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司馬遼太郎「坂の上の雲 1巻」読書感想文

この小説を読むのは真冬がいい。
で、部屋の暖房は消す。

寒いだろうから、毛布を膝に乗せてもいい。
白い息を吐きながら、かじかんだ指でページをめくると、得も知れない熱さを感じる読書ができる。

1巻は『春や昔』という章からはじまる。
明治維新で、260年余り続いた幕藩体制は瓦解。

主人公の1人となる秋山好古は、このとき10歳。
好古は “ よしふる ” と読む。

四国の松山藩の、下級武士の家に生まれた。

やってきた土佐藩の官軍に、松山藩主は降伏。
城下が占領されるのを、くやしい思いをして見ていた。

この秋山好古が、日本陸軍の騎兵隊を創設する。

1巻では、このあたりが描かれる。
明治元年から明治26年くらいまで。


明治を丸ごと描いた小説

2巻では、日清戦争が勃発。
3巻では、日露戦争が勃発。
4巻では、南山の戦い、旅順攻略、遼陽の会戦へと続く。
5巻では、戦線は満州へ。

6巻になってから、日本の騎兵隊は、世界最強といわれたロシアの騎兵隊を打ち破る。

7巻で、日本海海戦の勝利。
このあたりが、この長編のクライマックスか。

8巻では戦後処理に触れて、1930年(昭和5年)に秋山好古が71歳で没して、この長編は閉じられる。

戦争が多く描かれるが、いいとかわるいではない。
人が死ぬからいけないでもない。

ロシアが日本がでもなく、史観や史実がどうの、小説としてこうの、文学としてああだのもない。

ただ、尊い。
こういう人たちがいた、というだけが尊い。
それしかいいようがない。

文庫本|1999年発刊|350ページ|文藝春秋

初出:1968年4月 - 1972年8月 産経新聞連載

士族は没落した

明治4年には『廃藩置県』で中央集権体制となる。
士族となった藩士の家禄は、新政府に没収。

秋山好古の父親は、新たな役所となった県庁に雇われた。
親戚では、農業に転身した一家もいた。

士族とはいっても、多くは生きる術がない。
商売に手を出した者は、ほとんどが失敗。
路頭に迷う者さえ出てきた。

秋山好古は16歳になっていた。
銭湯の風呂焚きをやっている。

明治政府は、政策のひとつに『人材登用』を掲げていた。
そのための学校教育に力を入れる。
各地に、多くの小学校と中学校が開設されていた。

青年の間では、学校に通って勉強をすれば国に雇用されるという風潮になっていたが、学校は有料だった。
県庁に勤めている父親は薄給で、家は困窮していた。

師範学校だったら学費は無料だ。
しかも、1ヵ月10円の生活費も支給される。
が、師範学校は19歳からだった。

「あと3年も風呂焚きができるか!」と若い秋山好古は悩む。

・・・ もちろん秋山好古がそう言ったかはわからない。
が、大胆に想像して、こっちに投げてくれるのがいい。

結局は、歴史の本当のところなどは誰だってわからない。
登場人物が、何を考えたのか、何を話したのかなど、正確なところなどわからない。

投げてくれたら、あとはこっちで想像してみる。
そんなところが、うなずきが多い読書となっている。

藩閥が形成された

秋山好古は、試験を受けて合格。
教員となる。
学校が多く設立されていて、教員が不足していたのだった。

それに、この頃の特徴として、都市よりも地方の城下町のほうが教育水準が高かった。

秋山好古は、愛媛から大阪に出て学校に勤めた。
が、4ケ月してから、年齢を偽って師範学校に入学。
師範学校は、1年で卒業する。

学校教育制度の草創期だったこともあり、こんなこともありえたのだった。

できれば学者になりたいと思っていた秋山好古だった。
ところが、教員を続けて半年ほどしたある日。

旧松山藩士出身の先輩だ。
陸軍士官学校に入学するように迫られたのだった。

陸軍士官学校は、学費無料。
生活費支給。

とはいえ、いきなり先輩から「軍人になれ!」と迫られて返事もできない。

秋山好古の1世代や2世代上の先輩たちは「藩」の意識を未だに抱えていた。

自藩の微弱さを思うとき、薩長が呪わしく、なんとかしようと奮起する競争意識が、この時代のエネルギーのひとつとなっていた。

「あとはなんとかする!」という先輩の熱意に押されて、学校は病欠にして上京。
陸軍士官学校の試験を受けると合格したのだった。

・・・ 秋山好古は、なりゆきで “ 日本騎兵の創設者 ” となっていったのだった。

明治生まれ世代の気質

9歳下の弟も、愛媛から上京してきた。
秋山真之である。

この時期、周辺の友人も4、5人上京している。
流行のようでもあった。

旧藩に捉われずに、東京へ行き何かをするという明治の若者の新しい気勢が、これらのことから思いやることができる。

立身出世の意識が、この時代の青年を動かしている。
個人の栄達が、国家の利益に合致するという点で、誰ひとり疑わない時代であり、この点では日本のなかでもめずらしい時期だったといえる。

・・・ もう1人の主人公は、この秋山真之となる。
真之は “ さねゆき ” と読む。

急激に増強していく日本海軍の将校となる。
日露戦争となってからは、連合艦隊の参謀に。

7巻では、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破り、壊滅させる。

司馬遼太郎は“ 天才的作戦家 ” と称している。

1918年(大正7年)に、秋山真之は49歳で死去する。

文人の正岡子規も主人公の1人

秋山真之の同級生の正岡子規も上京してきた。

2人は下宿を共にして、大学予備門に通っていた。
今でいう予備校である。

「我々は、遅く生まれすぎたのだ」と正岡子規はいう。

年々と学士が増えていた。
今までは、めずらしがられていた。

医科の学士は、すぐさま病院長になる。
工科の学士は、卒業してからは早々に鉄橋を架けるなどの仕事を任されて実績が作れる。
ドイツ語を学んだ学士は、すぐさまドイツ学の権威となる。

創生期の連中は、学問を外国から持って帰ってくるだけで、そのまま日本一の権威になっている。

同じようなことを、秋山真之も考えていた。
このまま学者になっても、どうしても大成できない気がしてならない。

明治19年。
秋山真之は、大学予備門を中退。
海軍兵学校に入学した。

4年後に首席で卒業するが、これは要領と直感が優れていたと下級生に到るまでの評判となっていた。

明治26年。
幹部候補生として戦艦に乗務していた秋山真之は、イギリスへ派遣される。

政府発注で造船完了した軍艦を、日本まで回航する委員に選ばれたのだ。
日本海軍の将兵の操艦技術も、確実に向上してきていた。

世界中の国々の、国力伸長の象徴が軍艦であった。

・・・ 正岡子規も主人公となっている。
表紙の紹介文には、そう書かれている。
しかし3巻になってすぐ、正岡子規は34歳で死去。

8巻まで読み終えたときには「あの正岡子規はなんだったんだろう?」という気がしないでもない。

正岡子規以外にも、人物はいっぱい登場してくるからだ。

伊藤博文小村寿太郎といった政治家。
乃木希典児玉源太郎東郷平八郎といった軍人。
ニコライ二世クロパトキンロジェストウェンスキーといったロシアのご一同。

政治家や軍人が主になっていくなかで、文人の正岡子規が主人公というのも、ちょっと肩身が狭く感じられた。

軍隊が機動的に編成された

明治16年。
秋山好古は、陸軍大学校の入校を命ぜられる。

列強に比べたら小さな存在だった明治政府も、それにならって陸軍大学校を設置したのだが、そもそも日本陸軍が創設してから10年を経てるだけだった。

そんな日本陸軍の強化のため、プロシア陸軍のメッケル少佐が来日して教官となったのだ。

プロシア陸軍は、フランスとの戦争でナポレオン3世を降伏させて “ 欧州最強 ” といわれていた。

メッケル少佐は、日本陸軍の軍制を改めた。

明治初年以来、陸軍の最大単位は “ 鎮台 ” といった。
東京鎮台、名古屋鎮台、大阪鎮台、などとなっていた。

全国の城が拠点。
目的は国内治安だった。

これを “ 師団 ” に改めて、機動的にした。
いつでも師団ごと船に乗って外征するといった活動的な姿勢を帯びた。

あるとき。
陸軍大学校の生徒は『軍隊への物資の補給について』という課題をメッケルから与えられる。

生徒とはいっても、将来の軍幹部として選りすぐりで入校した彼らである。

その彼らであっても、課題の意図がわからない。
軍隊が外国までいって戦うという発想がないからだった。

さんざんと話し合った結果「梅干を多めに持参すればよかろう」という結論に達する。

それを聞いたメッケルは激怒する。

・・・ 1巻で、いちばんに笑えた箇所といえば上記である。

彼らは大真面目に話し合って「梅干が肝心だ」という結論に達していたのだった。

大名家が消えた理由

明治20年。
秋山好古は、陸軍将校を休職。

私費でフランス留学をする。
パリにあるサン・シール陸軍士官学校の聴講生となった。

私費といっても、旧藩主・久松家の依頼。
当主の留学の付き添い係として渡仏したのだった。

明治維新後、旧大名家は置いてけぼりになった。

戊辰戦争で、殿様が自ら兵を率いて戦場に臨んだということは一例もない。

これが、旧大名家が、政治の世界から消えざるを得なかった最大の理由ともいわれている。

それに殿様育ちというのは、政治や行政を担当するには、能力よりも対人感覚が適してなかった。

このままでは、華族は新しい国家から浮き上がってしまう、というのが旧大名家の留学ばやりの理由だった。

・・・ なぜ、旧大名家というのは、明治になってからパッとしなかったのか?

明治からの歴史を知るときに、そんな不思議がどこかに引っかかっていたのだけど、単純にそれが理解できた読書になった。

6人の天才的戦略家

日本軍の騎兵部隊は小さかった。
まず、近代の騎兵に使える馬がない。

陸軍は、西洋馬をオーストリアから6頭輸入。
牧場に放ち、日本馬と交配させて雑種ながらも、騎兵の乗馬を育てようとしている段階だった。

フランス留学3年目になって、当地での秋山好古の騎兵の研究に、陸軍省が期待を持つ。
官費留学に切り替わり、訓令も届いた。

秋山好古は、その日もサン・シール士官学校にいた。
老教官は、騎兵の運用方法を教える。

騎兵は、歩兵や砲兵とはちがう。
純粋の奇襲兵種である。

よほどの戦理を心得て、よほど戦機を洞察して、しかも勇気を持った者でなければ、これを使えない。
下手すれば全滅する。

古来から、その特性とおりに騎兵が使われた例は、極めて稀である。

中世以降では、4人の天才的戦略家のみが、この特性を意のままに引き出した。

その4人とは、モンゴルのジンギス汗、プロシアのフレデリック大王、フランスのナポレオン、プロシアの参謀総長モルトケ

天才は教育でつくることができない。
「君に国には、そういう天才がいるのかね」と秋山好古は聞かれる。

秋山好古は苦笑いをして源義経織田信長を挙げる。
鵯越と屋島の戦い、桶狭間合戦を説明した。

老教官は驚き、何度もうなずく。
以後は4人ではなく6人としよう、といった。

・・・ 司馬遼太郎は、よっぽど源義経が好きらしい。
義経」の作中でも、しきりに騎兵作戦の天才だと称賛していた。

たしか、世界ではじめて騎兵作戦を実行して成功したのが源義経ともあって「そりゃ、いいすぎだろ!」と突っこみを入れた記憶がある。


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