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質より量

質より量を重視すること。

それはブレストやワークショップなどでのアイデア出しの際のお作法としても言われるし、プロトタイピングを通じてユーザーニーズの有無やサービスの方向性等の仮説検証を行う場合においても基本となる方針だ。

細菌はいきなり人間に進化しない

共通する考えは、複数の多様な人々が絡んでの価値創造的な場面においては、質の高いアウトプットをいきなり一発で出すことを狙うより、多様な方向性や視点をもった考え方をとにかく量を出してみて共有したり、テストしたりすることの繰り返しや積み上げを通じて、漸進的に質を上げて行くほうが結局は成功への近道だということだ。

生物進化においても、いきなり細菌のような単純な構造のものが人間を代表とする哺乳類のような複雑な構造を持つものには進化しない。
実際の進化が幾重にも段階を重ねて人間にたどり着いたように、標的になるものが遠くにあるほど、質より量を基本にした戦略が有効になる

ようはそれだけ失敗を重ねることができ、成功以上に失敗から学ぶことが多くなるからだ。
複数人が関わる場面でそれが有効なのも、多くの多様な失敗を作りだせ、それが成功を探るための学びとして活かせるからだ。

感情の意外な起源

果たして、この理屈をちゃんと理解できているか?

もう一度、生物進化の例を引き、射程の遠い標的を落とすのに、どれだけ初期段階の小さな進化が後の大きな飛躍の前提となるかを見てみたい。

生命プロセスと感情の質の並行的な関係は、内分泌系、免疫系、神経系の共通の原型的組織におけるホメオスタシスの働きにその起源が求められる。つまり霧に包まれた初期の生命にまでさかのぼる。内界、とりわけ古い内界を監視し、それに反応する役割を担う神経系の部位は、同じ内界で常に免疫系と内分泌系と連携しながら機能してきた。

と述べるのは、『進化の意外な順序』のアントニオ・ダマシオだ。

感情のような比較的高度な脳を要する生物の機能が進化するのには、それ以前に、内分泌系や免疫系での化学的なプロセスによる体内のホメオスタシス=調整機能や、さらにはその先で神経系による体内の情報伝達を通じたホメオスタシス=調整機能が進化していたことが前提条件であるとダマシオは考えている。

感情の起源を理解し、それがいかに構築され、人間の心に何をもたらしているのかを正しく評価するためには、ホメオスタシスを背景に全体像を眺める必要があろう。

と。

人間社会の文化でさえも

それこそダマシオは細菌のような単細胞生物同士の化学物質のやりとりを通じた単純なコミュニケーションと、そのやりとりが行われる群全体(ある意味、原始的な社会か)の状態の変化にも、哺乳類的な複雑な個体という多細胞からなる生命のなかの感情の変化という、その先には社会性にも通じるような共生状態における調整=ホメオスタシスの連続性を指摘する。

ホモ・サピエンスの知性に欠くことのできない支えであり、文化の形成に重要な役割を果たしてきた強力な社会性は、衝動、動機、情動の装置にその起源を持ち、より単純な生物の素朴な神経プロセスから進化してきた可能性が高い。さらに時をさかのぼると、それは一群の化学物質から進化してきた。しかもその一部は、単細胞生物の内部にも見られる。私がここで言いたいのは、文化的反応の形成に不可欠な一連の行動戦略から構成される社会性は、ホメオスタシスが備える道具の1つだということである。

細菌のような単純な生物同士の化学物質によるごくごく単純なやりとりによる状態の調整が、その先には、人間のような複雑な生命体の感情の起伏のような調整機能、さらには複数の人間による社会性をつくる基盤にさえなる。

細菌同士のやりとりがなければ、この人間社会さえ存在しえなかった。
無数の小さな一歩にどれだけ大きな可能性があるのか、ということだ。

noteのフォロワー数でさえも

いままで存在しない新しい価値を生みだすプロセスというのも、結局、それと同じだ。

到達の目処が立たないような遠い射程にあるようなもの、どこに向かえばよいのかゴールの設定がしようのない未知の領域における未知の成果の達成など、そうした性格のものであればあるほど、小さなアウトプット〜失敗の積み重ねを抜きには何も進まない。

そのことを僕が自分の身近で感じるのは、このnoteでのフォロワー数とかだ。
少し前におかげさまでフォロワー数も30000人を超えたが、それは、僕自身、質よりも量を重視して、書き続けてこれたからだろうと思う。

月に10本くらいは少なくともコンスタントに書けていると思う。それを1年と9ヶ月くらいは続けられている。
もちろん、まったく質を気にせず書いているというわけでもなく、だから、1本あたりの情報量は多くの他の人のnoteに比べて多いだろう。2000文字以下のnoteは書いた記憶はない。また、本当に書くネタが思いつかない時まで無理に書こうとしない。ゆえに、毎日更新というのはスタイルではない。
でも、質は重視しないので、書けるかな?と迷うものでもなんとなくネタがあれば書き始めるようにしてる。そして、95%くらいは実際に書き上げられる。
それも質をそれほど問わずに、とにかく数を書く、コンスタントに書くことこの方が大事だと思ってるからだ。

その結果がこのフォロワー数なのだろうなと思っている。
ただ、量を一定量を以上に保とうとしている理由はフォロワー数を増やしたいわけではなく、自分自身の思考の成果を継続的な活動によって高めたいということではあるのだけれど。

1つ1つのアウトプットのストロークを短くする

質は問わないのだから、1つ1つのアウトプットを作るのに時間をかけるのは無駄でしかない

思いついたら、生煮えだろうといったん外に出す。出さないと次に進めない
スタックしてる暇があったら、とりあえず出すか、いったん捨てて、次のことを考えるかしないとダメだ。

それができない、しようとしない人はアウトプットとアウトプットの間のストロークを短くできない。短くできず、量が出せなければ結局、質は高まらない。
とにかく思ったことを外に出す。
常に何かを思えるように、日常的な思考の感度を高めておく。

日常的な思考の感度を高めるという観点からいえば、結局、普段の生活のなかで周囲の出来事にどれだけ気を配れているかということとも関係している。
まわりの人へのホスピタリティ、相手の言葉や行動を察して、ごくごく些細なことでも何かをしてあげたり言ってあげたり。

結局、そういう日常的な周囲への気配りもアウトプットの積み重ねに通じることだと気づいているだろうか?
まわりを気遣う、自分もまわりの状況を常によくしよう、という配慮をつねに持つこと、そういう観点で周囲の動きに目を向けること。
そこで感じた配慮の必要性を実際に行動として実行すれば、その配慮が正しかったかを確認する頻度も増えるし、そこを通して自分の配慮の感度も高まっていく。

そういう日常的な姿勢も「量にこだわる」ということにつながることに気づいているだろうか?

量を増やすことを自分に約束する

質を問わない限り、量を増やすということは意思の問題であって、自分自身への約束事にして、自分自身を裏切らないことさえできれば、そこまでむずかしいことではない

それをいろんな言い訳を掲げて、自分自身を騙して、自分自身を裏切ってしまうから継続ができない、量を出さないことを許容してしまう。

質が問われない以上、とにかく量を出すことに集中すれば、それを続けることはできなくないはずだ。ただ、有効にそれをしようとするなら、自分ひとりでやるのでなく、他の人を巻き込んでいっしょにやることだ。

それには例えば、ブレストを日課にするとか、そういうアイデア出しの場面が多い職場で働くとか、あるいは、まさにこのnoteの場でほかのユーザーとともに競うように書き続けてみるとか。
継続して量をだすための仕組みなんて考えればいくらでもある。

だから、それをやらないのは結局、意思の問題でしかないし、そうでないなら、やはり最初に書いたとおり、小さな失敗の積み重ねがどれだけ遠くの射程にあるものまで撃ち抜ける可能性を秘めているかがわかっていないかのいずれかだろう。

とにかくまわりへの感度を高めて、周囲に配慮する気持ちなどがあれば、おのずと自分が何をすればよいかはわかるはずである。そして、それはそんなに質が問われるものではなく、それ以上に小さなことでもいいので、日常的に頻度や量を意識したほうが結果的によいものだ。



基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。