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自分の居場所に行く

外出自粛の要請対象の週末。
要請どおり、家で過ごしている。

まあ、今日にはじまったことではなく、この数週間、近くのスーパーやコンビニに食料品などの買い物に行く以外に外に出ない日は、休日、平日問わず、もう15日くらいは経験してきた。
もはや僕自身にとっても、それほど特別なことではなくなっている。

とはいえ、もともと出不精なんてことはまったくなかった。むしろ、この騒動以前は、不要不急の外出は風邪で熱でも出さないかぎり365日してた方だ。たぶん電車に乗らない日は1年のうち10日程度ではないか。その意味では、これまでの日常からすれば異常ではある。

新しい日常

けれど、先にも書いたとおり、外出しない日が週に3-5回程度あるいまは、もはや「特別」ではない。
いや、何かの状態を固定して普通だとか、日常だとか捉えてしまうから、特別や異常が生まれるわけで、普通とか日常とかいう固定そのものを解いて変化を受け入れれば、いまの状態だって普通や日常が失われた特別でも異常でもない。
つまり、これが新しい日常だ。
そして、この日常だって、いつかまた別の日常にいつでも置き換わる可能性がある。

ところで、この家から出ることの自粛や、不特定多数の人が集まる密度の高い室内で過ごすことの自粛が求められる新しい日常は、僕にとっても最初は慣れない面はあったけど、すでに受け入れられたものとなってきてもいる

毎日外出してた僕だけど、それができなくなってもそんなには困ってはいない。
特に、家から出られないからといって「することない」なんてことは一切感じない。

これまでの日常以上に、いまの新しい日常ではほぼ毎日料理をしたりそのことを考えたりすることが増えて、食事をすることがこれまで以上に楽しいし、本を読むことはこれまで通り楽しく、家にいるぶん、外に持ち歩けない分厚く大きい本を読むことが増えていて、そこにも新しさがある。

外に出れない分、やれなくなったことは多いけど、じゃあ、やりたいことがそれでなくなったかというとそうじゃない

だから平気なのだ。

世界は1つではない

こういうことかなと思うのは、確かに、外に出て行きたいところには行けなくなったけど、まだほかにも自分の居場所といえるいくつかの選択肢(料理をして美味しいものを食べること、いろんな好きな本を読むこと、そして、このnoteを書くこと、など)には引き続き行けているし、場合によっては、これまで以上に行けている、だから困っていないのかな、と。
いくつかの選択肢が奪われたのは確かだけど、かといってほかの選択肢がちゃんと残っていて選べているから、トータルの日常時間はちゃんと満たせているし、それはこれまでとは違うけれど、充実はしているのだ。

思ったのは、何も行くべき場所というのは、家の外にばかりあるわけではないということだ。
いや、それ以上に、自分を満たしてくれる自分の居場所って、結局は自分がそれをして過ごしたいと思える、自分自身でつくる場所なんだろうということだ。

人間なんて、そもそもリアルのままの世界になんて生きていない。いろんな情報や、いろんな思い込みや、いろんな慣れや親しみで、包み込まれて、ヴァーチュアルなものと化した世界に生きている

私はただ投げ入れられているだけではない。この部屋にあるのは、自明で退屈な現前の集合にすぎないものではない。というのも、私自身の実在が、それらの事物の私への現れ方に影響を与えるからである。子どもや犬、アリであれば、私と同じ仕方でこの部屋に出会うことはないだろう。私が出会う事物は、私自身の可能性によって投企されており、その可能性は、他のどんな生物の可能性とも異なっているのである。

というグレアム・ハーマンの『四方対象』中の指摘を待つまでもなく、同じリアルな場所を占める人同士だって、その場所を同じように認識していないし、思えるようには理解していないことは明らかだ。

同じ場所にいる人同士でも、それぞれが違った思いでその場所にいて、その場所との関係をもつ。
そのことは同じコロナの蔓延した世界に、いや、この日本国内にいても、さまざまな人がさまざまにいまの状況を認識し、さまざまな行動選択をし、ときに自分の状況認識から他人の行動を批判し、同じように、その状況認識ゆえの行動を別の誰かから批判される状況をみればわかる。
それぞれの人に、それぞれのコロナに罹患した世界が見えている。
複数の世界(認識)があるにだ。

どの認識、どの行動が正しいなんてことはなく、どの認識も――科学的根拠に基づく専門家の認識でさえも――なんらかのバイアスがかかっているし、にもかかわらず、そのバイアスを含めてみればどの行動もそれなりに一理ある。

だから必要なのは、互いに自分の認識の正しさを根拠に相手を批判することなどではなく、相手の論拠の正しい部分も汲みとりあった上で、異なる認識に基づく判断をともに協調できるような解を、互いの議論により創造することだ。
まずはすべての人が、自分の見ているのは、自身のバイアスのかかった世界であるという認識することだ。その認識をした上で、自分と異なる見方や行動をしている人と話をすることが必要だ。違うものを見てる相手に、自分の見えてる世界(観)を前提に「それは違う」なんて言ったって通じるはずはないのだから、違うと感じたら、相手には世界がどう見えているかを理解することのほうが先決だろう。

自分の居場所に行く

人間にとって、場所とは物質的なものだけでつくられた世界ではない。

そういう人間にとって、自分の居場所とは、場所そのものだけでできているのではなく、その場所との関係でつくられるものだし、場合によっては僕にとっての家でする料理や読書のように、場所の要素以上に、そこで何をするかの方が「自分の居場所」感をつくる大事な要素だったりもするのだろう。

「アフターコロナの世界」というキーワードが囁かれたりしているが、その世界を考える上で、この新しい居場所感を考えることがより重要なものとなってくるのだろう。

だから、いま自宅から出られないことを苦しいと感じている人がいたら、あらためて自分の居場所をつくる上での大事な要素を、できるだけ多くリストアップしてみるといいのかもしれない。
そのなかで、いま外出自粛のせいでできないことがあって、それゆえに不満を感じたり、不安に思ったりするかもしれないが、もしかすると、リストのなかには外出自粛が影響せず、僕にとっての料理や読書のように、家にいた方がやりやすいことがあるかもしれない。そこに新しい自分の居場所が見つかれば、外出自粛の負担は軽減されるはずだ。外からの制約は必ずしも、自分自身を縛るものにはならない。本当に自分を窮屈なかたちで縛ってしまうのは、状況が変わったのにそれ以前の状態に固執して自分の暮らし方を変えられない自分自身の思考のバイアスである。

もしリストのなかになかったとしても、この機会に以前から気になってたことをはじめてみるという選択肢だってある。アフターコロナの世界を考える上では、それぞれが自分の居場所を見つけるということがそれぞれの暮らしの幸福を考えるうえでより大事になってくるだろう。

新しい仕事のスタンダード

同じことは仕事での変化においても感じる。
オフィスに行く機会が減ったぶん、どうするとリモートワークの人同士がうまく仕事することができるだろうと考えることが多い。

僕自身、「オフィスで互いに見えるかたちで仕事をする」から「インターネット上のヴァーチュアルな空間で互いに見えるかたちで仕事をする」への切り替えについて模索するのは実は案外楽しかったりする。
仕事をする上での居場所は、オフィスや自宅がそうであるのと同じように、インターネット上のヴァーチュアルな環境だって、仕事をする人たちの居場所であることを、あらためて考える必要があるのだと感じている。特に、複数人でのコラボレーションワークをヴァーチュアルな場で行うにはどんな働き方をどのように行うかということについて。
そのためには、ヴァーチュアルな空間で互いにどんな仕事をどうやってしており、どのステイタスにあるのかが直感的にわかる必要がある。

いまは、僕自身、刻々と変わる状況に、会社での仕事のルールをどう変える必要があるかを考え、議論し、告知しないといけない立場なので、そのことに時間を割かれて大変な面はあるが、かといって、何かが失われていくと悲観する面はそれほどない。
それよりも、何かを変えていかなくてはならない、変えることでこの状況に適応し、守るべきものは維持(売上とか利益とか)しつつも、変えるべきものは変える(何の価値を提供するか、どういうやり方で価値を提供するか、どういう働き方をするか、など)ことで、こちらも新しいスタンダードを見つけていけばよいと思っている。

これもプライベートと同じで、結局は自分たちの仕事をするための居場所づくりであり、それは場所そのものの問題というよりも、何をするか?ということの方が大きい。

オンラインでできるワークショップというバイアス

仕事のやり方でいうと、僕らはこれまで比較的対面でのワークショップなどで、多様な視点をもった人々の知見や考えを融合させることで、新たな価値の創造を目指すスタイルをとることが多かった。
でも、とうぜん、このソーシャル・ディスタンスが求められる環境で、それなりの人数がそれなりの時間集まってワークをするのは適さない。

だからといって、ネット上でもよく見かけるように、オンラインでワークショップをするには?なんてことは考えていない。
それは「顧客に聞いたらもっと速く走る馬車が欲しいというだろう」という自動車登場時のフォードの逸話と同じで、従来の「日常」や「普通」のバイアスに囚われた発想だと思うからだ。

ポイントは、ワークショップをオンラインでどう再現するか?ではない。
新たな価値の創造という目的のため、多様な視点をもった人々の知見や考えを融合させるということさえ引き継ぐことができれば何もワークショップなどにこだわる必要などまったくない。

大学から書簡へ

たとえば、16-17世紀のヨーロッパの宗教戦争の時代。「果てしない宗教戦争によって、学問の流動性は劇的に減少」、「大学が成長する際に原動力となっていた、知的な好奇心に突き動かされた自発的な移動は減っていた」時代に、書簡そして後には印刷された書籍が分断されたヨーロッパ知識人をつなぎ、知的コラボレーションの方法となっていたことを『知はいかにして「再発明」されたか』で、著者のイアン・F・マクニーリー、ライザ・ウルヴァートンらは明らかにしている。彼らは書簡でつながった知識人の共同体を、「文字の共和国」と読んでいる。

文字の共和国は、宗教と政治の混合体によってヨーロッパが引き裂かれた瞬間に生まれた比喩的な方策であって、この危機の時代に、大学に代わってヨーロッパの学問を縫い集め、古き大学と競い合いもすれば互いに補い合いもする世俗的な学問の制度となった。

ワークショップだって、専門領域や企業内の縦割の組織体制の問題や、オープンイノベーションへの対応から求められて、ビジネス領域で行われるようになったひとつの方法でしかない。
何もそれだけが、複数の分断された知識をつなぎとめる方法でないことは、大学から書簡へという歴史的な変化の事象が語っているし、それが戦争という危機に基づくものだという点も、いまと類似する。

当時の知識人たちが大学にこだわらず、書籍という新たな方法で知的コラボレーションを新たなスタイルに置き換え維持したように、僕らだってリアルの場で対面して行うワークショップなんて方法にこだわらず、ヴァーチュアルな空間でよりやりやすい知的コラボレーションの方法に移行すればよい。
ポイントが異質な領域の人たちがそれぞれのもつ知を融合させて、新しい価値の創造を行うことであるのを見失わなければ、どうにでもなる。

むしろ、そこでワークショップという方法に固執してしまうからこそ、自宅勤務や外出自粛が来るしく感じてしまうように、閉塞感に悩まされることではない。

そうではない。
いままで慣れた場所だけが自分の居場所ではない。
既存の場所に囚われて雁字搦めになってしまうのではなく、何をしたいのか?という観点からそのときの事情にあった新しい自分の居場所を見つけて、そこに赴く柔軟性こそがバイタリティを高めるためには重要だ。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。