妙にモサッとしている白黒写真が浮かぶ。

初代総理大臣で、大陸のほうで暗殺されたのは知っている。
そのくらい。

自分の中ではイメージはよくない。
“ 伊藤博文 ” という同姓同名の友人がいたからだった。
本人は、博文が “ ヒロフミ ” と濁らないから違うという。 

またそれがアホみたいな顔をしていて「伊藤博文です」とフルネームを名乗るだけでナンパできてしまう。

それに便乗して、さんざんネタにした “ 伊藤博文 ” だったが、本書の2巻で大きく反省させられる。
イメージが一新された。

こっちの “ 伊藤博文 ” は、ふざけたことはしてない。
どこまでも熱く真摯だ。
気迫としては、明治維新の将兵だ。

あっちの “ 伊藤博文 ” の頭を引っ叩いて、本物の凄さを説いてやりたい。

文庫本|1999年発刊|413ページ|文藝春秋

初出:1968年4月 - 1972年8月 産経新聞連載

表紙:安野光雅

※ 筆者註 ・・・ 表紙については “ ばっぷくどん ” さんより、安野光雅氏によるものと、ご一報をいただきました。ありがとうございます。

伊藤博文は日清戦争を回避したかった

両国が戦えば、西洋の列強の漁夫の利となる

首相の伊藤博文は、清国と戦争を起こす方針ではない。
“ 勢力均衡の維持 ” という外交姿勢だ。
これはイギリスの伝統であって、日本はそれを学んでいた。

さらに閣議はいう。
「なるべく平和をやぶらずして国家の名誉を保全する」と。

しかし、清国軍が駐留する朝鮮国に出兵はする。
無法の出兵ではない。
“ 済物浦条約 ” に基づいている。
『日本公使館は、兵員若干名をおき護衛すること』とある。

陸軍大臣の大山巌も、閣議に沿う同じ考えだった。
のちに出兵する参謀には、厳重な訓示をしている。

「アジアを西洋の侵略から守っているのは日本と清国である。もし、この両国が戦うとなれば、西洋の列強の漁夫の利となる。絶対に戦争を誘発する行動はとるな」

清国は “ 眠れる獅子 ” といわれていた。
そんな大国との戦争は不利だと、閣僚はみていたのだ。

・・・ もちろん “ 日清戦争 ” は知っているが、どうして勃発したのかまではわかってなかった。

なんやら、あのあたりの人たちがワーワーしているうちにおきたのだろうな、と浅く思っていただけだった。

それが深い理解に変わっていく。

こういう読書が、なんとおもしろいことか!

そもそもが、なぜ朝鮮に出兵するのか?

出兵の発端は、朝鮮国の内乱だった。
“ 甲午農民戦争 ” がおきて、農民軍が政府軍を破ったのだ。

朝鮮国政府は、清国に救援軍を申し入れる。
この動きを、日本の公使は探知した。

「もし、清国に先手を打たれれば、朝鮮における日本の発言権は永久に消え去ることになる」と外務大臣の陸奥宗光に上申された。

朝鮮をめぐっては、清国と日本は対立をしていたのだ。
清国が “ 宗主権 ” を主張していた。
属国扱いに等しい。

清国に対して、新たに保護権を主張しているのはロシアと日本だった。

ロシアは、シベリアを手中にして、さらに沿海や満州を制圧下に置こうとしている。

日本は、帝国主義があるにしても、多分に受身であった。
朝鮮を清国やロシアに獲られた場合、日本の防衛は成立しないという危機があった。

『朝鮮の自主性を認め、完全独立国にせよ』というのが日本の言い分で、多年、念仏のように言い続けていた。

・・・ 歴史って不思議だ。
年号と出来事の羅列だと、覚えてもすぐに忘れてしまう。

が、ひとつの物語となると、そうも忘れない。
というよりも心に残る。

陸軍参謀本部の川上操六も熱かった

朝鮮への出兵は、閣議で決定した。
条約にある兵員は “ 若干名 ” である。

伊藤博文は、陸軍参謀本部の川上操六を呼び、この点を問い質している。

川上操六からは『1個旅団』という返答があった。
2000名である。

兵員数ではなくて『1個旅団』とだけ答えていたのには、からくりがあった。
平時の場合は『1個旅団』は2000名である。
戦時編成をすれば、8000名まで増員できる。

すでに清国は、5000名の兵を駐留させていたのだ。
それを超える兵力で軍事的に対抗したい。

しかし、伊藤博文からすれば2000名でも多い。
2000名は “ 若干名 ” ではない。
相手を刺激してしまう。
不満を露にして命じた。

「多すぎるな、もう少し兵員を減らすのだ」
「それについては、うけあいかねます」

首相の命令を、軍人が胸を張って拒否をするのだ。
陸軍大臣の意向にも背いて、戦争準備をするのだ。

なぜ、このようなことがおきたのか?

法的根拠があったのだ。
いわゆる “ 統帥権 ” である。

統帥権がなんなのか理解できた

伊藤博文は、苦い顔をした。
川上操六は、眉をひそめて言う。

「出兵するかどうかについては閣議がそれを決めます」
「・・・」
「閣下自身、それを裁断されました」
「・・・」
「しかし出兵と決まったあとは参謀本部の責任であります。出兵の兵数は、我々におまかせください」
「憲法だな」

明治憲法では “ 天皇は陸海軍を統率する ” という1項がある。
軍事作戦を遂行する参謀本部は、天皇に直属している。
首相や大臣の権限外なのである。

この明治憲法の起草者は、ほかならぬ伊藤博文。
統帥権を、よく理解していた。

プロシア憲法を真似たのだった。

『プロシアでは、国家が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国家を持っている』と欧州人から冷笑された憲法だった。
強力な参謀本部方式が内包されていた。

この統帥権は、のちのち軍部が政治を締め上げた。
しかし、憲法をつくった伊藤博文は、そんな毒性が含まれてるとは思わなかったに違いない。

新しい元首である天皇の権限が、先々まで弱まることがないように憲法を起草したのだ。

川上操六の言い方にしても、まったく深刻ではない。
維新創業の元勲として、伊藤博文を尊敬していた。
政治をなんとかしようという野心は、まったくなかった。

軍人として、プロシア主義者として、相手に勝利するという野心があっただけだった。

・・・ 昭和になってから『統帥権干犯』が叫ばれて戦争に向かったのは知っていたけど、それがなんなのか、全くわかってなかったが十分に理解できた。

わるくいえば、元は伊藤博文じゃないか。
別にわるくいう必要もないけど。

清国へ宣戦布告された

話は変わるけど、この読書感想文は、受刑者のときに書いたノートをキーボードしてUPしている。

最初は、本1冊につき、ノート半ページの読書感想文がやっと書けた。
慣れてきたら、本1冊につき、ノート2ページほど。

1冊を読んで、なにか1つを知ればいい。
その1つを、心にメモをする。

2つ知ることができたら、かなり上出来。
3つだったら、けっこう忘れてしまう。

だから読書録を書く。
その感覚で2ページほど。

でも、この「坂の上の雲」に至っては、1巻1冊で7ページか8ページにまで達している。

結局は、抜き書きが多くなっている。
収拾がつかない読書録となっている。

というのも、知った1つのサイズが大きい。
数にしても、10も20も知ることができる。

さらにだ。
これはこうだった。
あれは忘れてはいけない。
これは初めて知った。
あれも覚えておきたい。

これは驚きだ!
これはいい!
すごすごる!

そういう感想が、ページを拡大させている。
収拾がつかなくなっている。

とにもかくにも、もっと省きたい。
明治28年の、朝鮮出兵からの経緯を2行でまとめてみる。
以下である。

たちまち清国軍と戦闘がはじまり、日本軍が勝利する。
翌日には宣戦布告された。

省きすぎだけど、そういうことである。

秋山古好の状況

日本軍の進撃は止まらない。
旅順要塞は、1日で陥落した。

「50隻の戦艦と10万の陸軍を投入しても、落とすのに半年はかかる」とフランス提督にいわれた東洋一の要塞だった。

勝利の最大の原因は、日本軍のほうにはない。
多くの清国兵が逃げ出したのだった。

このころの清国人が、その国家のために戦って死ぬという観念をほとんど持っていなかったからである。

秋山古好は、この旅順攻撃で、初の実践に参加。
銃弾が飛び交う中を、騎兵少佐として大隊を率いた。

「騎兵など無用である」という意見が、陸軍内部に頑固に根を張っていた。

味方のこの意見とも戦わなくてはいけない。
戦場で勝つ以外になく、蛮勇ともいえる攻撃をした。

・・・ 本の中の日本軍の進撃が、自身の読書に勢いを与えているようだ。

知らない領域を、読むことで占領していくかのようだ。
知的な戦闘状態を体験できる読書となっている。

秋山真之の状況

佐世保港には、海軍の戦艦が集結。
“ 連合艦隊 ” が編成され、対決作戦が発動された。

清国艦隊のほうには大型艦もあり、装甲も厚く、砲塔も大きく、さらに砲弾の命中率がも高かった。
が、連合艦隊が、3つの水域で連勝した。

列強各国からは、観戦武官が派遣されて乗艦していた。
「日本の将兵の士気は高かった」と評している。

秋山真之が海軍将校として乗船したのは、小型巡洋艦。
海戦では艦が被弾。
肉や骨の飛び散る光景を、終生、夢で見続けることになる。

正岡子規の状況

もう1人の主人公の正岡子規である。
大学を中退してから新聞社に勤めている。

分芸欄を担当して、新しい俳句を確立しようと、旧来の俳界と対決する記事を書いていた。

意気は大いに感じる。
肺病を患っており、長生きはできないと悟っていて、俳句にかける勢いにも鬼気迫るものも感じさせる。

が、他の面々との取り合わせが、うまくないというのか。
戦場と俳句の組み合わせが、しっくりこないというのか。

とにかく、日本国内は連戦連勝に沸いた。
清国に勝てるとは思っていなかった者が多勢を占めていたからなおさらだった。

戦争が非道だという感覚は、これよりもずっと後になる。
文人の正岡子規であっても、日本の勝利に喜ぶ句をつくっていた。

ロシア帝国の脅威

「遼東半島を返してやれ」という横槍

帝国主義の時代である。
地球は、列強の陰謀と戦争の舞台でしかない。

明治28年。
日清戦争の講和条約の調印が行われた。
日本は、遼東半島を得た。

ところが1週間も経たないうちに「遼東半島を返してやれ」とロシアが横槍を入れてきたのだった。

ロシアは、この要求を世界の公論という擬態をとるため、フランスとドイツと共に申し入れてきた。
“ 三国干渉 ” である。

ロシアは、要求が通らなければ一戦あるのみという態度だ。
太平洋に進んだロシア艦隊は、いつでも東京湾に侵入できる態勢をとっていた。

日本は言いなりになるしかない。
遼東半島は返還された。

「東洋の平和に障害がある」という理由が、ただの口実にすぎなかったとわかるのは、この2年後に、ロシアは自ら遼東半島に軍隊を入れて占領してしまったからである。

そして、清国の敗北は “ 眠れる獅子 ” ではないとの新しい通念を生んで、列強の侵略を加速させた。

列強は争って清国の土地を得た。
鉱山の開発権や、鉄道敷設などの利権を得た。

ロシア帝国の南下政策は進められた

清国にあっては、独裁権をもつ西太后が、ロシアの要求に対して首を振り続けていた。
が、ロシア人たちは、清国の官史の特徴をよく知っていた。

賄賂である。
少しでも仕事をすれば、報酬は当然だと思っている。
高官には金が送られて、巧みに西太后は説得された。

明治31年。
清国とロシアで調印が行われて、遼東半島は譲渡された。

明治34年。
ロシアは、満州の占領を宣言。
清国の抗議にもかかわらず、既成事実として領有された。

満州を含めた一帯は、紀元前から存在した文明圏であり、土足で踏み込むわけにはいかない。

ヨーロッパ諸国は、侵略するにしても老巧な手段を用いたが、ロシア人たちは露骨であった。

「極東を制覇せよ」が、ロシアの大官たちの合言葉にようになっていて、不凍港を得るための “ 南下政策 ” が進められた。

次にロシアは、満州に連なる朝鮮半島を領有する意図も見せはじめた。

時事というものが、国民の関心事になる。
新聞は、ロシアの横暴を批判して、伊藤内閣の軟弱外交を報じた。

・・・ 100年以上も前の状況とは思えない。
現代でも、同じようなことがおこりうる気がしないでもない。


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