中島義道「私の嫌いな10の人びと」読書感想文
こんなこと書いていいの?
目次を開いて衝撃があった。
この中島義道とは、いったい何者なのか?
いや、その前にだ。
彼が挙げる “ 嫌いな10の人々 ” とは以下である。
笑顔の絶えない人
常に感謝の気持ちを忘れない人
みんなの喜ぶ顔が見たい人
いつも前向きに生きている人
自分の仕事に「誇り」を持っている人
「けじめ」を大切にする人
喧嘩が起こるとすぐに止めようとする人
物事をはっきり言わない人
「おれ、バカだから」という人
「わが人生に悔いはない」と思っている人
すごくない・・・?
1人が1章になっていて、バッタバッタと斬っていく。
いや、バッタバッタなんていう爽やかさはない。
いかに嫌いなのか各々をあげつらって、クドクドネチネチと粘着質に悪口をこねくり回す。
文章は “ ですます ” となっているのが、非常に嫌味。
毒を吐く、という感じでもない。
どうして嫌いなのか、説明は整然とされている。
中島義道は哲学者
題名で選んで借りた官本。
カバーの裏を見て、著者が哲学博士だということを知る。
そして題名は、大袈裟でもなく、煽りでもない。
そのままである。
本当に嫌いな10の人々を書いている。
そして以外だ。
哲学博士なのに、哲学っぽい内容は書いてない。
真面目すぎて、逆に変になっちゃってる人が持つ、独特のおもしろさに感じる。
決して、小バカにしているのではない。
親しみが持てる。
哲学者が書いた本というと、ただ読みづらくて、高尚だろうけど言っていることがわからない印象があったけど、こんなにおもしろく書く人もいるんだという驚きも含まれる。
とはいっても、こんな人。
近くにいたらこっちが嫌だろうけど、著者としては抜群におもしろい。
で、最後は考えさせられた読書だった。
ネタバレレビュー
1. 笑顔の絶えない人
いきなり「私は笑顔の絶えない顔が嫌いです」と中島氏はぶちまける。
以下、笑顔に対しての嫌悪感が書かれる。
いつも笑顔でこられると、非常に居心地がわるい。
なんだか気持ちわるい。
梅原猛の笑顔など、最初みたときには不愉快でした。
が、彼の場合は、顔面筋肉の構造によるものなので、特殊だと思いはじめています。
子供の写真だって、皆、笑っています。
かわいいものですが、こうして子供の自然な感情を圧殺して、悲しくても笑う癖をつける暴力には怒りを覚えます。
全てを、明るいほう明るいほうへと煽っていくのです。
・・・ 笑顔が苦手な自分は同感だ。
これは仕方ない。
母親が「男の笑顔がきらい」というタイプだったから。
とりあえず、責任転嫁しながら読み進める。
2. 常に感謝の気持ちを忘れない人
中島氏は決してブレない。
ブレない漢、中島義道。
以下、抜粋の抜粋になる。
「感謝の気持ち」については、現代の日本では、これを知能指数ならぬ “ 人間性指数 ” とみなしています。
すべての人に感謝を強制してくるのです。
一見して穏やかな日本は、この種の異端尋問が、日々刻々と行われている恐ろしい社会なのです。
私は、自分に対して誠実でありたいから、これらの反抗することにしてます。
・・・ で、中島氏の「感謝の気持ち」への反抗は列挙されていく。
以下である。
私に感謝の気持ちを要求してくる人々は、はっきりと非難して、それでも聞かないときは罵倒して、それでも聞かないときは人間関係を絶ちました。
その成果が次第に現れてきて、いまや、誰も、私に感謝の気持ちを表明しません。
・・・ 以下、30ページほど、感謝を跳ね除けていく日常のエピソードが次から次へと20ほど挙げられていく。
これがおかしいのだ。
思わず声を出して笑えてしまう。
3. みんなの喜ぶ顔が見たい人
「みんなの喜ぶ顔が見たい」とは、なんと尊大な願望なのでしょうか!
結局は、自分のまわりの環境を好ましいように整えたいだけであって、エゴイズムなのです。
もちろん、私も筋金入りのエゴイストですが、少なくともそれに気がついている点、ましだと言えましょう。
・・・ いたって冷静な中島氏である。
嫌悪感を堂々と表す。
ヒステリックさは感じない。
ただ、少なくとも文面はそうであるだけで、面と向かったらどうなのか知らないけど。
とにかくも、以下、ざっくりとした要約をしてみる。
「みんなの喜ぶ顔が見たい人」とは、マジョリティ(多数派)の喜ぶ顔だけが見えて、マイノリティ(少数派)の苦しむ顔が見えないのです。
ここでいうマジョリティとは、数の問題ではなくて「まとも」ということです。
それが「正しい」のだから、彼ら彼女らからすれば、あとは切り捨てればよい。
それを自覚しないで「みんな」と言っている点が鈍感で欺瞞的でイヤなのです。
・・・ すごい。
ここまでヒネくれていて、社会的に通用しているのだから。
中島氏は老獪である。
このあと20ページほど「みんなの喜ぶ顔が見たい」がいかに危険なのか丁寧に説いていく。
ちなみに、さだまさしについては容赦がない。
「関白宣言」の歌詞を全て掲載して、これほど私の心を逆撫でするものはないと、1行1行に不快を覚えると、ずる賢い臭気がすると斬って捨てている。
暗い思い出があるのだろう、と察する。
4. いつも前向きに生きている人
中島氏は、女性が苦手というか、嫌いなようである。
少なくとも「女が大好きです!」という種類ではない。
ここまでも散々と、こういうタイプは女の人に多いとか、こういうことするのは女の人ばかりとか書き立てていて、嫌いな側にかなりの女性が入っている。
で、この「いつも前向きに生きている人」にも、女の人に多いと遠慮せずに説く。
とりあえず、以下を抜粋してみる。
特徴的なことは、自己催眠の匂いがすること。
つまり、心の中を探れば、悲惨なこと、理不尽なこと、身を切られるような屈辱も、自殺直前まで追い込まれた自責の念だってあるのに、それらを無理にねじ伏せているのです。
その生き方の裏には、手で掴んだものしか信じないという単純きまわる信念がある。
生きること、食うことを無上の価値にしてしまっている。
それがなんと言おうと私には気に食わないのです。
とはいっても、彼ら彼女らは、自覚せずにニーチェの徒なのです。
・・・ 哲学者らしく、ここでニーチェが出てきた。
“ 嫌いな人 ” を “ ニーチェの徒 ” というが、これは讃えているのか貶しているのか。
ニーチェという名前しか知らない自分は真意がわからない。
で、今まで、有名な過去の哲学者の名前は、まったくといっていいほど引っ張り出してこない。
カントとライプニッツが軽く出てきただけ。
このあと、自身のエピソードに合わせてフロイトが紐解かれるが半ページほどである。
難解な哲学などは、1回も書かれてない。
すべてが、自身の言葉で書かれている。
5. 自分の仕事に「誇り」を持っている人
この嫌いな人では「誇り」にカッコをつけている。
普通に誇りを持っている人は嫌いではないから、と限定しているからだ。
以下、次のように続く。
自分の仕事にセンチメンタルな生きがいと愛着を持っている人、しかもそれに、何の自己反省も加えていない人に、漠然とした違和感プラス反感を覚えるのです。
私の身近でいえば、哲学者として誇りを持っている人とは、同じ部屋の空気を吸っているだけで不愉快です。
私の美意識では、こんなことをして金をもらっていいのだろうかという疑問に悩んでもいいはずですが、哲学を「誇り」としている人までいる。
いいですか?
哲学がそんなに好きなら、家でやればいいのです。
哲学のような、何の役にも立たないことを教えて金になると思っているのが、そもそものまちがいです。
いま、日本哲学会には約2000人が登録されてますが、ほとんどが大学の先生です。
1億2000万の日本では、せいぜい100人いればいいのではないでしょうか?
大学は、毎月給料を払う必要はないはずです。
即刻解雇すべきです。
とはいえ、解雇されたら生きていけないでしょうから(まったく役に立たないことをしてきたのですから)せめて自責の念をもってもらいたいです。
・・・ 中島氏は、哲学という高みに立ってはない。
かといって、卑下するわけでもないし、自虐でもない。
こういうのをなんというのだろう?
無学者には、一言でいえないのが残念。
でも、おもしろい。
このあと、中島氏の攻撃は、文学や芸術へと飛び火する。
壮大な無駄、徒労、必要のない仕事、大学に寄生、市場価値がない、誰が買うんだ、社会的にはゴミ同様の扱い、どうでもいい、おかしなこと、と散々である。
そして、バスの運転手は誇りに思う、レンジャー部隊は英雄だ、パイロットは感動すると、中島氏は多感でもある。
6. 「けじめ」を大切にする人
本文中には、映画やテレビドラマも多く挙げられる。
中島氏は、けっこう観るようだ。
だからなのか。
セリフを多用した台本のような小話がいくつもあって、人物を軽快に書き出していき、堅い文章の割には読ませる。
いわく、こうである。
けじめを大切にする人は、今の日本には、いたるところにはびこっています。
「いまのドライな世の中では、こんなことは通じないのかもしれない。だが、俺は、やっぱりけじめのない奴はイヤなんだ!」と彼らは叫ぶのです。
偏屈者であるとしても、なお社会から受け入れられることをしっかり計算している偏屈者なのです。
“ 迷惑 “ という言葉も、これに似た構造を持ってます。
“ 人の道 “ とかも同じですね。
“ 情けない “ とう言葉もイヤです。
・・・ 不思議だ。
この章あたりまで読むと、中島氏の印象が変わってくる。
嫌いな人への悪口なのだけど、はっきりと書いているのだけど、不機嫌そうではあるけど、態度は真面目である。
で、非常に思慮深い。
哲学者だから当たり前だけど。
7. 喧嘩が起こるとすぐに止めようとする人
中島氏は、ウィーン大学で教鞭をとっていたらしい。
海外生活が長かったからか。
合理的な考えを好む。
主張もはっきりとする。
それらの主張は、日常生活にも及ぶ。
回転寿司では「席を譲りなさい」と大きな声でいう。
そんな中島氏いわく、こうである。
私は、長年の日本人の生態研究により、このすべての理由がわかっているのです。
わずかでも「対立」を避けたいのです。
与えられた情況を1ミリも動かさずに、外界をシャットアウトして、その中にうずくまっている人が多いのです。
日本のこうした “ 文化 ” に、私はいつまでたっても慣れるととができません。
・・・ 喧嘩についてのついでに、中島氏は、夫婦喧嘩で奥さんを殴ったことも明かしている。
三島由紀夫の小説を挙げて、女性を殴るとこはそれほどわるいことなのか、と疑問を投げる。
現在の日本においては、正当防衛であれば女性は殴ってもいい、これは倫理の問題ではなくて美意識の問題である、と解く。
もしかしたら、DVの気があるかもしれない。
今後「中島義道逮捕!」というニュースを目にしても、自分は驚かない。
8. 物事をはっきり言わない人
「あれだよ、わかるだろう?」
「それを私の口から言わせたいのですか?」
「ねえ、言っても怒らない?」
「ここだけの話だからな」
上記の言葉に、苛立ちを隠さない中島氏である。
“ はっきり言わない ” について中島氏は、おおよそ、以下のようにぶちまける。
ここに、われわれ大和民族の、卓抜たる美意識が潜んでいることは承知してします。
言葉にはっきり出して語ることは、見苦しいこと、野蛮なこと、無礼なこと、はしたないことなのです。
さらに、独特な倫理観もぴったり寄り添っている。
はっきり言った者が、責任をとらねばならない。
・・・ 中島氏の嫌いの表現は限りない。
全身に鳥肌が立つほど不快、薄汚い、卑劣、鼻くそ級、姑息、女々しい、うんざりする、と多彩だ。
ちなみに “ 女々しい ” には(これは差別用語でしょうか?)と、珍しく配慮が付け加えられている。
9. 「おれ、バカだから」という人
この章は16ページほどで短めだ。
まず中島氏は、バカをいくつかに分類する。
自分は、さらに細分化して、まとめてみた。
本当のバカ、普通のバカ、専門のバカ、自覚のないバカ、鈍感なバカ、凡人のバカ、正真正銘のバカ、女のバカ、といったあたりか。
自分で細分化しておきながら “ 利口なバカ ” という存在にも気がついて勝手に驚いた。
ともかく中島氏としては、いくら優秀であっても、人間としては奇形に近いのに、それに恥じ入ることがない怠惰な態度が嫌い、ということである。
あと、本書では、多くの本が挙げられてもいる。
専門である哲学者を登場させることなく、作家や作品を多く挙げている。
ここまでに挙げられている、作家を書き出してみた。
以下に列挙する。
ドストエフスキー、江国香織、唯川恵、小池真理子、藤堂志津子、曽野綾子、太宰治、芥川龍之介、中原中也、マーガレット・ミッチェル、バルザック、夏目漱石、カフカ、ジッド、ルナール、ラ・ロシュフコー、サン=テグジュペリ、三島由紀夫、川端康成となる。
いちばんに引用が多いのは、三島由紀夫か。
三島由紀夫は、好きなようである。
10. 「わが人生に悔いはない」と思っている人
ああ、そう思いたければ、そう思いなさい!
そう思って、さっさと死んでいくがいい!
・・・ すごい。
中島氏は容赦がない。
以下、おおよそはこうである。
誰でもちょっと考えてもみれば、人生に悔いがないことなど、あろうはずがない。
よっぽど、そう思い込みたいのでしょう。
どうして、こんなことになるのでしょうか?
これは、周囲の集団催眠が成功しているのです。
彼は、涙を流して、自分の人生を思い出します。
それを周囲にちょっとでも訴えると「そんなことはない!」と全否定される。
死にゆく者が、わが人生を恨み、まわりの者を恨み、悶えつつ死んでいくと、周りの人たちがとても後味がわるいからです。
・・・ この章は8ページほど。
以下、中島氏は多くを書かずに、好きな映画を挙げて、そこからの想像を披露して、本文は締めくくられる。
あとがき
6ページほどのあとがきは、おおよそ以下である。
私は、相手がどんな思想の持ち主であっても、ちっともかまわない。
そのことで嫌いになることは、まずないと思います。
当人が、その思想を、どれだけ自分の感受性に基づいて考え抜いて、鍛え抜いているかが決め手となる。
つまり、その労力に手を抜いている人が嫌いなのです。
いちばん手抜きがしやすい方法はなにか?
かつ、安全な方法は何か?
それは大多数と同じ言葉を使い、同じ感受性に留まっていることです。
・・・ この本を読みながら、たびたび懐かしい感覚に陥っていたのが不思議だったけど、あとがきになってから納得できた。
中島氏の言の端々が、子供の頃に素朴に思っていたことに、たびたび触れていたのだった。
いつの間に、素直な感受性を抑えていたのだろう?
素朴な疑問は、どこにいってしまったのだろう?
自問がきてから、それらは大人になるにつれて、抑えたり、失せたり、捨てたりしていたことに気がついた。
中島氏は、いい大人になっても、最初に抱いた感受性や疑問をまともに考え続けていたのだった。
さすがは哲学者だと呻る気分でいると、中島氏は「最後に私の嫌いな100の言葉を上げておきましょう」と、あとがきを終わらせる。
最後のページをめくる。
すると、そこには100の言葉の羅列がある。
素晴らしい言葉がたくさんある。
耳にいい言葉もたくさんある。
もしくは、無難で安全で、よく耳にする言葉でもある。
が、これらすべてが、中島氏が嫌いな言葉なのだ。
それらを目にして、声を出して笑って、読書は終わった。