金融主義と個人の自由、あるいは社会からの分離
自律分散という言葉がひとつのキーワードになっている。
新自由主義的資本主義のもと、あらゆるものが大きなグローバル金融主義システムのうちで、自由に身動きすることがむずかしくなっている状況を打開することが必要になっているからだ。
ここまで金融主義的な主体が中央集権的に権力を行使できてしまう現行のシステムにおいては、ひとつの場所での問題があっという間に世界中に影響を与え、世の中全体が混乱してしまう。パンデミックしかり、局地的な戦争しかり。
そんな環境では、レジリエンスもなにもあったものではないだろう。大きなシステムのなかで、周囲からの影響が強すぎて、ひとつの小さな地域の回復を望むことさえむずかしい。
だから、大きなシステムからの影響をすくなくして、各地域が自律分散的な社会を実現しようというわけだ。
しかし、僕らはそういう状況にあるからこそ、ちゃんと思い出す必要がある。こんな世界になりはじめたのは、たかだか160年ほど前のことでしかないということを。
19世紀半ば以降の中央集権国家の成立
たとえば、1861年、サルデーニャ王国によってイタリア統一がなされ、イタリア王国が誕生している。19世紀初頭からの50年にわたる運動の結果、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が最初のイタリア国王となった。統一というのだから、それまでは小国が各地域で独立的な統治を行なっていたのが、はじめてひとつのイタリアという国となったわけである。
おもしろいのは、日本が中央集権国家となった明治維新が1868年で、ほぼ同時期ということだ。統一前のイタリア同様に日本もひとつの国ではなく、藩という小国が独自の統治を維持していたわけで、その体制が1871年の廃藩置県によって明確に刷新されて中央集権国家のシステムに置き換わっていくのがこの時代だ。
いま地域への自律分散的な統治権限の移譲がほんとうに行われるとしたら、廃藩置県を逆転した廃県置藩を進めるということかもしれない。スペインにおけるカタロニアの独立運動やヨーロッパを中心としたミュニシパリズムなどの動きはこういう文脈で読む必要があるのではないか。
この時期に中央集権国家への移行が進められたのは、日本とイタリアだけではない。
プロイセンやオーストリアに分かれていたドイツが国として統一されたのも1871年だ。国家統一という形でなくても、フランスでは1852年からのナポレオン3世による第2帝政、その後の1870年からの第3共和政と統治のかたちを変えながら中央集権システムの基礎がつくられていく。
先行する1848年
しかし、この時代の中央集権化の流れは、明らかに1848年にヨーロッパ各地で立て続けに起きた革命の動きを受けたものだということを忘れてはならない。
1月にイタリアでシチリア革命が起き、2月にはフランス2月革命が、そして3月3日にハンガリー革命、そして、同じ3月の13日にウィーン3月革命へと革命の連鎖が続いた。
これらはその前の世紀に起こったブルジョワ革命とはまた異なる性質のものだった。19世紀の革命の主役たちが求めたのは、自由や博愛や平等のような抽象的な理想ではなく、リアルに明日を生きるための糧やそれを得るための方策だった。
1814-1815年のウィーン会議をへて確立していた従来の君主制に立脚する列強を中心として自由主義・国民主義運動を抑圧することで保たれていたヨーロッパの秩序=ウィーン体制を、一気に崩れ去ることになる事態を動かしたのはまぎれもなく、産業革命以降に深刻化しつつ複雑に絡みあう経済的な格差を生み出していた社会のなかで貧困にあえぐ下層の民衆たちだった。
産業革命により、生産手段や資本が特定の人へ集中する一方、田舎で農家暮らしを捨てて都会に出てきた労働者たちは職にありつけなかったり、ありつけても低賃金で過酷な労働条件に置かれたりする。いまとはまた異なる形での経済的格差があった。中世以来の外敵から守るための城塞都市という街の物理構造が実際にブルジョワジーである市民と、外からやってきたプロレタリアートの下層民衆とを街の内と外に隔ててもいた。
このブルジョワジーとプロレタリアートの二分された社会状況に耐えきれず、下層の民衆たちは行動を起こした。だが、彼らは何か具体的な変化を求めて行動を起こしたというより、とにかくもうこれ以上、いまの状況のまま生きることができないほど困窮していたのだった。
しかし、フランスの社会的連帯経済の研究者、ジャン=ルイ・ラヴィルが次のように書くように、この抵抗の動きは逆に中央集権的な主権の確立につながっていく。
国が市場経済を支持するようになり、一方切り離された非市場経済の領域においては、1848年以前には存在し、抵抗につながる人びとの連帯の基盤ともなっていた互助=共助的なつながりが解体され、「制度的な連帯においては、福祉活動を特徴づけてきた自発的な参加の次元が薄れ、強制的な保険のシステムが幅を利かせていく」ことになった。コミュニティが解体され、バラバラの個がここから生み出されていくはじまりの地点だ。
『ファウスト』と紙幣の発行
いうまでもなく、この中央集権国家化への動きは、同時期の産業革命の進行、帝国主義的に植民地から資源の掠奪を進めるヨーロッパ諸国の動きとリンクしたものだ。産業革命、帝国主義、中央集権国家の3つ組によって資本主義の強化は進められたといえる。
1833年に発表した『ファウスト』第2部で、ゲーテはこんな風に紙幣のことを書いている。
「第1幕 遊苑」のことだ。
財政が破綻した帝国にやってきた、ファウストと彼と契約を結んだ悪魔メフィストーフェレスは、謝肉祭の饗宴のなか、当時ゲーテの頃のドイツでは発行されていなかった紙幣を発行して、帝国の財政を回復させる。
ゲーテがこの話の下敷きにしたのが、18世紀初頭のフランスで起こったジョン・ロー事件といわれるバブル経済の崩壊の事件だと言われている。
戦争や王族の濫費により財政難を抱えていた当時のフランスでは、国債の乱発や貨幣の改鋳で経済が不安定になっていた。そんな折の1716年、スコットランドの実業家ジョン・ローがフランス中央銀行を支配し、通貨発行権を手に入れ、不兌換紙幣(金貨などとの交換を保証しない紙幣)を発行。これが現在のフランス中央銀行のはじまりだ。
ジョン・ローは、中央銀行掌握と同時に、所有していたミシシッピ会社は海の向こうで実態の見えない事業を行ない、巧みな戦略で株価を高騰させた。ローはミシシッピ会社株を増やし、ミシシッピ会社株を買うための資金を銀行から貸し出すというスキームを作った。その繰り返しでフランス政府債務はなくなり、ミシシッピ会社株も高騰を続けた。『ファウスト』の帝国の財政を回復させたカラクリとそっくりだ。
国による紙幣発行権の独占
当然ながら、そんなものは長くは続かない。信用不信を起こし、1721年に会社は倒産。株は紙屑に。
あまりの過熱を不審に思った人たちがミシシッピ会社株と紙幣を金や硬貨に替えようと殺到したが、銀行には対応できる金も硬貨もなく、紙幣の価格も暴落。経済は大混乱したという事件だ。
ゲーテはなぜ事件から1世紀も経った19世紀も30年も経過した時期にこれを書いたのか? それが中央集権化が進んだことと連動しているのだと思う。たとえば、ゲーテの死後ではあるが、1844年、イングランド銀行が条例によってイギリス唯一の発券銀行となっている。ジョン・ローのような民間人が勝手に行うこともできた紙幣の発行を国が独占するようになったわけだ。
イギリスは、18世紀のあいだ、植民地でのプランテーション経営により、繊維産業における他国に対する優位を維持するための染料の材料の栽培を行い、その栽培に携わる奴隷の食糧をまた別の植民地で続けていた。それが成立しなくなるのが、18世紀終わりのアメリカ独立で、イギリスはそれまで奴隷に与える食糧の生産を担わせていたアメリカという植民地を失った。
そうなれば、より植民地の範囲を広げていくと同時に、植民地から得られる富の増加をより効率化する必要が生じる。その錬金術のひとつが貨幣発行の独占だったわけである。
金融は管理を生産から分離する
国家が紙幣が唯一の発行元になることで紙幣の信用度は増したということはもちろんできる。だが、それは度合いの問題でしかない。どんどん紙幣を発行し、経済成長しているように見せるカラクリそのものはローがやったことと変わりはない。
近代国家が紙幣の発行の独占とともに行ったのは、ローのミシシッピ株式会社の代わりに、世界中に広がる植民地と未来からの掠奪によってつくりだす見せかけの価値創出なのだから(しかし、いまお金の発行は国が行なっているわけではない。紙幣の発行は国が握っているかもしれないが、このデジタル化が進んだ時代に紙幣はお金としてはほんの一部、実際には銀行が「信用創造」でお金を生み出している)。
帝国主義が植民地という空間的な延長を、産業革命により地球環境からの掠奪が時間的な延長を可能にしたにすぎない。カラクリそのものを大がかりなものにすることで、信用不信が起こるのを先延ばしできるよう、変えただけだ。その大がかりな仕掛けのために中央集権国家という大きな統治機構が必要だったわけである。
アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、『アセンブリ』で、「金融の特徴は(中略)生産からの分離と離れたところから生産を支配する能力とにある」と書いている。まさに財の生産とその管理を分離してしまうことで、むしろそれによりお金が生産そのものとは離れたところからそれを牛耳れるようになる。
この生産と管理の分離による、集中管理型の生産の独占が、中央集権国家と紙幣発行の独占が連携したカラクリの本質だ。
さらにネグリとハートが「金融資本の独占こそが、ヨーロッパ帝国主義体制の支柱だったのだと述べるのである」というレーニンの言葉を引くように、それは支配者である自分たちから離れた植民地での生産とその遠くからの支配と富の掠奪という帝国主義的資本主義を可能にしたのだ。
新自由主義体制における分散と協働社会
しかし、この生産と管理の分離は、やがて物理的な価値とそれを評価するツールとしてのお金の分離という形で、生産的な価値創造と金融的な信用創造による価値創造の分離となり、後者の圧倒的な優位性につながる(シルビオ・ゲゼルが問題視し、減価する貨幣というコンセプトにつながった「いまのお金」というもののデザイン上の問題点だ)
それが物理的な財の生産や流通が中心だった古い資本主義経済から、信用創造でいくらでもお金という形で富の生産が可能な金融主義的な資本主義への移行につながったのが現在だ。その意味では中央集権が問題であるとはいえ、その主権は国家にはもはやない。金融資本主義の根幹を握る巨大な金融資本を握る限られた人たちに主権を移行したといえる。
先にも書いたように、産業化やそれに続く金融資本化の流れは、個々人を従来のコミュニティや社会とのつながりからどんどん解放=乖離させていく。
産業化は人々を自律した生産手段から分離し、さらに金融資本主義が個々の日常的な活動さえ社会的な生産の一部に組み込み(データが価値となる社会で僕らの検索行為も購入行為もバイタルな活動も社価値生産となり、いまはその社会的な協働生産の結果としての価値がグローバル企業に独り占めされている)、自由を与えると同時に自由を強制するようになる。
果たして、これが自由なのか? 自由に自分のことを自分でやること、いわゆる「自助」の議論にも通じる、こうした状況は果たして、求めるべき自由なのか。
一見自由に職を得られるかのようなギガワーカー的な働き方がより一層経済格差と生活の困窮の問題を引き起こすシェアリングプラットフォームに対する、協同組合的プラットフォーム・コーポラティビズムなどの動きが必要な理由がここにある。
もちろん、新自由主義的にグローバル資本主義の結果もたらされた水道等の社会インフラの民間への委託が引き起こすサービス定価や価格の高騰などの問題に対抗する再公営化などの動きを含むミュニシパリズムの動きや、社会的連帯経済の運動もこの問題に対するオルタナティブな経済システムの確立という対応だ。
それを確認するにはネグリ&ハートのこうして指摘や、
ラヴィルによるこのような問題提供を、
を理解してみる必要があるだろう。
僕らはどんなことを視野に入れて、これからの社会をリデザインしていく必要があるだろうか。
ラヴィルが『連帯経済』のはじめのほうに書いている、こんなことが参考になるのではないだろうか。
あるいは、ネグリとハートのこんな提言にもヒントはあるように思われる。
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