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2020年に読んだ23冊の本

全世界的なコロナ禍で、これまでの日常が一変した2020年。

直接的な影響は受けることのない読者においても、やはり読む本の選択はここ数年とは大きく様変わりした1年だったように思う。

そんな1年の読書を振り返ってみるためにも、読んだ本のなかから23冊を抜粋して、
【姿をあらわした暴君】
【新たな民主主義、あるいは価値の分散システム】
【異形の者たちの場】
【この危機を用意したもの】
【非人間的なものとの共生】
【潜勢的なものの回帰】
という6つのカテゴリーに分けて、これらの本を通じてこの1年考えてきたことを整理してみたい。

では、さっそく。

【a.姿をあらわした暴君】

コロナ禍で一変した世界に姿をあらわした者のひとつは、まわりの者のことなど顧みずに暴力的に自身の思いを遂げようと行動する暴君的な存在ではないだろうか。

政治的、経済的な権力をもつものはもちろん、僕らのような一般的な市民のなかにも暴君的なものは眠っていて、それがこうした危機的な例外状態では姿をあらわすことにあらためて気づかされた1年だったように思う。

1.ホモ・サケル/ジョルジョ・アガンベン

収容所とは、例外状態が規則になりはじめるときに開かれる空間のことである。

1995年に書かれたイタリア人思想家ジョルジョ・アガンベンによる「ホモ・サケル」シリーズの第1作。

この本を読んだのが、ちょうど4月初旬の緊急事態宣言で日本もロックダウンに近い自粛状態に入ったばかりでほとんどの時間を家で過ごしていた頃だったから、上の引用にある「収容所」という言葉に敏感に反応しやすい状態でもあった。
この自由の奪われて軟禁されたような状態が今後どこまで続くのだろう?と不安に感じていた時期である。

しかし、その後に実際に起こったのは、違う形の軟禁であったように思う。

コロナとともにある生活をある意味以前と変わらぬように生きることを強いられるような保守的な姿勢がこの国の何もしない政府からも経済界からも強く感じられる。そして、僕ら自身も変わろうとせずに、もはや存在しない「これまでの生活」にしがみついたままだ。だから、権力という場合、変わろうとしない僕ら自身のなかの一部もそこに含まれるのだ。
僕が感じているのは、そんな保守的な状態への軟禁だ。

この一冊で問われているのは、権力における例外と規範の共犯関係であるのだけれど、いま起こっているのは、COVID-19という感染症をもたらすウィルスを必要以上に例外的にあつかい、いつかその例外状態から解放されて、元どおりになるというおそろしく保守的な幻想に僕らを軟禁しようとする暴力的な圧力だ。

「例外化とは一種の排除である」とアガンベンはいう。そして、「例外をまさしく例外として特徴づけるのは、排除されるものが、排除されるからといって規範とまったく関連をもたないわけではない」と続ける。

例外化と規範は共犯関係にある。

規範は、例外に対して自らの適用を外し、例外から身を退くことによって自らを適用する」からだ。

コロナウィルスを例外的な存在として扱い続けることで、そこから身を引いた保守的な秩序のうちに、僕らは軟禁される。それが機能しない現実が目の前にあって、そのことに苦しめられている人が大勢いるというのに。

社会における例外的な存在
その象徴的な存在として召喚されるのが、本書のタイトルともなっている、ローマ法におけるホモ・サケルだ。

「聖なる人間(ホモ・サケル)とは、邪であると人民が判定した者のことである」と、アガンベンはローマ法における特殊な位置付けと認定された人間について論考の俎上にあげる。

邪な者と断定されたホモ・サケルだが、「その者を生け贄にすることは合法ではない」のだという。にもかかわらず、「この者を殺害するものが殺人罪に問われることはない」のがホモ・サケルという存在でもある。

このコロナ禍でもはやこれまでの生活を続けることができずに苦しみながら、それでもまともな支援も受けることのできない状態で放置された人々がこのホモ・サケルに重なってみえたりする。

2.ドイツ悲劇の根源/ヴァルター・ベンヤミン

近代の君主権概念が、最終的には、王侯のもつ至上の執行権に行きつくのに対して、バロックの君主権概念は、非常事態〔例外的な状態、戒厳〕をめぐる議論から発生してきており、非常事態を排除することが王侯の最も重要な機能である、とするものである。支配する者は、戦争、反乱、あるいはその他の破局的な出来事が非常事態を惹き起こした場合、この非常事態における独裁的権力の占有者たるべく、すでに前もって定められているのだ。

この引用にある「非常事態を排除する」ことそのものを機能としたバロックの君主権こそが、いまのこの国の政治からは失われているものだろう。

先の繰り返しにもなるが、この場合の「政治」もなにも現政府のみを指すのではなく、僕ら自身の政治的行動の皆無さも含まれる。

「近代悲劇は、悲しくさせる劇ではなく、悲しみが満足を見出すための劇、すなわち悲しんでいる人々の前で演じられる劇」とこの本でベンヤミンは書いている。

悲しみのなかにいないひとにとっては「悲しくさせる」ことも役に立つが、すでに悲しみのなかにある人たちにとっては表現される悲しみ以上に自分自身の悲しみのほうが優ってしまう。だからこそ、悲しみのなかにある人たちにとって必要とされるのは、「悲しくさせる」ことではなく「悲しみが満足を見出す」ようにするという、より現実的な解のほうになる

この本がテーマとするバロック悲劇が書かれた16世紀後半から17世紀に半ばまでの宗教戦争にヨーロッパが揺れた時代はそういう現実的なものが求められる時代だった。
まさにいまの僕らが置かれているのと同じように。

けれど、いまの僕らには「悲しむが満足を見出す」ための手段さえ与えられてはいない。

ここには悲しくさせる悲劇もなければ、悲しみが満足を見いだす悲劇もない。

あるのは、もはや存在しない日常にしがみつこうとして何度も肩透かしにあうような、すこしも楽しくない滑稽な振る舞いがあるだけだ。

3.道化と笏杖/ウィリアム・ウィルフォード

多くの豊穣の神(と女神)が、冬の不毛から春の新生という自然の変化に対応するような形で死に、また蘇るのと同様、中心の力の体現者たる王も同じ過程を演じてきた。そして不毛性は王の力に対する愚弄であるが故に、王は非常に早くから、自然の大災害の脅威を体現し、あまつさえ計算ずくで人々の愚弄の対象となる分身を持つようになったのである。短い期間のあいだ王の権威の幾ばくかを与えられた後、贖罪山羊として虐待され、殺されさえする身分低き者、すなわち偽王の制度こそが、1人の王が、重荷の下に滅び、超自然的に蘇るという、もっと古代の複合体内部の役割が分化したものである。

いまここにあるのは、存在しない日常に固執する滑稽な振る舞いだけだと先に書いた。しかも、それを演じのは僕らのようなコメディの素人であって、道化ではない

かつて例外を一身に背負った道化はもはやこの世界にはいない。

道化は、失策をおかした王の代わりの贖罪山羊(スケープゴート)となる偽王でもある。
しかし、もはや失策をおかしても何の責任も負おうとしない権力者ばかりの世では、贖罪山羊の出番もないから道化もひさしくこの世からは消え失せている。

道化は、規律と例外の境界の内外を自由に飛び越えられる存在だ。

あるときは地表に顔を出して顕在的であるが、あるときは地下に潜って潜在的な存在となる。
規律を嘲笑いつつも規律を可能にする存在でもある。

聖なる権威に対する嗤いはインディアンたちのアメリカにはありふれたものであった。ヒエメス・プエブロの踊りでは、とうもろこし粉と花粉を撒く儀礼を真似て、クラウンたちが仲間たちの上に砂と灰を撒き散らしたと言われている。ズーニー族のネウェクエ・クラウンたちは神々の前でスペイン語ないし英語を喋るが、これは普通の人々には禁じられている。かつては間に合わせの電話を通じて、(神々は喋らないと考えられていたのにもかかわらず)神々と会話している振りさえしたのである。

道化はときおりあらわれて秩序を壊す。
彼らが王の傍らにいたからこそ、王の権力は可能になったのだと言える。

それは非常事態にあらわれて、もはや機能しなくなった既存の秩序を破壊して、新たな秩序をつくるためには不可欠な暴力=悪であったとも言えるはずである。

4.暴君 シェイクスピアの政治学/スティーブン・グリーンブラット

専制政治は、今いる者のみならず、これから生まれる世代をも永遠につぶさなければ続かない。マクベスがリチャードのように子供殺しとなるのは偶然ではない。暴君とは、未来の敵なのだ。

暴君はいまの人たちにとって敵であるだけでなく、未来にとっても敵である。未来の可能性をことごとく潰して、自身の利益が得られる保守的な状態を望む。

まさに保守的な状況での軟禁状態こそが暴君の治下で起こることである。

いまがその状態でなくてなんだろう。

しかし、残念ながら、暴君による支配はあるように感じられても暴君の姿がはっきりみてとれないのもいまの状況ではないか。

いまの政府がいただけなくても暴君のイメージとは重ならない。

では、暴君はどこにいるのだろうか?
こんな一文にヒントは隠されていないだろうか?

暴君は長続きするものではないと、シェイクスピアは考えていた。どんなに狡猾に頭角を現そうと、一旦権力の座に就くと、暴君は驚くほど無能なのだ。統治する国の展望もなく、持続的な支持も得られず、残酷で乱暴であっても抵抗勢力をすっかりつぶすこともできない。その孤立、疑い、怒りは、傲慢な過信と相俟って、その没落に拍車をかける。暴君を描く劇では、少なくとも共同体の再生と正当な秩序の回復を示唆して終わるのが常となっている。

暴君は本来短命だという。
しかし、いま苦しんでる人々がなんらかのものに搾取され、虐げられた状態は、そう簡単には終わる気配がない。

「暴君を描く劇では、少なくとも共同体の再生と正当な秩序の回復を示唆して終わる」。

いま、この世界に足りないのはおそらくこれだ。

再生されるべき共同体を担う母体となるものが存在しないのだ。そう、本来それを担うべき僕たち自身が暴君さながら他者から搾取や差別を続けて、共同体の再生を願う姿勢を見せようとしていないのだから。

【B.新たな民主主義、あるいは価値の分散システム】

コロナ禍で明らかになったことのひとつに、必ずしも仕事は、企業という組織のなかで、1箇所のオフィスに集まって、中央集権型の指示系統のなかで行わなくてもよいということだ。

むろん、オンラインベースのリモートワークではうまくいかず、オフラインで集まったほうが捗る仕事もたくさんあるから、オフィスワークとリモートワークのどちらが正しいかという話ではない。

だが、確実に分散型で行う仕事の可能性が見出された2020年だった。

ただし、問題がある。完全に分散型のメリットを引きだすためには、この国には民主主義的な場の運営のノウハウやそこに参加する個々人の民主主義的マインドとスキルが欠けているのだ。

2021年以降、見えない暴君と戦って勝利を得るためには、その部分の向上が不可欠である。

5.民主主義の非西洋起源について/デヴィッド・グレーバー

民主主義的革新がなされ、民主主義的価値観と呼べるような何かが生まれるのは往々にして、私たちが文化間の即興がなされる領域と呼んできた空間からなのだ。通例どんな国家の管理統制とも無縁のところで生じるそうした空間のなかでは、それぞれに異なる伝統と経験を持った多種多様な人びとが、互いに折り合いをつけていくために何らかの方法を見つけ出さざるをえない。フロンティア・コミュニティというものは、マダガスカルや中世アイスランドのようなものであれ、海賊船であれ、インド洋の交易コミュニティであれ、ヨーロッパの勢力拡大前夜のアメリカ先住民の諸族間連合であれ、どれもここでの例にふさわしい。

昨年9月、おしくも59歳の若さで亡くなったデゥィッド・グレーバー。僕が彼のことを知ったきっかけがこの本だ。

グレーバーは、民主主義の起源を非西洋的なところに見いだす。

それは18世紀の海賊船の乗組員たちのコミュニティのなかであり、入植者たちの対抗しようとしたアメリカ・インディアンたちのあいだにである。

海賊船にせよ、アメリカの連邦制の元になったとされるアメリカ先住民の〈六部族同盟〉にせよ、ひとつの方向を向いた人びとのあいだからではなく、多様な方向性をもった人びとのあいだの利害調整のコンセンサスのためにこそ、民主主義は萌芽したのだとグレーバーは指摘する。

それはつまり民主主義は、国家を運営するしくみとして登場したのではなく、コミュニティを運営するしくみとして登場したということだ。

異なる人たちのあいだで、秩序を保とうとすれば、コンセンサスをいかにしてつくるかが問題となる。
限られた資源をどのように使うか、何のために使うのか、ということにいかに合意形成を行うかである。

資源の管理のしくみを、国有にするか、私企業による占有とするか、はたまたコミュニティが民主的に管理する公共の所有とするか。

移民の問題なども含めてグローバルなレベルで、資源の問題が喫緊なものとなっている現在、資源の所有をめぐる対立はより強くなっている。

その状態で、社会的、経済的弱者がいかに自分たちへの資源の分配を勝ちとるか? それはコロナ禍で経済的な影響を多く受けている人たちへの支援の問題も含めて切実な問題である。

もちろん、弱者が納得する形で資源を得ようとすれば、自ら動くことは避けられない。

その一例として、メキシコのマヤ先住民族によるサパティスタ民族解放軍の活動をグレーバーは取り上げている。

サパティスタにはコミュニティのコンセンサス形成のための集会(アセンブリ)があり、また、男性支配とのバランスをとるため、女性と若者の会議(コーカス)がそれを補佐する。
この長い歴史をもつコミュニティを基盤として、1996年には惑星全域に広がる国際的ネットワーク、ピープルズ・グローバル・アクションの形成をもたらし、〈土地なし農村労働者運動〉、〈カルナータカ州農民連合〉、〈カナダ郵便労働者連合〉をはじめとするヨーロッパや南北アメリカの多数のアナキスト団体や先住民組織とのコミュニティを形成するに至っている。

僕らはここから何を学べるだろうか。

6.ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論/デヴィッド・グレーバー

イギリスにおいては「緊縮政策」の8年間に、看護師、バスの運転手、消防士、鉄道案内員、救急医療スタッフなど、社会に対し直接にはっきりと便益をもたらしているほとんどすべての公務員の賃金が、実質的に削減された。その結果、チャリティーの食料配給サービスで生計を立てるフルタイムの看護師があらわれるにまでいたったのである。ところが、政権与党はこの状況をつくりだしたことを誇りに感じるようになっていた。看護師や警察官の昇給を盛り込んだ法案が否決されたとき、歓声をあげた議員たちがいたくらいである。この政党はまた、その数年前には、世界経済をほとんど壊滅に追い込んだシティの銀行家たちへの補償金を大幅に増額すべきという大甘の見解をふりまわしたことで悪名高い。にもかかわらず、その政府の人気は依然として衰えを知らなかったのである。

多くの人にとって、仕事は資源分配のしくみに参加するためのひとつの重要な方法にほかならない。

だが、それが誰にとっても何の役にも立たない仕事だとしたらどうだろう?
仕事の結果がクソで誰の役にも立たないだけでなく、仕事をする本人にとっても、仕事をさせる管理者にとっても、役に立たないブルシットな仕事だとしたら。

それがなくても誰も困らない仕事に高給が支払われる一方で、誰にも感謝されるエッセンシャルな仕事が薄給でそれに従事する人を虐げる。

そんな現状に目を向けたのは、やはりグレーバーだ。

いまAIによる自動化の波によって多くの職が危機に晒されていると言われる。

しかし、果たしてそれは本当だろうか。

グレーバーはそのことに疑問を投げかけることで、ブルシット・ジョブの正体を明らかなものとする。

自動化によって、地下鉄職員の仕事が失われるという話となったとき、ロンドンの地下鉄職員たちは、実際の彼らの仕事のほとんどが地下鉄にのる人たち――障害のある人、小さな子ども、お年寄りも含まれる――の手助けであることを主張した。

つまり、地下鉄職員の仕事は、僕たちらがそう思っているような機械的なものとはまるで違っていて、とても自動化に見合ったものではないということだ。
さらには、多くの政治家たちの仕事がなくなっても困らないのと違って、ほんの数時間のストライキでも途端に日常が麻痺しだす違いの仕事に彼らは従事しているのだ。

そんな大事な仕事がそれを担う人々にとって民主的なものではなく、それに従事させる人たちによって管理されている。しかも、直接の管理者ではなく、実際には仕事に直接参加しない株主などによって。

民主主義の危機とは実はこういうところにもあるわけだ。こうした仕事に関するものも含め、僕らは本来もうすこし自由にアクセスな資源に対する自治的なコントロールを欠いているのだ。

そのことを僕は今年学んだ。

7.人新世の「資本論」/斎藤幸平

この囲い込みの過程を「潤沢さ」と「希少性」という視点からとらえ返したのが、マルクスの「本源的蓄積」論なのである。マルクスによれば、「本源的蓄積」とは、資本が〈コモン〉の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程のことを指す。つまり、資本主義はその発端から現在に至るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである。

資本が本来誰もが自由にアクセス可能な公共の資源へのアクセスを私有化によって妨げる。
それによって偽りの希少性が生まれ、場合によって貧困層がその財にアクセスできなくなることもある。

このコロナ禍で必要不可欠なはずの清潔な水、医療サービスなどにさえ、料金の支払いができずに利用できない人が生まれてしまう。実際にアメリカなどでは起こっている問題だ。単に経済格差だけが問題なのではなく、公共サービスの料金が資本の介入によって高額化していることもその一因である。

水や土地など、本来なら誰のものでもないようなものまで私有化されることで、その潤沢さを失ってしまうことを、本書で著者の斎藤幸平さんは指摘している。

さらには仕事や、電気や通信費などの生活インフラと言えるものまで、経済成長を重視する資本が、本来の公共性をそこなわせるために、誰もがアクセス可能な状態をつくることの足枷となる。

ようするに一部の者による私的な搾取である。

しかし、その搾取は、一部の富める者が大勢の持たざる者から搾取するだけに止まらない。
この本のタイトルに「人新世」というキーワードが入っているように、ことは気候変動にも影響する。資本による搾取は地球環境そのものに及んでいるのだ。

斎藤幸平さんは、「資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステム」だという。
「その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間からの収奪を行って」いくものである限り、結局は一部で温暖化のリスクを削減することができたとしても、その分、ほかでリスクを高めることが行われてしまうことを指摘する。

そんな斎藤幸平さんが、気候変動のリスクを回避するための道として提示するのが、脱成長コミュニズムである。

1.使用価値経済への転換
2.労働時間の短縮
3.画一的な分業の廃止
4.生産過程の民主化
5.エッセンシャル・ワークの重視

の5つの要素を、斎藤さんは脱成長コミュニズムのポイントとしてあげる。

このうち、2番目から5番目の要素はどれもグレーバーが取り上げたブルシット・ジョブを失くすことにもつながるのだから言葉を失う。

誰のためにもならない仕事をつくりだすことと、環境を破壊してまで一部の者の成長を追求することが同根なのだ。これこそ、暴君的でなくてなんだろうか。

8.絶望を希望に変える経済学/アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ

たとえば所得だとか、物質的な消費、といった具合に。だが、豊かな人生を送るために私たちが必要とするのはそれだけではない。周囲や社会に認められ、重んじられること。家族や友人が幸せに暮らしていること。そして、人間としての尊厳。楽しみやよろこび。所得だけを問題にするのは、単に便利で手っ取り早いからにすぎない。このように歪んだレンズで世界を見ていると、いかに頭脳明晰な経済学者であってもまちがった道に迷い込むことになりかねないし、政治家であれば国家を誤らせる決定を下すことになりかねない。そして多くの人々が根拠のない強迫観念に駆り立てられることになる。

所得や物質的豊かさだけでは、僕らは幸福を得られない。逆に、人としての尊厳が与えられるしくみがあるなら、それが幸福のための福祉となりうる。

何が人を動かすのか?と問うとき、それはお金でもなければ、物質的報酬ばかりではないだろう。もちろん、お金のため、何か物理的な報酬を得るため、人は働くが、そこで人としての尊厳や楽しさやよろこびが得られなかったら長続きしないか、ストレスをためながら嫌々続けるはめになるかのどちらだろう。

この本の著者は、2019年のノーベル経済学賞を受賞したアビジット・V・バナジー & エステル・デュフロという男女2人の経済学者だ。
上の引用を読んで経済学者の書くものらしくないと思うなら、そもそも経済というものを誤解しているのかもしれない。

グレーバーが『ブルシット・ジョブ』で「つきつめていえば「経済」とは、まさに人間の相互形成のために必要な物質的供給を組織する方法なのである」と書いていた。
だが、物質的供給も人間の相互形成につがらないのであれば、それは回す必要のない経済であると同時に、資源を無駄に浪費して地球環境から搾取を行うだけのものでしかない。

さらにそれが働き手にとってもブルシットな仕事なのだとしたら、本書の著者らが書いているような「周囲や社会に認められ、重んじられること。家族や友人が幸せに暮らしていること。そして、人間としての尊厳。楽しみやよろこび」を得ることはできないわけで、まさに誰のために必要な経済活動なのか。

どこで、こんな間違った状況が生まれてしまったのだろうか?

この状況を変えるため、著者らがいう次のような2つの方向性について、僕らは考えてみないといけない。

2つの結論を引き出すことができる。1つ目は、取り憑かれたように成長をめざすのはやめるべきだということだ。レーガン=サッチャー次代の成長信仰以来、その後の大統領も成長の必要性をつゆ疑わなかった。成長優先の姿勢が経済に残した傷跡は大きい。成長の収穫を一握りのエリートが刈り取ってしまうとすれば、成長はむしろ社会の災厄を招くだけである。(中略)2つ目は、この不平等な世界で人々が単に生き延びるだけでなく尊厳を持って生きて行けるような政策をいますぐ設計しない限り、社会に対する市民の信頼は永久に失われてしまう、ということだ。そのような効果的な社会政策を設計し、必要な予算を確保することこそ、現在の喫緊の課題である。

脱成長。斎藤幸平さんと同じ結論である。

もうひとつの人々が尊厳を持って生きていけるようにというのは、グレーバーの考えに重なる。

しかし、こうした社会へのシフトを、国や企業にだけ期待しても無駄なのは、この1年の経験を通してもはや明らかになったはずである。

僕らは僕ら自身の力で、この変化を推進していかなくてはならない。でも、どうしたらいいのだろう?

その本のヒントが次に紹介する、岸本聡子さんの本に書かれている。

9.水道、再び公営化! 欧州・水の闘いから日本が学ぶこと/岸本聡子

水のように生きるために不可欠なものは、人々の共有財産として、できるだけ市民の力だ管理しようという動きが始まっている。これこそが、新しい民主主義の形だ。資本の言いなりにならない、国家に任せっぱなしにしない、という市民の気概が垣間みえる。

2007年、パリ市は民間の水道会社による料金の高騰やサービスの低下を問題視して、水道サービスの再公営化に向けて動きだし、2社とのコンセッション契約の切れる2009年末をもって公営化に移行した。

そのとき、公営化の担い手となる水道公社として設立されたのが、100%パリ市出資による公営管理の組織オー・ド・パリで、2010年1月1日に創業すると、移行期間で初期費用がかかると思われた初年度から3500万ユーロ(約42億円)の経費削減に成功している。

オー・ド・パリは料金を安くしただけでなく、水質改善への取り組みを激変させたことが称賛されている。

「パリ市民にきれいで安全な水を継続的に供給するには、水源の保護が欠かせない」。しかし、「パリ市の水源は東はブルゴーニュ、フランシュ、コンテ州から西はノルマンディー州まで、広大な地域に点在し」、そのために水質を保護するためには、それらの地域との連合が必要だ。オー・ド・パリは「5つの流域、12の県、300以上の自治体とパートナーシップを結び、水源保護」を行っている。

その活動の視野の広さが素晴らしいのだ。

「いくら水源を保護してきれいな水を確保したとしても、汚濁した生活排水、農業排水、工業排水が流れ込めば、水はたちまち汚濁してしまう」。さらには「汚濁がひどければ、浄水コストがかさんで水道料金の値上げにもつながりかねない」。

オー・ド・パリの施策は点ではなく面で行う必要があった。その具体的な施策が素晴らしいのだ。

「オー・ド・パリ」は水質維持のため、水源地とその周辺エリアの農家に資金を投じ、有機農業を推奨するプロジェクトを進めている。有機農業への転換面積の目標や硝酸塩系農薬の不使用推進などが前述の「パフォーマンス契約」にも書き込まれている。
つまり、「オー・ド・パリ」は有機農法を行う農家の育成もミッションとしているというわけだ。従来の民営水道会社ではとても考えられない野心的な動きで、持続可能性を重視した次世代型の水道経営と言ってもよい。

こうしたことが市民が参加する民主的な公的組織が推進しているのだ。

オー・ド・パリが初年度の実績を公表した2010年、国連は「水は人権」という決議を発表している。

そして、このパリを皮切りにフランスの多くの都市で水道事業の再公営化が進んだという。

水だけでなく、本来誰もが平等にアクセス可能な公共の資源を、人々が自分たちの力で自治することで正しく運営する。それこそ本来の自治体の姿だろう。

選挙だけが民主主義ではないというのは、斎藤幸平さんも書いていたが、このヨーロッパの地方自治体を起点とする民主化の動きには、脱成長コミュニズムへと向かう希望が感じられる。

【C.異形の者たちの場】

コロナ禍におけるもうひとつの社会的な変化としては、これまで表面的には改善の方向に向かっていたかのようにみえていたダイバーシティの問題が、一向に改善されてはいないことがBMLの問題を中心に世界中に知れ渡ったことだろう。

人種や国籍、宗教やジェンダー、あらゆる違いがいまだに差別の要因となって社会に対立や抗争を生みだしている。

それはBMLの問題に対して自身のコメントを公表しない企業経営者に対してその企業の従業員が仕事のボイコットを行なって抗議するなどの問題にも発展して、別の差異による対立さえ生じさせてしまう。

多様性の許容への強すぎる思いが、それを許容しない者を攻撃するという形で別のヘイトを生んでしまうのだ。

10.オープン・シティ/テジュ・コール

太陽が輝く国からついさっき到着したかのようか人々が、ヨーロッパの他の都市よりも大勢いた。目の周りに黒い網模様を描き、頭に黒い布を巻いた老女たちがいたし、同じように布を被った若い女性もいる。保守的な格好をしたイスラム教徒がよく目に入った。ただ、私にはそんな状況になってなっている理由がよくわからなかった。ベルギーには北アフリカの国々を植民地化した過去はない。しかしその光景こそがヨーロッパの現実であり、国境はあってないようなものなのだ。街に心理的な圧力がはっきりとあった。

ここ数年のあいだ、毎年のように訪れていたパリに今年はさすがに行けなかった。だが、上の引用の文章を読んだとき、一昨年のゴールデンウィークのパリでの出来事が思い出された。

オペラ・ガルニエの近くの交差点で、突然頭に布を巻いたイスラム教徒の女性たち数人に絡まれて、身体をベタベタと触られたのだ。スリだと思ったが、あからさますぎる。まだ明るい夕方の出来事だった。危険を感じて身体を大きくバタバタさせながら彼女たちを振りきったが、さすがにこわかった。

まわりにたくさんいるヨーロッパ人にはこわさを感じないのに、イスラムの女性にはこわさを感じてしまうのは、確実に当時の僕自身のなかに偏見があったのだと思う。無知による偏見だ。

しかし、実際にスリにあったのは、昨年の話で、犯人は中学生くらいのフランス人の女の子たちだった。幸運にもバッグのなかに金目のものは入ったなかったから金沢たちはバッグから抜きとった空の袋を捨て去って逃げたので実質的な被害はなかった。貧富の拡大がそうした犯罪を増やしているのだろう。

そのことを、1975年にアメリカ・ミシガン州で生まれ、ナイジェリアで幼少期から高校卒業までを過ごし、アメリカに戻り、ミシガン大学医学部中退後、ロンドン大学とコロンビア大学で美術史を学ぶというおもしろい経歴をもった作家テジュ・コールのデビュー長編のなかの一文を読んだときに思いだした。

この小説の主人公ジュリアスは著者自身に重なる経歴をもった、ブルックリンで精神科の研究医をしている30代前半の黒人男性だ。冒頭の引用は、彼が年末の休暇でベルギーに旅行に行った際の話である。

このブリュッセルの街で、主人公のジュリアスは、モロッコ出身の青年ファルークに出会う。研究者を志してヨーロッパに出てきたファルークは、大学での差別的な扱いを受けて、ヨーロッパに失望していた。

ファルークはジュリアスと飲みに行った席で、次のような話をする。

だから僕にとってサイードは重要なのさ、とファルークは言った。ほら、若かりし頃のサイードは、ゴルダ・メイヤ首相の「パレスチナ人など存在しない」という発言を聞いたのがきっかけで、パレスチナの問題に引き込まれたよね。そして人間は差異というものを決して受け入れないことを悟った。人はそれぞれ違っている、オーケー、でもその人間の差異そのものに価値があるとは思われない。オリエンタルな見せ物としての差異は受け入れられても、特有の価値のある差異だとだめだ。どれだけ待ってもその価値は認められることはない。

受け止められる差異と受け止められない差異がある。

しかし、受け止められたと思われた差異が実際には受け止められることなく、表面的かつ類型的に処理された差異の問題をより悪化させてしまうことがあるのを、次に紹介するサイードの本を実際に読んでみるとわかる。

そして、ブルックリンの街を回遊するリズムが心地よく感じられたこの小説も、最後の思わぬ展開により、一気に気分の悪いものとなる。

だが、しかし、この気分の悪さこそ、ブルックリンで暮らす黒人が日常的に出くわす気分の悪さと同等なものではないかと考えたとしたら、これもまた偏見だろうか。

11.オリエンタリズム/エドワード・W・サイード

オリエントは観察される。ほとんど(決して十分にではないが)攻撃的で人に不快感を催させるオリエントの行動が、特異性の無尽蔵に詰まった貯蔵庫からとり出されてくるためである。ヨーロッパ人――オリエントを旅するのはその感性なのだ――は、みずから一箇の観察者であることを忘れず、決して巻き込まれず、つねに超然としていて、『エジプト誌』が言うところの「奇妙な享楽」の新しい事例を発見しようと鵜の目鷹の目なのである。東洋は奇妙さを表現する活人画となるのである。

人というものは、本当に未知なものを理解するということを疎かにしがちな生き物なのかもしれない。

そして、そのことが自分とは異なる差異をもった人たちとのあいだに良好とはとても言えない関係性を生じさせてしまう。あともう少しでも、たがいに相手を理解しようとする懐の深さと他者へのリスペクトがあれば、世界はもうすこしよくなるのかもしれないが、そこには資源の所有に関する問題もかならず絡むことになるので、そう一筋縄ではいかないのだろう。

そして、知は搾取する
いや、正確には知と無知の混合によって、知る側による知られる側からの搾取が行われる。

知ることによって奪い、知らずに奪う。
もちろん知ることで奪うことを避けることもできる。
こうした知の功罪を、認識しなおすことがいまの時代、つよく求められている。

オリエント(東洋)をみるオクシデント(西洋)の広範にわたる思考様式としてのオリエンタリズムを西洋による帝国主義の問題と関連づけて論じた、もはや古典である、1978年にエドワード・W・サイードが発表した『オリエンタリズム』を読んだのはそういう理由からだ。

オリエンタリズムとは何かということを、あらためてサイード自身の言葉を通じて紹介するなら、こうだろう。

詩人であれ学者であれオリエンタリストとは、オリエントに語らせ、オリエントについて記述し、オリエントの秘めたるものを西洋のために西洋に対してあばく人間だという事実、すなわち外在性こそがオリエンタリズムの前提条件なのである。

オリエントを言及する学者も、オリエントを描こうとする詩人も、ともに、彼らがオリエントに目を向けるのは、それが自分たちとは異質なものだからである。

つまり、彼ら西洋のオリエント研究者、詩人は、自分たちと異なり相容れないものだから、東洋に魅了され、決して、東洋と一体化しようとなどとは考えることなく、あくまで外部の存在として、そこから知を摂取しようとする。

「オリエンタリズムの限界とは、すでに述べたように、他の文化、民族、または地理的区域の人間存在を無視し、エキスをしぼり出し、剥ぎとる結果として生じる限界なのである」とサイードは言っている。
東洋とひとつになろうなどという考えは、まるでなく、異なるからこそ、そこから自分たちが持っていないものを得ようとして臨むところに、オリエンタリズムの知の限界があるというのだ。

サイードが生きた、1970年代の西洋と東洋の関係はまだそうだったのだろう。
しかし、いまや状況はかなり変わりつつある。
東洋はもはや、この本の表紙の裏に書かれた「オリエントはヨーロッパの対話者ではなく、そのもの言わぬ他者であった」というような存在ではなく、西洋に対して、ものを言うだけでなく、反撃もするし、移住もしてくる存在だ。

ファルークが、ブルックリンから来た黒人の精神科研修医のジュリアスにサイードの話を持ちだすのは故郷のモロッコではなく、ベルギーのブリュッセルの街角だ。

物言わぬオリエントは物を言うようになっただけでなく、暴力的な行為も含めて現実に動く姿をヨーロッパの人たちの目の前で見せている。

それでも、日本で韓国や中国の人たちに対する差別がなくならないように、以前からあったオリエントに対する差別的な視線は消えずにあるのだろう。

自分(たち)の内なるものと外にあるものを隔てる差を解消するとまでは言わないまでも、固定した状態で対立の軸にならないようにするためにはどうしたらよいのだろう? それを考えるには、もう一度、かつて境界を自由に行き来していた道化のことを考えてみる必要がある。

12.道化の民俗学/山口昌男

日常的価値体系に組み込まれないものに対して、「歴史性」のなかで、人は、悪い、滑稽な、馬鹿馬鹿しい、穢らわしい、賤しい、醜い、汚い、薄気味悪い、怖い、危険な、反革命的、といった形容詞を貼りつけて、日常世界の「境界」に押しやって来た。

1969-1970年にかけて2つの雑誌に連載された論文をもとに1975年に単行本として刊行された50年前に書かれた論だというから、サイードの本よりさらに前のものということになる。

しかし、上の引用を読めば、日常を脅かすものを排除したがるのは今も昔もかわらないわけだ。

いまなら、コロナウィルスをはじめ、不倫や薬物依存、喫煙、贈賄、移民、心身に人と異なる特徴をもつ人たちなどに対して、とにかく自分たちのいる社会から追いだそうとする。そして、そうした異形の者たちを外へと追いやったあとの社会を「日常」と呼びたがる。先にアガンベンの『ホモ・サケル』で例外と規律の関係を論じたことと同根だ。

いまはその様子が目に見えやすくなったし、見えやすくなったがゆえに排除の力もより拡散しやすくなってはいるものの、異質なものを自分たちから遠ざけようと、外の世界へ追いだそうとする行為自体は昔からあるものだ。

この日常的価値体系を逸脱しているがゆえに、境界に追いやられたものを、かつて代表していたものこそ、道化やトリックスターという存在だった。
言うなれば、スケープゴート(贖罪山羊)の役割を担ったのだが、それだけでもなかった。そこに道化の問題の興味深い点がある。

道化やトリックスターに共通するものとして、彼らが物真似をすることがあげられる。

たとえば、民俗芸能における神楽では、道化は三番叟を踊る黒尉にからむ役として登場するが、三番叟は道化のからみなど眼中にないかのごとく踊りつづけるが、一方の道化は三番叟の踊りの下手な物真似をする。

「このように、主人公にからむが筋のうえではほとんど影響力を持たないのは、道化の持つ透明性に由来するのかもしれない」と著者は書いているが、自分と似たようなことをしているのにそれに気づかない存在があるとすれば、それは影だ。つまり、道化は影でもある。

義経に対する弁慶もある意味、そうした影のような存在でもあり、道化役でもある。長いが引用する。

民俗芸能を背景において考えると、『義経記』のなかの「烏滸の者」としての弁慶のなかにもそのような姿を見ることは不可能ではない。7つ道具を体の外延につき出した「異形の者」としての弁慶のイメージはそれだけで弁慶が語り物の世界で、ヒーローの義経の道化方であったことは、広末保氏の指摘するごとくであると思われるが、『義経記』のなかで、吉野川の水上にある白絲の滝という難所で、急流を飛び越えるのに、義経が跳ね上がって竹の先端にとびつき、するりと対岸に渡ったのを見て、「これ程の山河を越えかねて、あの竹に取付き、がたりびしり(がたびし)し給ふこそ見ぐるしけれ。其処退き給へ。この川相違なく跳ね越えて見参に入らん」と、義経に憎まれ口をたたいたまではよかったが、見ごとに、「岩波に叩きかけられ、ただ流れに流れ」ていた。これは典型的な真似のしそこないの演技である。

失敗するのは、トリックスターであり、スケープゴートである道化の役割である。
しかも、主人公はもともと道化の素振りなど気にもしてはいなかったのだから、何事もなく筋(=日常)は進んでいく。そして、道化は静かに舞台の外へと消えていく。

ここに道化の役割がある。

しかし、退場していったのは本当に偽王である道化の方だったのか?

いったん日常が無秩序の笑いのなかで転倒し、混乱のなかドタバタ劇を演じたあと、外へ退場したのが道化で、舞台に残ってふたたび秩序を回復する役割を担うのがヒーローであり、後に王となる者だったのか?

同時に人は、この日常世界は不完全なものであることは知っていたし、この認識が人間の行為の原動力にもなっていた。そして、この不完全な世界に高度の活性を賦与するためには、日常世界を構成するカテゴリーを侵犯し顚倒してみなければならないことも知っていた。ヒーローに日常世界を越えさせる活力を賦与するために、ヒーローの行為の規範と相容れない道化=からみ役をぶっつけて禁制の外へ逸脱させなくてはならない。

道化とヒーローの表裏一体性
これがあったからこそ世界はいつでもいったんの混乱を経て再生させることが可能だった。

しかし、表と裏を固定させて、自分と他者とを永遠に分け隔ててしまえば、循環の輪は切り離される。再生の可能性が絶たれたのは、その瞬間ではなかっただろうか?

【D.この危機を用意したもの】

なぜ再生のための循環の輪は切り離されたのか?
なぜ内と外の自由な行き来が無効化され、曖昧で不気味で不定形なものが忍び込む余地のない窮屈な世になってしまったのか?

何がこの人類と地球環境の持続可能性の危機を用意したのだろう。

人新世はいつどうやってはじまったのか、そのことにも同時に目を向けた1年でもあった。

13.植物園の世紀 イギリス帝国の植物政策/川島昭夫

ジョン・エリスは、1770年に『東インドおよびその他の遠方の諸国から生育した状態で種子と苗木をもちきたるための指針』と題する小冊子を出版した。末尾に「わがアメリカの植民地で奨励されるべき外国植物のカタログ」を12ページにわたって付し、80種の植物名を、その産地、用途とともに挙げている。大半を薬用植物、染料植物、樹脂植物が占めているが、イギリスの18世紀が、繊維工業を基軸に、新しい工業国家へと変貌しつつあったこと、しかもテキスタイル製品に対する消費の性向が、ますます流行をおって変化していたことを考えれば、染料や染色工程に用いる樹脂の重要性を理解するのは難しいことではない。重要な植物染料のうち、イギリスが本国で生産していたのは黄色染料のモクセイソウのみであった。大青とサフランも栽培されていたが、すでに時代遅れとされていた。7年戦争の終結によって、ヨーロッパ各国の繊維産業が復興した1760年代、供給の不安はピークに達し、イギリスはアムステルダムとセビリャに死命を制せられていたのである。この1760年代に、最初の植民地植物園が誕生したのは偶然ではない。

外来種がその地域の既存のエコシステムを破壊する可能性をもつことはいまならほとんどの人が知っていることだろう。

しかし、そのことを植民地政策と植民地での外来の植物の持ち込みという二重の意味で進めたのが、17世紀以降のヨーロッパの帝国主義的な入植の活動であった。

イギリスがまずは紡績産業で産業革命を成功させたことは知られているが、その成功のための資本であった綿も、多くの染料の材料となる植物も、本国にはないものだった。

しかし、本国にないからといって他国から買ったのではコストが膨らんでしまう。であれば、自国の植民地で作ればよい。しかも、必要なものをひとつの場所で栽培して運べば輸送のコストも抑えられる。

こうして、イギリスは大英帝国と称された自国の植民地の方々に植物園ネットワークを形成し、各地の植物を交互に交換して、さまざまな場所で新たな産業の材となる植物を育てられるようにしたのである。

植民地に運ばれてきたのは、異国の植物だけではなかった。そのプランテーションを育てるための大量の黒人奴隷たちも連れてこられたのだ。

たとえばジャマイカでは、砂糖をつくるための農園がつくられた。もともと住んでいたインディオたちは入植したヨーロッパ人のもたらす疫病によってほとんどが死に絶えていた

そこで入植者たちが農園の労働力確保のために行ったのが、アフリカ西岸から商品として黒人奴隷を連れてくることだった。

もともとの住民を死滅に追いやっただけでなく、ほかの土地から自由を奪った状態で人を連れてきて過酷な労働を強いる。
なんと、その数、40万人にもおよんだというのだ。

この大量の奴隷を働かせるためにも、食糧はいる。
しかし、奴隷のための食糧を生産するために貴重な土地や労働力を用いるのは、プランテーション経営者にとっては選択可能なものではなかった。

莫大な資本を投下して行なうプランテーションで、耕地を奴隷の食糧栽培用に転換することが、プランター個人にとって自殺的な行為であるのは自明であった。

だから、彼らは帝国内の別の植民地であった北米からの食糧輸入に頼っていた。
しかし、アメリカの独立運動がはじまるとそれに頼ることもできなくなる。

結果、招いたのは奴隷たちの飢餓だった。

明らかに、いまの持続可能性のないゲームのスタートがそこにあったのかと感じずにはいられない。

14.プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神/マックス・ヴェーバー

たゆみない不断の組織的な世俗的職業労働を、およそ最高の禁欲的手段として、また同時に、再生者とその信仰の正しさに関するもっとも確実かつ明白な証明として、宗教的に尊重することは、われわれがいままで資本主義の「精神」とよんできたあの人生観の蔓延にとってこの上もなく強力な槓杆とならずにはいなかったのだ。(中略)利得したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、それの生産的利用を、つまり投下資本としての使用を促さずにはいなかった。

1920年に書かれたマックス・ヴェーバーのこの本はいま読んでも画期的だ。なぜなら、グレーバーが「ブルシット・ジョブ」と呼んだ無意味な仕事でも勤勉に取り掛かろうとする精神が生まれた起源を、プロテスタント精神の浸透にみてとるのだから。

カトリックの中にはなかった、現世における世俗的労働を神からの「召命」としてこの上なく価値あるもの――天職――と考えるようになったのはプロテスタンティズム以降だというのが、ヴェーバーの指摘するところである。

そして、プロテスタントたちは、カトリックたちが重視した修道士的な禁欲より、世俗的な道徳を重視するという、この上なく大きな転換を行った。修道院での神に奉仕するような暮らしよりも、現世における世俗的な労働の方に価値を見いだし、中世までの宗教出来事態度からの大きな変転を人々に迫った。

しかも、天職を解いたルターに続き、カルヴァンが予定説――神の救済にあずかる者と滅びにいたる者が予め決められている――を解いたことが、次の変化へと人々を向かわせた。

自分は神の救済にあずかる選ばれた者か、そうでないか。カルヴァンは誰にもそれを知る術がないとしたことが、人々を不安にさせた。

この不安から解放するために選ばれたのが、天職である労働に勤しむことだった。「職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる、というのだ」。

さらに、プロテスタントたちの禁欲的な姿勢が、すこしねじ曲がった方向に労働の成果を向けさせる。

利得したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、それの生産的利用を、つまり投下資本としての使用を促さずにはいなかった。

ようするに得たお金を日常的な使用に用いるよりも、お金がお金を生むような投資へと回すことを良しとする精神が生まれたというのだ。

使用価値より交換価値が重視されるようになる瞬間だといえよう。そして、グレーバーが99%のひとりとして戦った、1%のスーパー富裕層たちの世界を生むはじまりがここにあったのだ。

15.没入と演劇性 ディドロの時代の絵画と観者/マイケル・フリード

没入が追求されたことと、姉妹関係にある2つの教義〔ジャンル間のヒエラルキー説と歴史画最優位説の2つ〕がふたたび関心を集めるようになったこと、この両者の根底にあるのは、芸術家は絵画と観者のあいだに逆説的な関係を出現させなければならない――具体的に言うなら、観者がそこにいるという事実を無効化ないし否定し、誰も画布の前には立っていないという虚構を打ち立てる方法を見いださねばならない――という要求なのである(逆説的だというのは、その虚構が実現されたときのみ、観者をまさにその画布の前で立ち止まらせ、そこにとどめおくことができるからだ)。

美術史家であると同時に、美術批評家として知られるマイケル・フリードがこの本で扱うのは、1750年代から1780年代のフランスにおける絵画である。

その時代のフランス絵画にフリードが見いだすのは、タイトルどおり、没入と演劇性である。

没入とは、上の引用にあるように、絵に描かれた人々がが、絵の前には誰もそれを観る者などいないかのように振る舞うため、自分たち自身が行なっている行為に没入しているように、画家に描くよう求めることである。

画家に観る者の存在を否定するような絵を求めることで、真に観るべき価値のある絵を描くことを奨励した、美術評論家ディドロ(あの百科全書をダランベールらとともに編纂したディドロと同一人物だ)たちとそれに応じた画家たちがこの本の主人公である。

この時代のこうした絵画の変化によって、観る者たちの方も描かれた人々のことを気にせず、絵画を観ることに没頭できるようになる。

それはある意味で、絵画のなかの世界と外の世界が完全に切り離された瞬間である。観る者は、描かれた人々が自分たちとは無関係のものとして、どんな風にも語ることができるようになった。ときには誹謗抽象的な言葉を発することもあったかもしれない。

それはいまの僕らがインターネットごしに画面に表示される他人の言動に、なんの戸惑いもなく文句を言ったりディスったりできるのと同じだ。それは画面の向こうの世界と自分の世界が切り離されているという前提に立つから可能な行為である。

そして、それはサイードが描いた西洋と東洋の切り離されているがゆえの関係性となんら変わらない。
また、ここでテーマとなった1750年代から1780年代というのが、先の『植物園の世紀』で描かれた帝国主義的植民地主義が進められたのと同時代の出来事であることも理解しておくべきだろう。

この画面の内と外、自国と植民地の境界がはっきりと切り離されて、互いに入れ替わることなど起きないよう確固としたフレームに入れられたときから、曖昧で不定形な存在として笑いとともに秩序を乱す道化のような存在が入り込む余地は失われてしまったのだ。

没入を求められた当時のフランス絵画の唐書は、より明確さを求める実証主義的で図式的な見方へと変わっていく流れのひとつの兆候だったのだろう。

16.リヴァイアサンと空気ポンプ/スティーヴン・シェイピン+サイモン・シャッファー

事実とは、ある人が実際に経験し、自分自身にたいしてその経験の信頼性を請けあい、他の人びとに、彼らがその経験を信じることには十分な根拠があると保証するというプロセスの結果としてえられるものであった。

すこし時間を遡る。イギリス王政復古の時代だから1660年頃だ。

この本の著者、2人はその時代、社会において同意を保証する方法が失われていたのだという。この時点から遡ること、さらに20年ほど前、クロムウェルらの清教徒革命によって、それまでの王の権威は否定された。
その後、クロムウェルの存命中は彼を中心に新しい秩序=共和制はしばらく維持されたが、クロムウェルの死後、それは続かなかった。

そこで社会の秩序を維持する方法として、王政を復活させることになったが、とはいえ、一度破棄したシステムである。前のまま、リブートすれば良いものではない。何によって社会を束ねるのか、束ねるための臣民の合意をいかに得るのか、得られたと保証するのかが問題となっていたわけである。

そもそもが権力のありようがたびたび変わるような内戦の時代である。異なる立場にある者同士を合意に導くような、正しい知を新たに生みだす方法、そして、その知を正しいものだと合意し保証する方法が求められていたのである。

そこに登場するのが英国はじめての科学者、数学者たちからなるアカデミー、英国王立協会の面々である。とりわけ、本書の主役はボイルの法則で知られるロバート・ボイルであろう。

ロバート・ボイルは、フランシス・ベーコンが『ノヴム・オルガヌム』で示した経験論的な考えに基づき、「実験によって生みだされた事実によって同意を確保しようとした」。

ボイルは実験によって事実が生み出されるプロセスをデザインした。

このプロセスのうちで根本的だったのが、目撃経験を増加させることであった。経験は、たとえそれが厳密に制御された実験の実施であったとしても、目撃者が一人しかいなければ事実をつくりだすには不十分であった。もし経験がおおくの人間に拡張されたならば、そして原則的にいってすべての人間に拡張されたならば、そのとき結果は事実となりえた。

そして、実験を通じて生まれる事実は科学者たちのアカデミーにとって、正しい知を生みだす方向として使われるのと同時に、生み出された新たな知を保証するものとして使われるようになる。

そのとき、事実という概念の役どころが変化した。それまでは「つくられたもの」というくらいの意味しか持たなかったfactという英単語が何か客観的な事柄をあらわし、同意を保証するもののように扱われるようになったのだ。

しかし、そのことに異論を唱えたのが、この本のもうひとりの主人公、なにより『リヴァイアサン』の著作で知られるホッブズである。
ホッブズは「信念や意見は諸個人に属するもなのであって、そうであるがゆえに、公共の秩序のための基礎へと仕立てあげることのできないもの」と考えていた。

公的な秩序は、公的なものに属する「ふるまいと理性」からつくられるべきだとホッブズは考えていた。私的な領域に属する、個々の人びとの信念や意見は公的な秩序の基盤とするには相応しくなかった。

結局のところ、歴史的な勝利の軍配は実験科学の方法を生み出したボイルら科学者にあがったように見える。

しかし、現時点からみれば、公的秩序は私的な領域に属する意見を基盤にするのではなく、公的なものに属するふるまいからつくられるべきだというホッブズの考えは、先の斎藤幸平さんらの新しい観点での民主主義、公共的な姿勢という観点からも正しかったのではないかと思える。

しかし、実際に歴史的に勝利し、その後の産業革命を可能にし、人新世のはじまりを用意したのは、間違いなくプロテスタントの集団でもあったボイルら、英国王立協会の面々なのだ。

【E.非人間たちとの共生】

道化を殺し、事実を重視する姿勢で曖昧なものを外へと追いやり、物事をみるフレームを固定することで秩序の安定をはかってきた近代が、そのフレームの外へと追いやった、異質なもの、あるいは、非人間的なものにもそろそろ目を向けたい。

17.三体Ⅱ 黒暗森林/劉慈欣

「どうしてこんなことになったんだ?」(中略)「それについては、なんの不思議もない」レイ・ディアスは窓際の席にすわって、外から射し込む太陽の光を楽しんでいた。「いま現在、人類の生存にとって最大の障害が、人類自身だからな」

「三体」シリーズの2作目である『黒暗森林』には、面壁者と呼ばれる危機に立ち向かうヒーローたちが登場する。引用中に出てくるレイ・ディアスもそのうちのひとりだ。

しかし、どんな物語でもヒーローと道化は紙一重である。そして、ヒーローを道化にするのも、道化をヒーローにするのも、すべてまわりの受け取り方次第なところもある。もちろん、本人の行なったことそのものが大きく影響するのだが。

表裏一体の王と道化の役回りを、この『三体Ⅱ』という物語のヒーローである面壁者たちは一手に引き受ける。
さんざん期待されて敬われてきたあげく、宇宙より迫りくる危機に打ち勝てなさそうだと判断されると、民衆に石を投げられたりする損な役回りのスケープゴートだ。まったく掌を返すとはこのことだ。

もちろん、そうした民衆の身勝手な掌返しはいまも変わらない。何度となく繰り返される本書の掌返しの様子に、無知で、自分とは異なる他者を慮ることのできない民衆ほど無責任かつ残酷な存在はないとさえ感じる。
それはある意味、宇宙から迫りくるどんな危機よりも無慈悲で卑劣だ。

脅威は外からやってくるが、それでも現実の敵は人類自身だと思うのは、このコロナ禍でも、気候変動などの危機でも同じだ。人類自身がリスク回避の障害となる。

ヒーロー=道化にとっても「最大の障害が、人類自身だから」なのだろう。
そのこともこの1年のコロナ禍で僕らは経験的に学んだことではなかっただろうか。
危機からの救いを他者に求めれば求めるほど、その過度な期待が失望に変わり、ひとは他者を貶めるようになる。今年ほど、人が人を悪くいうのを聞いた年はない。

リスクを回避しようとする行動すら、その行動原理が自分と異なれば、人は他者を攻撃して、リスク回避の行動を妨害する。自分たちの発言でどれだけのリスク回避の試みが潰されているかに気づかない人が多いのだ。

まったくもって人類の敵は人類そのものである。
その意味で、ほとんどの人が人類の未来をつぶす暴君なのかもしれない。

18.LIFE3.0/マックス・テグマーク

物理的観点から見れば、居住場所や機械や新たな生命形態など、未来の生命が作りたいと思うものはすべて、素粒子をある特定の形で組みあわせたものにすぎない。シロナガスクジラがオキアミを、オキアミがプランクトンを再構成したものであるのと同じように、この太陽系全体も、138億年におよぶ宇宙の進化の中で水素を組み替えたものでしかない。重力が水素を組み替えて恒星を作り、恒星が水素を組み替えてもっと重い原子を作り、その原子が重力によって組み替えられてできた地球の上で、科学的および生物学的なプロセスによって原子がさらに組み替えられることで、生命ができたのだ。
テクノロジーの限界に到達した未来の生命なら、そのような粒子の組み換えをもっと高速かつ効率的におこなうことができる。

宇宙を研究していた理論物理学者がAIについて考えると、こんなにも大きく常識をこえて未来の世界を想像することができるのかと驚きつつも、ワクワクしながら読むことができた1冊。

『LIFE3.0』は理論物理学者でMITの教授であるマックス・テグマークが、人工知能を3番目の生命の進化系と捉えた上で、宇宙規模における生命と世界のこれからを想像して、その可能性や危険性、僕たち人間が取り組むべき事柄は何かを考えた本だ。

そこで提示されるのは、上記の引用にあるような第3の生命としての超知能AIがやすやすと気候変動などにともなうこの地球の持続可能性の危機を乗り越えていく様子だ。

自身の生命を維持するための資本の所有を他者と争うしかない人間と違って、みずからの身体も、みずからが生きるためのエネルギーも、みずから生成できる超知能AIにとって、人類を苦しめてきた所有をめぐる規律と例外を複雑に組み合わせたしくみがなくとも、持続可能性は維持できるのだ。

スケープゴートとしてのヒーロー=道化も必要としない。

しかし、超知能指数により持続可能性の課題を乗り越えることができたとしても、それで人類にとっての持続可能性の課題が乗り越えられたことにはならない。
超知能AIが、人類の持続を、持続可能性のなかに含むかは別問題だからだ。

だから、テグマークが問うのは目標設定の問題だ。

人工知能の倫理について議論する際、よく話題に出されるトロッコ問題という思考実験がある。
制御不能となった猛スピードで走るトロッコ。その線路の先には5人の人たちが作業をしている。その手前に分岐があり、線路を切り替えれば5人は助かる。しかし、その切り替えた線路の先にも1人の作業者がいる。果たして、どうするのか?という話だ。

これを自動運転車に置き換えた場合、自動運転車の目標として、乗車している人の安全性、道路にいる人の安全性を課して、AIか功利主義的な判断をするとすれば、1人が犠牲になることを選択する可能性が高い。しかし、倫理的にみて、それが正しいのかはかなり微妙だろう。
どう目標をAIに設計するかがむずかしいだけでなく、どのように目標設定をすればよいかも単純ではない。

未来の生命3.0と生命2.0の関係において、後者がこれから生まれる生命3.0に対して事前にどんな目標設定をしておけば良いのかは、答えなどあるのかどうかすらわからない問題だし、仮に目標設定ができたとしても、最初に定義した目標を生命がずっと変わらず維持できるかという問題だってある。

その目標設定次第で、超知能AIは人類の持続可能性にとっての脅威にも期待にもなる他者なのだ。

さて、ここまで見てきたように、他者に相対するのがとにかく苦手な人類がうまく他者である超知能AIに向き合えるか。はたまた「黒暗森林」で描かれたように、他者に向き合う以前に、またまた人類同士で互いを否定しあうような諍いをはじめてしまうのか?

19.植物の生の哲学/エマヌエーレ・コッチャ

植物は、わたしたちの文化を定義づける、こういってよければ形而上学的な衒学趣味からすると、常に開いた傷口のようなものだ。抑圧されたものの回帰といってもよい。(中略)植物は、いわば人間中心主義の宇宙に生じた腫瘍、絶対的精神をもってしても廃絶できない廃棄物なのである。

持続可能性の観点から気候変動や環境破壊の問題を議論する際、人間中心主義的な思考を離れても、その離れた先に結局は、人間的な観点からみた「地球中心主義」を置いてしまう傾向があることが本書では指摘されるのだ。これはなかなか目から鱗だった。

地球中心主義は、いわば偽りの内在性という罠だ」とコッチャはいう。「つまり、自律した大地などというものはないのである」と。

大地を知らず知らずのうちに、自律したものとして切り出してしまう僕ら人類はいまだ地球中心主義で、太陽、いやコズミックな力との関係性をあまく見てるし無視しすぎている。

しかし、植物は違う。
それは人間中心主義の宇宙に生じた腫瘍、絶対的精神をもってしても廃絶できない廃棄物として、凝り固まった地球中心主義に風穴を開けてくれるヒーロー=道化なのかもしれない。

コッチャがすごいなと感じたのは、大気や呼吸というものの認識を常識的な理解から大きく覆すような見方を提示してくるところである。 

大気のなかで、僕ら人間や動物は呼吸をしていて、その酸素は植物から得て、吐き出した二酸化炭素は植物が光合成で用い、その過程でまた酸素が得られるという循環のうちにあるわけだが、コッチャはそのありようを、僕らも動物も植物も大気のなかに「浸っている」のだという。

大気は、呼吸を通じてそれぞれの存在が大気とともに互いに混ざりあう場だと見做される
僕らはいろんなものと混ざり合っている。
混合こそがデフォルトの状態で、誰かや何かが常に僕のなかに入ってくるし、僕は常に何かや誰かのなかに混ざり合っていく。その混ざり合いが呼吸であり、それがなされる場が大気なのだ。

内と外の境界をはっきりと引いてしまった気になった17世紀以降の近代的な見方とはまったく異なる。

ここで提示されるのは、内外で所有をめぐる諍いなど起こしたりはせず、混合状態をデフォルトと認め、その上でどうするか?という問いだ。

この問いこそ、グレーバーや斎藤幸平さんの民主主義の問いに僕らは接続する必要があるのだと思う。

20.地球に降り立つ/ブルーノ・ラトゥール

では何をすれば良いのか。第一に、これまでとは違う記述を作り出すことだ。地球が私たちのために用意してくれたものをすべて調査し目録を作る。それが「人間」であるなら1人ずつ、それが「モノ」であるなら1つの存在ごとに、1センチ1センチ測って詳細に記録を残す。記録を作らずして政治行動に訴えることなど、どうしてできようか。(中略)見えなくなった居住場所を記述し直そう。そういう提案をしない政治はすべからく信頼できない。記述の段階を省いて前に進むことなどできない。〔記述抜きの〕予定表だけの提案はどんな政治的虚言よりも恥知らずなものだ。

「アクターのリストはどんどん長くなる」

アクターネットワーク理論を提唱する社会学者のブルーノ・ラトゥールはこの本でそう書いている。
明らかに、生き続けるために必要な所有をめぐるテリトリーの奪い合いが起こっている、利用可能な土地や資源が限定された地球のうえで、お互いに利害的にはぶつかり合い、侵犯し合うこともあるほかのアクターたちといっしょに僕らは「それぞれが自分の居住場所を見つけていかねばならない」。
残念ながら僕らは自分の居場所もそこに適応した自分の身体も自作できる超知能AIではないのだから。

自分のテリトリーを確保するためには、どんなアクターが何を望み何をしようとしているかを知ることが不可欠だ。
それには「ありったけの調査能力が必要になるだろう」というラトゥールの考えには納得感がある。

「もはや誰にとっても、確実な「安住の地」はない」現在、僕らには「今後も現状をつねに超えていく近代の夢を見続けるのか、それとも自分たちと子孫が暮らせるための新たなテリトリーを探し始めるのか」が問われている。

これまでのようにグローバル化に夢を見続けることはできないし、かといって単純にローカルに後退することもできない。米国や英国のようなExitの姿勢で世界からの離脱を進めても、ようするに、それは自分の取り分を守るために他者を排除しようとしているのにすぎないのだから。

僕らは自分の居場所となりそうな場所について探索しないといけない。
ガリレオ以来、天空から地球を「客観的に」眺めていた僕らは、再び地上にしがみついて周りのどんなものたちと依存関係にあるかを気にしながら、この地球の上をよく観察してみる必要があることを、ラトゥールは指摘する。
地球のごく表面付近のごく薄い膜のような圏内で起こることに、僕らは拘束されているのだから、そこで起こることをとにかく記述しないといけないのだ、と。

いま起きていることを人間というアクターしかいない人間中心の世界として描くのではなく、ほかの生物も、非生命的な物質も、人工物も含めて、存在し依存し合う世界の連携するさまを僕らはちゃんと観察し記述することで、自分たちの生きる生命を確保し直すため、もう一度ちゃんとこの「地球に降り立つ」必要があるのだ

そこからしか非人間、非生命を含めた脱成長コミュニズムははじまらない。
僕らはみないますぐ自身の無知をあらため、博覧強記になる必要がある。

【F.潜勢的なものの回帰】

規律と例外、内と外、わたしたちとあなたたち、味方と敵。僕らはあまりにそれらの二項対立を固定化しすぎることに慣れてしまっている。

しかし、そんないまでも境界を飛び越えてくるものがあることを教えてくれるのが、以下に紹介する3冊だ。ひとつは今年の最初に紹介したバタイユ、もうひとつは今年の最後に紹介したヴァールブルクを論じたユベルマンの一冊。そこに破壊的可塑性という新しい概念を論じたカトリーヌ・マラブーの一冊を含む。いずれも秩序を破壊する威力をもった可塑的な力――つまり定形なフォルムをもたない――を論じたもので、ある種、ウィルス的なものを論じたものとも言える。

どんなに人間が境界をつくって、曖昧で不定形なものを疎外しようとも、それら抑圧されたものは必ず回帰してくる。道化たちはいなくなったりしないのだということを彼らは教えてくれる。

そして、そうしたものにも目を向けること、それが先のラトゥールの「あらゆるものを記述する」という民主化戦略にも通じるのだと思う。

21.ドキュマン/ジョルジュ・バタイユ

もし画家によって画布に集められた形態が反響を引き起こさないとしたら、あるいは、頭のなかでせめぎ合う恐ろしい亡霊たちの貪食――まさに知的な次元における――が問題となっているから言うのだが、たとえば醜い歯をみせる顎がピカソの頭から姿を現して、厚かましくもいまだに愚直にものを考えている人々を怯えさせないとしたら、絵画は酒場やアメリカ映画のようにせいぜい人々の怒りを紛らわせる役に立つだけだろう。しかし、ピカソが描くとき、形態の解体が思考の解体を引き起こす、つまり他の場合には観念に行き着く直接的な知的運動かま頓挫するのであり、そのことを指摘するのにためらう必要はないのだ。

ピカソを例に、画家による形態の解体について語られている。
形態を操る技術をもつ画家は、その操作によって、人間の思考における意味を日常的なありきたりの意味のつながりのなかに隠してしまうこともできれば、ピカソのように思考を解体に向かわせるように操作することもできる。
バタイユは、画家の描く絵の形態がそれを観る人々に対してなんの反響も及ぼさないのだとしたら、絵画は「せいぜい人々の怒りを紛らわせる役に立つだけ」のものでしかないと指摘する。

形態の解体によって生まれる、日常的な意味の世界に従属せず、日常的な意味を疑わせる怪物的な形態に、バタイユも僕も魅了されている。

ある辞書が、もはや単語の意味ではなく働きを示すときから存在しはじめるとしよう。たとえば「不定形の」は、ある意味をもつ形容詞であるばかりでなく、それぞれのものが自分の形をもつことを全般的に要請することによって、価値を下落させる役割をもつ言葉である。

これは「不定形の」と題された、文庫本1ページに収まってしまう短い文章だ。

それぞれのものが自分の形をもつことを全般的に要請することによって、価値を下落させる」。

ここに資本の所有の問題と絡んだ規則と例外の問題は集約されている。
例外をともなう規則(=定型化)によって、所有対象となる資本の価値は下落する
斎藤幸平さんがマルクスの論を借りて、私有によって生じる偽りの希少性を語ったことに重ねてみてほしい。

定形化し、標準化の方向に進む際に、あらゆるものはそられが持っていた豊饒な価値を多かれ少なかれ捨て去ることになる。

しかし、そうした犠牲を払ってでも人間は、不定形な状態を我慢しきれず、決まった形に逃げこもうとする。
常に、自分で不定形なものに対峙して、そこに自分自身の力で意味を見いだすこと、いや、それ以上に、意味を見いだそうとすることを拒否して、対象の不定形ゆえの豊饒な意味を保とうとすることに自らを向き合わせることに恐れを感じるからだろう。

人は不定形を恐れて定形に逃げこみ、その逃げた先の形をもって、それ以外の形を非難する卑怯なものとなる。不定形を恐れる他人は、蜘蛛やミミズを虐げる存在に積極的になろうとする。

それが指すものはいかなる意味でも権利をもたず、いたるところで蜘蛛やミミズのように踏みにじられてしまう。実際、アカデミックな人間が満足するには、世界が形を帯びる必要があるだろう。すべて哲学というものは、これ以外の目的をもってはいない。つまり、存在するものにフロックコートを、数学的なフロックコートを与えることが重要なのだ。それに対して、世界はなにものにも似ていず不定形にほかならない、と断言することは、世界はなにか蜘蛛や唾のようなものだ、と言うことになるのである。

22.偶発事の存在論/カトリーヌ・マラブー

私はこれまでにもずっと、この破壊的可塑性の現象、分割された同一性について、アルツハイマー病者の突然断ち切られ打ち捨てられたような同一性、ある種の脳損傷患者や、戦争で外傷的経験を負った人や、自然あるいは政治がもたらした破局的な出来事の犠牲者たちの、感情的な無関心について論じてきた。確認しておかなければならないこと、知っておいていただかなければならないこと。それは、私たちの誰もが、ある日別人に、まったくの別人に、それまでの自分とは決して折り合いをつけることができないような何者か、贖いも償いもなく、遺された意志ももたず、劫罰を受けて時間の外へと突き落とされたかのような何者かになりうるということである。

破壊的可塑性」。
オリジナリティを感じる概念だ。

本書でいうところの可塑性とは、主体が外部からなんらかの作用を受けつつ、それを内部での変化へと変換することを通じて自らを作り替える様を示す概念である。
そこに「破壊的」という形容が加われば、取り返しのつかない形で主体が上書き更新されることを指していることになる。
つまり、破壊的可塑性が作動したのち、主体はかつての主体であるとは主体自身も気づかないほど変化してしまうのだ。

今年コロナ禍で社会に起こったことはこれであったはずである。
しかし、今年起こった出来事がいまひとつ、もやもやした感を残すのは、「主体はかつての主体であるとは主体自身も気づかないほど変化してしまう」ほどの破壊的可塑性の結果を認めることなく、いまだに「いままでどおりの日常に戻る」ことを多くの人が希求し続けているからなのではないかと思っている。

先の引用中に「分割された同一性」という言葉があるとおり、破壊的可塑性の前後では人は同じアイデンティティを持ちえない。
マラブーが例に挙げるフランツ・カフカの短編『変身』である日、虫に変身していた主人公のように。

過去の自分から切り離されて誰も自分を、かつての自分と同じようには扱ってくれない。
いや、場合によっては自分自身さえそうだったりするケースもある。
そのときには、もはや過去の自分ではなくなったことにすら、本人自身が気づかない可能性がある。アルツハイマーなどはそうした例だろう。

本当なら、いまコロナ禍に見舞われた社会に暮らす人々が憂うべきはそうした同一性の分割ではないかと思う。もはや、いまはこのあいだまでと違う、コロナ禍の前後ではもはや同じアイデンティティは持ちえない、と。

しかし、どういうわけか、この破壊的可塑性がうまく機能していないふしがある。
あまりに未知に対する対応力の弱さからか、アイデンティティの喪失すらうまく認められずに、認識が凝り固まってしまっているのだろうか。

誰も、破壊による可塑的な造形については、進んで考えたがらない。しかし、破壊もまた形を与える。殴られても歪んでいても、それは顔である。四肢の切断は、ひとつの体形をもたらす。外傷的経験を負った心も、ひとつの心であり続ける。破壊はそれ自らの彫刻刀を備えている。

破壊とは形成にほかならない

「破壊的可塑性は、すべての可能態が尽きてしまったところから、作動を開始する」のだと、マラブーはいう。

一切の潜在性がとうに失われてしまった時、大人のなかにあった幼年期が消えてしまった時、全体のまとまりが破壊され、家族の精神が消え去り、友情が失われ、絆が消失してしまった時、砂漠のような生はその冷淡さを強めてゆき、そのなかで破壊的可塑性が作動する。

この引用中にあるように「砂漠のよう」であったとしても、それは生である。生が破壊的であろうと可塑的な力をもって、新たなものを形づくろうとする。

COVID-19、そして、気候変動という、これまでの常態を破壊し新たな暮らしのありようの形成を促すものに対して、後向きな保守的姿勢で抗おうとせず、ちゃんと変化を認めて向き合えるかどうか

これまでのものを破壊することで、新たなものを生み出そうとする可塑的な力。それがかつてのヒーロー=道化でなくてなんであろう。

僕らがそれらを非難しているだけで、自分たちの力では何も為そうとしないのなら、そんな僕らこそ未来の可能性を潰す暴君にほかならない。

23.残存するイメージ アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間/ジョルジュ・ディディ=ユベルマン

「生と死」、「栄華と退廃」という循環する自然的モデルにかえて、ヴァールブルクは、断固として自然的でも象徴的でもないモデル、つまり歴史の文化的モデルをうちだした。そこでは時間は、もはやビオモルフィックな諸段階になぞらえられるものではなく、地層、混種の塊、リゾーム、特殊な複合体、予期せぬ頻繁な回帰、そしてつねに挫折する目的によって表現された。さらに「再生」、「よき模倣」、古代の「平静な美」という観念的モデルにかえて、ヴァールブルクは歴史の幽霊的モデルを主張した。そこでは時間は、もはや知識のアカデミックな伝達にならうのではなく、諸形態の強迫観念、
「残存」、残像、再来によって表現された。つまり、非知、思考されざるもの、時間の無意識によって。

さて、最後に紹介するのは、ひとつ前で紹介したばかりのヴァールブルクの思想をめぐるユベルマンの一冊だ。

だから、ここでは先には語らなかった視点からこの本を語ってみたい。ヴァールブルクの「歴史の幽霊的モデル」ということについてだ。

ヴァールブルクは、時間というもの(あるいは歴史というもの)を、生物が幼体から成体へとビオモルフィックに成長するようなものとしては考えなかった。時間はもっと複雑な要素の混合から成り、地下に埋もれてみえないものが予想不可能な形で湧き出てきて秩序を乱すかのように生成するものであると捉えていた。

まさに、地下に埋もれてみえないが、秩序を壊すほどのインパクトをもつものに動かされるからこそ、幽霊モデルということだ。

先にラトゥールが記述せよといったのは、まさにそうした幽霊たちが絡む複雑な動きであり、もし、それを記述するならその形式はヴァールブルクが晩年試みた『ムネモシュネ・アトラス』のようなものになるのだろう。

ようするに、それはマラブーのいう破壊的可塑性の記述でもあり、そのモデル化でもある。ヴァールブルクの幽霊モデルは、マラブーのいう破壊的可塑性が生じる理由を明らかにしたものだといえる。

また、それはバタイユが「不定形の」で書いた「世界はなにか蜘蛛や唾のようなものだ」というのとも同じだろう。実際、ヴァールブルク自身、幽霊モデルを複数の蛇のもつれ絡み合うさまになぞらえている。

僕らが記述すべきは、そうした図式化や実証主義的な言語化のむずかしい複雑な事象である。
その際求められるのは、内と外を明確に分けたり、類型化や差別で自他を分けて確定するような姿勢ではなく、残された資本やテリトリーをそれを求める、幽霊たちも含めた多様なものたちとのあいだでいかに分けあい、持続可能な状態を維持するかを議論し続ける、対話形式の記述だろう。

それはヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』が未完のまま開かれた状態で残されたように、閉じることなく、定型化されることなく、未来に向かって開かれている。

そのたくさんの幽霊たちにも開かれた対話に参加するようになってはじめて僕らはきっと、他者を知らぬ間に搾取する暴君であることから抜け出せるのだと思う。

もともと、ここでまとめたような意図で読んだわけではなく、そもそも書かれた時代も書かれた意図も異なる本たちもこうして振り返ると、ひとつの大きな関心のなかに内包されるものであったように感じられる。
もちろん、それは僕自身がそのように読むからであり、そのようなことを考えてみたかった僕の意図ゆえであろう。

しかし、その意図がこれらの本を読まずに形成できたものかといえば、まったくそんなことはない。これらの本が僕に与えてくれた驚きや破壊的創造があったからこそ、この2020年の終わりに僕はこうした考えにたどり着けたのだと思う。

僕のそうした変化はきっと、ちょうど1年前の読書の振り返りや、半年前に行なった振り返りの文と見比べると明らかなはずである。

その意味でこれらの本は僕に破壊的可塑性を与えてくれたのだと思う。その破壊を受け止めて、いつまでも凝り固まることなく不定形なところからの思考の形成をし続けられる者でありたいと、あらためて思う。

長くなったが、またこうした振り返りに挑戦できて有意義だった。





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