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リテラシー強化週間

コロナウィルス禍によって、社会における活動の場が否応なくリアルな場からオンラインの場に重心がシフトしている。

身体や物理的空間が活動を支えるのに果たす役割が少なくなって一方で、代りに創作されたもの、表現されたものが活動を支えなくてはならなくなっているのだと思う。
たとえば、オンラインでのミーティングやブレインストーミングの場においても、これまでのようにただダラダラと喋っても生産性は上がらなくなっていて(まあ、普通の会議はリアルであっても生産性は低かったというのは置いておいて)、事前あるいはその場において何らかの創作物や表現物による具体的かつ一部責任もおうことになる意志表明を出席者の誰かが行わない限り、その場自体をもつ時間が無駄になる。

つまり、意識的であるかどうかがこれまで以上に問われるようになってきているのだ。
しかも、創作や表現を通じて、自身の思いや考えを意識化したり、他人の思いや考えを読みとるという力が生産的であるためには不可欠になってきている。
仕事をする上で必要な能力や姿勢が大きく変わろうとしているのだ。

意識を外部化しないと存在しないのと同じ

変化の方向性としては、従来のリアルな場で行われていたときなら、マネージャーやファシリテーターによって補えていた個々人の能力の不足が補いにくくなるゆえに、個々それぞれの生産性がより求められ、同時に、個々の仕事に明確な役割付与と権限委譲が行われるようになるのだろう。

なにより物理的に場を身体の存在によって占めることのできるリアルの空間とは異なり、オンラインの場においては意識的にみずからをその場に指し示さないかぎり存在しないのと同様だ。個々人は意識して自分の思いや考えを外部化することが求められる。

マネージャーやファシリテーターも、存在しないのと同様のものを相手にマネジメントやファシリテーションは困難だ。
たとえ存在を示すことができる人たちが集まっていたとしても、オンラインの場においては同時に複数人が存在を示すということがリアルな場以上にむずかしい。
ビデオ会議では同時に2人以上の人が発話したら聞き取れないことをイメージするといい。リアルな場ならメインの話者がしゃべっているのも聞きながら、となりの人とすこし会話したりはできるが、ビデオ会議ではそうはできない。ビデオでの会話とテクストでのチャットの組み合わせで同様の状態はつくれるが、ようは結局テクスト化したりテクストを理解する力が必要になる
そんなこともあり、オンラインでは時間を同じくした同期の場の有効性は低くなり、結果、生産性は落ちる。

オンラインの場に適した外部性を選択する

過去のやり方にこだわり、リアルなやり方をオンラインに置き換えようとする発想そのものを変えなくてはいけない。

であれば、とりうる選択肢としては、生産のしくみのなかで、できるだけ、分散型や非同期型の割合を高めることになる。

それを可能にするためにもテクスト化を中心に、自分の思いや考えを形にする創作、表現スキルをひとりひとりが身につけなくてはならないだろう。
これまでなら身体性や物理的な空間性に頼っていた部分を、創作物や表現物という別の外部性に置き換える必要があるからだ。

人間が、外部化されたものを介してしか他者とのコミュニケーションがとれない以上、リアルな場で同期型で行うコミュニケーションから、オンラインの場で非同期中心に行うコミュニケーションにシフトしたなら、外部性のメディアもそれぞれの環境に適したものとして身体的、リアル空間的なものから、創作表現的、デジタル的なものに変更するのは当然なのだ。

テクストに変換、テクストから変換

だからこそ、この新しい環境下においては、ひとりひとりに、自分自身を意識化できるかどうかが問われるようになる。

先にも書いたとおり、自分の思いや考えをオンラインの場に外部化できなければ、社会に存在しないと同様なのがいまの状況だ。

ビデオ会議は一般化してきているとはいえ、同時に複数人が発話しにくい性格もあるため、その場はこれまで以上に声の大きい人の意見が通りやすい場になりやすい。
それゆえ、個々人それぞれを生かすためには、会議のような同期型ではなく(これにはセミナーや学校での授業や講義も含まれる)、非同期型での作業――思いや思考を整理し、創作や表現を通じて意識化する作業――を各自が行った上で、同期型の共有やレビュー、ディスカッションを行う形をとる形に変える必要がある。そうしないと生産性は上がらない。
そして、その個々人の作業〜レビューのスパンをできるだけ短くすることだ。アジャイルやスクラムといった開発の手法を一般の業務にも落とし込んでいくイメージだ(なにより、そうした開発分野こそ、リモートワーク、テレワークが進んだ分野なのだから)。

その際、やはりオンラインの表現の中心はまだまだテクストであるということを意識する必要があるだろう。
自身の思いや考え、いや、自身の存在そのものをテクストに変換することができなければ、いまの社会には存在しないも同然となるということを、あらためて理解しなおし、各自が自身のテクスト化のスキルをどう高めていけばよいかを考え、実践的な訓練を積み重ねなくてはならない。
書けないなんて言い訳は通用しない。
書かないなら存在しないのと同様なのだから。

同じことが逆の側からも言える。
つまりテクスト化するだけではなく、テクスト化されたものから他人の思いや考えを読みとくことだ。テクストを読み、ちゃんとそれを他人の意識として変換できるかどうかである。

テクストからそれを書いた人の存在や思考を読み解く力がなければ、他人の存在を感じたり、他人やその人がまわりの人と行っている活動そのものを認識したりすることができないということでもある。
いままで同じ場にいてその場の雰囲気や身振りや表情を通じた共感により、なんとなく通じあってるつもりになることで誤魔化してきた、本当の意味で言葉を介して「わかりあう」ということが、まさに言葉本来の読み書き能力という意味でのリテラシーとして大きく問われる状況に変わったのだ。

わかったつもりでは成立しない言語環境

テレワークをしている人の多くがいま、1日のあいだに行われるビデオ会議の本数が多すぎるという問題を抱えているはずだ。
きっとオフィスで仕事をしていたときよりも会議の件数は増えているのではないだろうか。

ここまで書いてきたような考え方から、僕は本来ならオフィスで仕事をしている時よりも会議の数は減って然るべきだと考えている。
オフィスにいっしょにいるなら会議という形でやりとりすることがまだ有効でも、オンラインであればビデオ会議なんかよりテクスト(プラス図版)によるやりとりの方が本当は効率的だし正確性が高くなるはずだからだ。

しかし、実際にはそうならずに反対の結果になってしまっているのは、先に書いたようなテクストを用いた意識化や他人の意識の読み取りの能力が鍛えられていないからである。
鍛えられていないがゆえに、読み書きが億劫になって、もはや非効率でしかない対面でのやりとりに頼ろうとする。

しかし、先に書いたとおりで、対面での合意は本当の意味で互いの言っていることを理解しあっての合意ではない。なんとなくその場の雰囲気による合意でしあっつもりになっているだけだ。
その証拠にあとで議事録で言葉にしてみたら認識が食い違っていて、そこで何度も議事録修正のやりとりをするなんてことに覚えがある人は多いはずだ(あるいは認識の齟齬があっても面倒なので修正せずにやり過ごすか)。

わかるというのは、テクストの読む側の問題でもある。この読解力が弱いことでどれだけの合意が曖昧で、合意した風になってしまってきたことか。

いま求められるのはテクストを書くことはもちろんだが、読みとる力を各自が必死に身につけることだと思い。

権限以上、役割の明確化も含めた仕事のリデザイン

もちろん、テクストだけで互いの理解を合わせるのは、確かに困難な部分もある。
だが、ベースとなる考えの表明をテクストにして、その補足をビデオ会議などの対面で行う。そういう二段構えの形をとることで、単なる対面でのやりとりよりはちゃんと理解しあった状態はつくりやすいはずだ。

テクストでの表現から、表現されたものを共有した上での議論するというプロセスに変えることで、そもそもの仕事の分担もなされるし、曖昧になにも決まらない議論が繰り返されふことも減らせるだろう。

もちろん、テクストのレビューを行ってもらう相手に、テクストをレビューの場で読むのではなく、事前に読んでもらえるようなフローに変える必要もある。
その場で読み合わせるのではそこで話すのとさして変わらず意味がない。

とはいえ、読むほうも目を通せる数は限られる。
だからこそ権限以上、各自の役割の明確化が伴わないと意味がない。
そこまで含めた仕事のやり方のリデザインである。

家で過ごすゴールデンウィーク

読み書きの力をつけるためには、やはり何より読書だ。
読書量が圧倒的に足りない人が多いのが、間違いなくこんな状況になってなお、テクスト中心の仕事への変換ができず、中途半端なビデオ会議のみでの仕事の進行になってしまう理由だろう。

そんな折、世の中はゴールデンウィークに突入している。
どこにも出かけることのできないゴールデンウィーク。
僕自身、8年ぶりに日本で過ごすゴールデンウィークとなって落ち着かない(本当なら今頃ウィーンに着いてる予定だった、残念)。

でも、考え方を変えれば、たっぷり読書に向き合える時間がとれるということでもある。普段、読書の習慣がない人にはこのくらい時間が余ってるときでもなければ新しい取り組みを始めよういう気にもならないのではないか。

その意味ではチャンスである。
いや、チャンスだと思ってくれないと、今後の日本の仕事の質はどんどん下がって、とてもじゃないけど、このコロナウィルス禍の危機的状況からのレジリエンスは望めない
ぜひ、頑張ってこの機会に読書の習慣がつけられるといいと思う。
なんならnoteを書く習慣もいっしょにつけて、リテラシー向上習慣にしてみては?

何を読むかはそんなに重要じゃない。
読むこと自体が大事なので、読みたいものを読むといい。何のために読書をするのかなんて考えはじめたら読む本は選べない。読むこと自体が必要なのだから、自分の興味をもっていることをテーマにした本を読めばいい。
もし、興味がもてることそのものが思い浮かばなかったら、それこそ決定的に読書が不足している証拠だ。とにかく無理矢理にでも、誰かの意見を参考にしてでも最初に読み始める2-3冊くらいをピックアップして、すぐさま手に入れ、読みはじめるべきだと思う。

参考になるかわからないけど、こんなブックリストも。


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