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眼にみえるものを再現するのでなく、みえるようにする

GWをドイツで過ごしている(いや、すでに「いた」か)。
旅先ではその土地の美術館を訪れるのが、僕の旅の楽しみ方のひとつ。
滞在先のひとつミュンヘンでは、3つの美術館をはしごした。収蔵品の時代別に、アルテ・ピナコテーク、ノイエ・ピナコテーク、ピナコテーク・デア・モデルネと分かれている。パリで言えば、ルーヴル、オルセー、ポンピドゥのようなものだ。
3つの美術館を1日で見て回ったので、かなり足早に回っても半日以上を費やした。

そのうちの1つ、ピナコテーク・デア・モデルネで運良くパウル・クレーの回顧展が行われていた。

2年前にも、ポンピドゥでクレーの企画展を見たので、海外ばかりで2度もクレーを見たことになる。前回とは展示された作品も違うし、編集のされ方も異なるので、新鮮な気持ちでみることができた。今回はその感想と見終わったあとのこ考えたことを書いてみたい。

今回、3つの美術館をはしごする中で、クレーの作品を集中して見られたので、あらためて感じたけれど、クレーの美術史における立ち位置は特異性を持っているように思う。
年齢的にはピカソの2歳上。なのに、ピカソのキュビスムよりもクレーの造形理論は先を行っているように僕には感じられる。いや、理論だけでなく、実際の作品そのものから、そう思えるのだ。

クレーの作品は、決して具体的な何かを描いているわけではない。かといってまったくの抽象的なイメージというわけでもなく、何かのイメージを想起させるような印象を漂わせる。

例えば、下の作品であれば、人間の顔のようなイメージも読み取れれば、何軒かの家のある小さな町の風景にも見える。

ダリオ・ガンボーニが『潜在的イメージ』で、その本の主題としても取り上げていた、芸術家と観る者の双方の介在によって生まれる「潜在的イメージ」について、こう書いていたのを思い出す。

「潜在的イメージ」とは、「観る者の精神状態」に関わるイメージ、作者の意図に呼応しながらも、観る者の介在によってはじめて完全に存在しうるイメージのことである。

観る者の介在によって完全に存在する。まさにクレーの絵もそのようなものだと言えそうだ。

クレー自身、 1918年の論文「創造の信条告白」の草稿で、こんなことを述べている。

芸術とは眼にみえるものを再現することではなく、眼にみえるようにすることだ。

再現ではなく、眼にみえるようにする。美術史においては、何度かそのような変換が起こる。
例えば盛期ルネサンス期からマニエリスムへ移行する際がそう。ミメーシス=模倣を旨としていた盛期ルネサンスの時代の後、ディセーニョ・インテルノ=内的構図と呼ばれる芸術家の内面のイメージをいかに表現するかを問われはじめる。
18世紀後半から19世紀初頭にかけて、新古典主義に代わってロマン派が台頭してきた時もそうだ。そういえば、明日は朝からルーブルにロマン派を代表するドラクロワの企画展を見に行く予定。

そして、クレーにすこし先立つ19世紀の末、ナビ派の芸術家たちの中でも理論派として知られたモーリス・ドニが「絵画作品とは、裸婦とか、戦場の馬とか、その他何らかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である」と述べたと言われているが、そのナビ派にしても同様だ。
ここからクレーの言うような結論もそれほど遠くないと思う。

けれど、ドニらナビ派の画家たちが描いたのは、再現の度合いは重視されなくなってきていたとはいえ、相変わらず、具体的に「眼にみえるもの」だった。その作品を成り立たせていた「秩序」のうちに、現実世界のありようは確かに残存していたといえる。

だが、クレーが描いたのは、こうした作品だ。

こうしたクレーの作品を成り立たせていた「ある一定の秩序」とはなんだったのだろうか?

上の作品をみてもそうだが、クレーが描く線あるいは面は一筋縄ではいかない。それは非常に複雑な表情をもった線であり面だ。線は面を分割するが、色分けされた面は線による分割を曖昧にするし、面もまた複雑な滲みや点描による構成から単純な面をなさない。
果たして、ここにどんな秩序を見いだせばよいのだろう?

前田富士男さんは『パウル・クレー 造形の宇宙』で、次のように書いている。

クレーが再三要求する運動フォルムとは、「すべての形態、とくに有機体の形態をみるとき、そこに見出せるのは、とどまるもの、静止したままのもの、閉ざされたものでなく、むしろすべてがたえず運動してやまない」(ゲーテ)、そうした有機体の形態としての作品にほかならないのである。有機的形態の場合、部分と全体の関係を論証的に定義することは困難である。有機的形態をとらえるには分析的論証的態度ではなく目的論的態度にたつ高度な観照、ゲーテが直感的判断力と呼んだ独自な思惟が必要である。

と。

ゲーテがここに登場する。
話は逸れるが、今回の旅はゲーテにも縁があった旅だ。
最初の訪問地、フランクフルト・アム・マインはゲーテの生誕の地である。再建されたゲーテの家も残っている。

実際行ってみた。

裕福な銀行家の家に生まれただけあり、大きな家だ。

そのゲーテが形態について、こんなことを言っている。

ドイツ人は、実在する物の複雑な在り方に対して形態(ゲシュタルト)という言葉をもっている。この表現は動的なものを捨象し、ある関連しているものが確認され、完結し、その性格において固定されていると見なす。
しかし、すべての形態、とくに有機物の形態をよく眺めると、どこにも持続するもの、静止するもの、完結したものが生じてこないことに気がつく。むしろ、すべてのものは絶えず揺れ動いているのである。それゆえドイツ語は、形成という言葉を適切にも、すでに生み出されたものについても、また現に生み出されつつあるものについても使うことにしているのである。

ドイツ語では、形態=ゲシュタルトという言葉を「すでに生み出されたもの」についてだけでなく、「現に生み出されつつあるもの」についても用いられるという。このゲシュタルトの考え方自体が、クレーの芸術観にもリンクするし、先の潜在的イメージにおける観る者の介在による完成という考え方にも似る。

そして、先のゲーテの言葉が彼の「植物形態論」からの引用であることからもわかる通り、生み出されつつあるものとしての形態とは、有機体一般の形態にいえるものであり、ゲーテ同様、クレーがみていた運動フォルムとはまさにそうしたもので、それが彼の作品を成り立たせる「ある一定の秩序」なのではないだろうか。

実際、クレーには、「夜の植物の成長」と題された、こんな作品がある。

成長をあらわす、幾何学的な形態と色の積み重なり。クレーのいう造形がこうした有機的な形態の運動フォルムを意味し、その形態形成のメカニズムの探求だとすると、クレーの作品をみる目が変わる。

森の中を走る鉄道や、

砂漠の中の都市なども、

植物が成長するように、動的に街や鉄道のような大規模な機能が形成される。
ある意味、現代のバイオテクノロジーの応用としての建築のメタボリズムを先取りしたものともいえるかもしれない。

芸術のもつ力が眼にみえるようにすることだとしたら、それはそういうことも含めてなのだろう。

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