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「見ることと考えることの歴史」プロローグ

「見ることと考えることの歴史」についての本の執筆を数年前に企画し、断念した。断念はしたが、だいたい8割くらいは書き上げていたのではないかと思う。その原稿はずっと眠ったままだった。なので、これから、すこしずつここで公開していこうと思う。

まずは、そのプロローグから。

プロローグ

ヨーロッパの絵画の歴史的変遷を現代から遡ってみたとする。その際、13世紀から14世紀の前半あたりの時代で急に遠近法が稚拙になるのを見つけて面白く感じる。さらに時代を遡れば遠近法的構図はまったく消えてなくなる。つまり、絵画の歴史においては13世紀から14世紀の前半あたり、ちょうどルネサンス前夜にあたるゴシック期に遠近法的表現がはじまるということだ。

しかし、初期の頃の遠近法的描写は稚拙である。そのほとんどが歪んでいて違和感がある。代表的なのはイタリアのチマブーエやドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャらの作品。チマブーエが1270年に描いた『聖母と天使たち』を見てみよう。

聖母が座る台座を立体的に表現しようとしているが、透視図としては明らかに不正確である。不自然であるがゆえに、現代に生きる私たちは違和感を感じて、そこばかり気になってしまう。とはいえ、私たちが普段見慣れている絵もすべてが遠近法的を忠実に用いて描かれているわけではない。例えば、ピカソらの絵のように意図的に遠近法を裏切っている絵のことをたくさん知っている。ただピカソらの絵を見たときとは異なる落ち着かない印象を、チマブーエらの絵からは感じてしまうのはなぜだろう。その感じを言葉にすると何か「間違っている」「失敗している」という感じなのだ。ピカソらの意図的な歪みの表現とはそこが違って見えるのだ。

遠近法が方法として確立されたのは15世紀に入ってすぐの頃のことである。

フィレンツェの建築家フィリッポ・ブルネレスキが幾何学的に方法したのが最初だ。ようするに、まず建築における作図法として整備されたということになる。しかし、すぐに絵画にもその方法は取り入れられる。ブルネレスキの友人でもあった人文学者のレオン・バッティスタ・アルベルティが1435年に著した『絵画論』のなかで理論化している。

すでに1世紀も前からチマブーエらが二次元平面である絵の中に三次元の立体的な空間をなんとか描きだそうと試みはじめていたのだから、理論化された遠近法的描法に画家たちが飛びつくのも無理はなかっただろうと思う。ルネサンス期の芸術において模倣(ミメーシス)が根本テーマとされたことも画家が遠近法を用いることを後押しした。現実を忠実に再現するための手法として遠近法は効果的だと画家たちが受け止めたからだ。ブルネレスキの透視図法で足りない部分は、レオナルド・ダ・ヴィンチが空気遠近法を発明して補った。

こうしてチマブーエらの絵にあった「間違い」や「失敗」の原因となる歪みは画面から消えていった。私たちを含め、その後の時代を生きる人々はいつしか遠近法で描かれた絵を現実の世界を「正しく」「自然に」写しとったものとして疑わなくなる。その逆に、遠近法以前のチマブーエらの絵を「失敗」と感じるようになってしまった。

興味深いのは、絵画史のなかでその次に起こったことだ。

16世紀になるかならないかの頃、ルネサンス芸術に代わり、マニエリスム芸術が台頭しはじめる。自然や現実を忠実に模倣しようとしたルネサンスと異なり、マニエリスムの画家たちは世界をあえて歪みねじ曲がった形で描きはじめたのだった。その歪んだ絵画は見方によっては遠近法以前への「失敗」の時代への逆行ともとれる。

同じ時期、現実の世界でも歪みが生じていた。16世紀というのはヨーロッパ全体が混乱に陥った時代である。イタリアでは、15世紀の終わりから半世紀に渡って、神聖ローマ帝国・スペインのハプスブルク家とフランスのヴァロワ家がイタリアを巡って争ったイタリア戦争が起こっている。宗教改革によるカトリックとプロテスタントのぶつかり合いもヨーロッパ全土を巻き込み、繰り広げられていた。中でも象徴的な事件が一五二七年に起きたローマ劫略(サッコ・ディ・ローマ)だ。神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール五世の軍勢が当時教皇領であったローマで殺戮、破壊、強奪を行ったのである。この事件でルネサンス文化の中心でもあったローマでは多くの芸術家が命を落としたし、また多くが他の都市へと逃げ去った。盛期ルネサンスの事実上の終わりであった。

そんな血のにじむ混乱のヨーロッパにマニエリスム芸術は登場。マニエリスムの画家たちは自らが感じた混乱する世界の歪みを描きあげたのだった。

例えば、ローマを中心に活躍したパルミジャニーノという画家がいる。ここでは彼が1523から24年にかけて描いた『凸面鏡の自画像』という絵を、マニエリスム期の画家たちの絵の特徴をよく示すものとして紹介したい。

タイトル通り、凸面鏡に映った自分の姿を描いた絵だ。凸面鏡に写ったものを描いているので手前にある画家の右手が異様に大きくなって歪んでいる。また、彼の背景にある部屋も丸い絵の輪郭に沿う形で大きく変形している。そう、ここに描き出された画家の住む世界は歪んでいる。

凸面鏡であるとはいえ、鏡に映ったものをそのまま描いているのだから、これもルネサンス期同様の現実世界の模倣だということもできる。ただし、画家自身、あえて凸面鏡を用いているのだから、この歪みは意図的だ。パルミジャニーノはあえて歪んだ自分のイメージを描こうとした。そう考えてよいはずだ。だから、この歪みは先のチマブーエの絵の台座の歪みとは違う。これは現実の空間を正確に描く手法をまだ知らなかったルネサンスより前の時代の歪みではなく、正確に描く手法をすでに得た上があえて同じ正確さを用いて描いた歪みなのである。人間が世界を自分の見たままに描けるようになったのがルネサンス期であったとするなら、マニエリスム期において人間は自分の思いのままに歪ませた世界を描けるようになったのだということができる。外の世界から受けた刺激を描くルネサンスに対して、自分の内側にある思いを世界に反映するマニエリスム。まさにパルミジャニーノのこの作品に対して、アメリカの文化史家であるワイリー・サイファーが指摘しているのは、そのことだ。『ルネサンス様式の四段階』から引用する。

パルミジァニーノは内面のイメージ−「ディセーニョ・インテルノ」−に視線を注いでいるように見え、外在の現実よりも内側から絵を描く。

内側から描くパルミジャニーノ。彼が描く絵が歪んでいるのは、凸面鏡が歪ませているからではなく、彼自身の内面に映る世界のイメージがすでに歪んでいたからだ。画家はその内面に忠実に描いたのだとサイファーは指摘している。

マニエリスム期の画家にとっての絵を描く際の新たなコンセプトが、この自分の内面のイメージを忠実に描くということであった。それを「ディセーニョ・インテルノ disegno interno」と呼んだのが、マニエリスム期の画家であり、建築家であったフェデリコ・ツッカーリである。ツッカーリは1607年にエッセー『絵画、彫刻、建築のイデア』の中で「ディセーニョ・インテルノ」という言葉を用いて芸術家の創造とはどういうものかを理論化している。

ツッカーリが考えたディセーニョ・インテルノがどういうものだったか、ドイツの文化史家であるグスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』の中の説明を参照しながら、すこし見てみよう。

最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これを要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図=ディセーニョ・インテルノ〉である。

内面に生まれる綺想体。綺想は、綺想天外の綺想であって、簡単にいえば普通思いつかないような奇抜なイメージだと思えばよい。そういう奇抜なイメージを見ることができるのが芸術家の力だとツッカーリは考える。この普通思いつかない奇抜なイメージこそ、ツッカールのいうディセーニョ・インテルノだということだ。「かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図=ディセーニョ・エステルノ〉へともちこむことに成功する」とホッケは続けて説明しているが、ようは人には思いつかない普通でないイメージを思い浮かべることができ、なおかつ、それを絵にすることで自分の外の人にも見えるようにすることが画家の仕事であるとツッカーリは考えているわけである。

人間が自分自身の内にあるイメージを絵として外在化することは何でもないことではないかと、現代の私たちはつい考えてしまいがちである。しかし、この時代においてそれはとんでもなく大きな変化だった。なぜなら、人間が自分自身の内面を描こうとしたことはそれまでの時代に一度もなかったことなのだから。ルネサンスの時代は先述のとおり、外の世界の模倣(ミメーシス)が芸術家の表現の根本にあった。それより前のゴシックから遡る中世の芸術においては作られるイメージはすべて神のものであった。芸術家は神が見せてくれたイメージをそのまま表現したのである。ようはマニエリスム期になるまで人間は自分の内面に浮かんだ自分自身のイメージを描きだそうとしたことがなかったわけで、そうであるゆえにツッカーリのいうディセーニョ・インテルノは大きなパラダイム・シフトだったわけである。

ホッケによる解説の続きを引く。

〈内的構図〉は、さながら同時に視るという観念でも対象でもあるような一個の鏡にもくらべられる。というのもプラトンのさまざまなイデアは、神が〈神自身の鏡〉であるのにひきかえ、〈神の内的構図〉であるのだから。神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人工の〉事物を創造する。

戦争や内乱、疫病の流行により危機に瀕した16世紀の社会で大きな転換が起こっていた。パルミジャニーノが凸面鏡を使って歪んだ世界を描きだしたように、同時に「観念でも対象でもある」鏡を用いて、内=観念、外=対象を巧みに反転させる技=マニエラ。この内と外の反転を人が意識的に行えるようになったということが重要だ。なぜなら、それこそ人間による真に人工的な創造のはじまりだといえるからだ。中世的な神による創造の真似事でもなく、ルネサンスの自然の模倣でもない、人間自身の内面にあるイメージを人間自身が外の世界において現実化すること。ツッカーリがディセーニョ・インテルノと呼んだのはそういうことだ。

ディセーニョ・インテルノ。英語に訳せばインテリア・デザインだろうか。そう。実はここにデザインが登場しているのである。内なるイメージを現実世界において形にすること。確かにデザインである。

時代もちゃんと符合する。オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリーをみれば、英語としての”design”という語が最初に登場したのが1593年だとわかると指摘するのは高山宏氏である。「絵」の用法では1638年が最初だという。ツッカーリが1607年の『絵画、彫刻、建築のイデア』で人間による創造行為を理論化したのとほぼ同時期である。

デザインとは、自分の内なるイメージを元に、外の世界を変えていく思考あるいは活動にほかならない。自分たちにとってのより良い世界をつくるため、内から外へとイメージを投射するための計画あるいは企図、それがデザインである。その人間の活動が言葉として意識されはじめたのが16世紀後半から17世紀の前半であった。そんな仮説がツッカーリのディセーニョ・インテルノや、オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリーによる記述から浮かび上がってくる。

内に理想があり、それを様々な工夫を通じて外の現実世界において実現する。そのための一連の思考とそれに基づく行動をデザインと呼ぶ。であれば、実は、現代を生きる私たちにとってすべての思考は実はデザイン的な思考と呼べるのではないか。本論を書き進める上での根本となる仮説はそれだ。この仮説をベースにいろんなものを捉え直していくと結構面白いはずである。そういう姿勢で本論は展開される。

例えば、その仮説が正しいとすれば、所謂「デザイン思考」に対する見方もちょっと変わる。すべての思考がデザイン的な思考であれば、あえて特定の思考法のみを「デザイン思考」と呼ぶのはナンセンスである。さらにその思考法を学ぶのにあくせく右往左往するのもおかしな話だ。「現代を生きる私たちにとってすべての思考は実はデザイン的な思考」という仮説が正しければ、あえて学ばなくても私たちはそれを知っているはずだから。むしろ、私たちにとっての本当の問題はこうではないか。すべての思考がデザインだとしても、私たちはその自分たちの思考の特徴がまったくもってよくわかっていない! 

ということで、本論で明らかにしていきたいのは次の点である。

・少なくともマニエリスム期以降に人間の思考の形となったデザイン的思考というものが一体どういうものか
・デザインという思考のあり方を意識し始めたのがマニエリスムの時代だとして、その思考法がなぜその時代に浮上してきたのか。それを準備したものはいったい何か
・ツッカーリは内的構図ということで視覚を前提としていたし、パルミジャニーノは鏡というモティーフを前景化した。果たしてデザイン的思考と視覚の関係性はどのようなものなのか。そして、なぜ視覚なのか
・マニエリスム期以降、人間の思考法は一気に変わったのか。デザイン的思考も時代の流れにおいて変遷していったのか。変遷したとすれば、いつ、どのタイミングでどう変化したのか
・デザイン的思考は人間社会にどんなことをもたらしたのか。それは現代において、どのような影響として残っているのか
・デザイン的思考は今後どうなっていくのか

というわけで、第1章では、ここまで16世紀から17世紀にかけて、人間の思考の形がどう変わったのかをざっと見てきた。そこに遠近法やアナモルフォーズを中心とした視覚表現技術やその数学的理論化、あるいは、望遠鏡や顕微鏡、マジカル・ランタンなどの光学機器、さらには各種のミュージアムやそこで行われた観察や実験が、人間の思考の形を変える大きな要因と関わっていたことを駆け足で紹介してきた。ここであらためて振り返ってみても、この時代の思考の方法の変化を促しているものの大部分が視覚にまつわるものであったことは理解できるのではないだろう。

中世と呼ばれる1000年以上の期間、ある意味、ヨーロッパ世界では大きな進歩もみられない状態が続いていたのだが、それが15世紀半ばのルネサンス以降、徐々に進歩の速度が上がってくる。その流れはやがて18世紀も半ばになる頃には産業革命につながっていくのはよく知られたことだ。この進歩の加速を可能にした人間の思考スタイルの変化の背景にここまで見てきたような視覚情報にまつわる様々な変化があったことは見逃せない。そして、本論が「すべての思考はデザインである」と考えるとき、この16世紀、17世紀を通じて徐々にはっきりと表面化しはじめた、視覚情報を偏重的ともいえるほど利用することで想像の空間と生きる空間をつなぎあわせて創造を可能にする思考スタイルこそをデザイン的思考だと捉えている。その観点から本書では次章以降で、あらためてこのデザイン的思考の誕生とその洗練、定着の流れ、そして、その思考の特徴や現代におけるデザイン思考の動向、さらには今後のこの思考スタイルの行方について見ていこうと思う。

まず、次の第2章では、いつ何がデザイン的思考を生みだす土壌を用意したのかを見ていきたい。詳しくは次章で説明するが、その源泉となったのはグーテンベルクによる印刷技術の発明であると考え、デザインの時代の始まりを活版印刷が発明されたとされることの多い1445年に置く。その15世紀半ば以降のグーテンベルク革命がどのようにデザイン思考が生まれる土壌を用意し、本章で見てきたような16、17世紀の動きを可能にしたのか、あるいは、17世紀半ばの英国王立協会(ロイヤル・ソサエティー)の設立をターニングポイントとして18世紀の啓蒙の時代における曖昧さやイレギュラーなものの排除がデザイン的思考をどのように導き、また産業革命が本格化して社会生活環境の大きな変化をもたらす19世紀において、いかにその後の20世紀においてデザインというものをあたかもプロダクトデザインやグラフィックデザインのような形や機能を云々するものという狭い領域に閉じ込めてしまうような錯覚が起こる準備をどのように進めたかも順を追って見ていきたい。こうしたデザインの時代の始まりから現代にいたる直前までの流れを追いつつ、2章の後半では、そのデザインの時代の終わりについてもすこし考えみようと思う。デザインの時代の終わり、それは2045年に訪れる、シンギュラリティーとともに。ここではそれだけ書いておいて、詳しくは2章であらためて書いてみたい。

そして、最後の章となる第3章では、2045年のデザインの終わりの時に向けて、デザイン的な思考しかできない私たち自身がどのようなことを考え、どう行動をしたらよいかということについて、簡単な見取り図をデカルト座標上にマッピングしてみようと思う。

これまでのデザインをめぐる議論ではなかなか試みられることのなかった視点から、デザインという思考の歴史的な変遷を追うことで、浸透しすぎているがゆえにもはや見えなくなってしまっているデザイン的な思考の特性を浮かび上がらせようというのが本論の狙いである。識域下に隠れたものにまで光を当てようという試みゆえ、世間一般でいう「デザイン」と本書がいうデザインの間にギャップが生じるのは承知の上である。いや、ギャップが明るみに出なければ、むしろ、本論の試みは失敗ということかもしれない。けれど、この道は決して道なき道ではない。ここまでも多くの先人たちの研究を元に思考を展開したように、見つけにくい道ではあっても決して存在しない道を切り拓くようなものではない。あくまで先人たちが照らし出すいくつもの点をつなぎ合わせることで、デザイン的思考の歴史という道をプロジェクションしてみせる試みなのだ。

では、はじめてみよう。

→「見ることと考えることの歴史 第1章


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