見出し画像

イメージとしてのイメージ

イメージというものの人間的意味。
あらためて、そんなことを考えさせてくれる言葉に出会う。

「人間はイメージとしてのイメージに関心をもつ唯一の存在である」とジョルジョ・アガンベンは『ニンファ その他のイメージ論』所収の「ギ・ドゥボールの映画」の中で言っている。

「動物はイメージに非常な関心を示すが、それはイメージに騙されているかぎりでのことである」とアガンベンはいう。そして、「魚の雄に雌のイメージを見せることはできる。すると雄は精子を放出する」といった例を挙げて、動物がイメージに関心を持つことがあっても、それは彼らがイメージに欺かれ、あたかも相手が"本物"であるかのように思いこむ限りにおいてであることを示す。
動物はイメージとしてのイメージには関心を示さない。
だから、その嘘が見破られた瞬間、動物は「イメージに対する関心を全面的に失ってしまう」のだとアガンベンは指摘する。

そんな動物に対して人間だけが「ひとたびイメージがイメージだと認めると関心をもつ動物である」のだとアガンベンはいう。「人間が絵画に関心を持ち、映画に行くのはそのためである」と。

時間の負荷を帯びたイメージ

動物なら、自分の生に意味をもたない偽物として放っておく「イメージとしてのイメージ」に、価値を認める人間の特殊性。
アガンベンは映画というものについて考えることで、このイメージというものがもともと持つ「時間の負荷を帯びたイメージ」という性格を明らかにしている。

ここでいう「時間の負荷を帯びた」というのは、どういう意味だろう?

それを考えるためには、同書に収められた別の論文「ニンファ」を参照する必要がある。

その論文中でアガンベンは、ビル・ヴィオラが1995年のヴェネツィア・ビエンナーレに出展した「あいさつ」というビデオ作品を紹介している。

こんな作品だ。

このビデオ作品は、15-16世紀のマニエリスム期のイタリアの画家ヤコポ・ダ・ポントルモの「マリアのエリサベツ訪問」という絵画を元にしたものである。

ポントルモの絵画では静止していたイメージが、ヴィオラの作品では動きをもったイメージに変換される。

アガンベンはこのヴィオラの作品について、こんな風に言っている。

ここに至って観者が驚きつつ気づくのは、不動と見なすことになじんでいたイメージが動きを与えられているということだけが自分の注意を奪っているわけではないということである。問題となっているのはむしろ、イメージ自体の本性に関わる変容である。ついに図像誌上のテーマが再構成されてイメージが停止するように思われるとき、実際にはイメージはほとんどはちきれんほどに時間の負荷を帯びた。このカイロス論的な飽和状態はイメージに対して一種の震えを刻印する。この一種の震えが、イメージのもつ個別のアウラを構成する。各瞬間、各イメージは、自らの将来の展開を潜在的に先取りしており、先行する自らの身振りをおぼえている。

アガンベンのこの文章に従うなら、絵画としてのイメージも単に静止しているのではない。時間の負荷を帯びて、震えが刻印された状態にあるということになる。イメージは時間の負荷を帯びて、将来の展開を先取りするとともに、先行する身振りを覚えているのだ、潜在的に。

可能性の回帰としてのイメージの反復

このことをアガンベンは「ギ・ドゥボールの映画」の方でも、こんな風な言い方で示している。

すなわち、絵画は不動のイメージではなく、運動の負荷を帯びた1コマ1コマの写真であって、それは私たちの手にしていないフィルムから取られたものだということである。絵画をこのフィルムへと返してやらなければならない(ここにアビ・ヴァールブルクのプロジェクトをお認めになることだろう)。

最後に「アビ・ヴァールブルクのプロジェクト」とある。このプロジェクトとは、ここではおなじみの「ムネモシュネ・アトラス」を指している。

971枚の図版を総数63枚の黒いパネルに配置した図像解釈学の装置。ヴァールブルクは、歴史上繰り返し登場するイメージのパターンを見出し、それを情念定型と呼んでいるが、その情念定型を浮かびあがらせる装置が、この「ムネモシュネ・アトラス」である。

その情念定型のひとつとして、ヴァールブルクがあげるイメージがニンファ。第46パネルで、歴史上何度も反復的に描かれた情念定型であるニンファを集めている。
26枚の図像の内には、15世紀のイタリア画家ドメニコ・ギルランダイオがフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に描いた「洗礼者ヨハネの誕生」もある。

この絵で、ヴァールブルクが注目したのは、画面右、明らかにほかの人物たちに比べて地に足がついておらず、軽やかな、頭に籠をのせた女性である。彼女がニンファの一例だ。

ほかにも、ニンファのパネルには、ラファエロ・サンツィオが描いた水を運ぶ女や、ヴァールブルク自身が撮影してトスカーナの農婦に至る26枚の写真が集められている。

アガンベンは「ニンファ」で、こう書いている。

これらのイメージのいずれもオリジナルではないし、いずれも単にそのオリジナルのコピーであるのではない。これと同じ意味で、ニンファは芸術家が新たな形式を与えなければならない情念の物質でもなければ、感情の資材を服従させる鋳型でもない。ニンファとは、原初と反復、形式と物質の見分けがつかなくなる存在である。しかし、形式が余すところなく物質と一致し、起源がその生成と区別されないという存在は、私たちが時間と呼んでいるものに他ならない。

ニンファは繰り返し現れるが、何かオリジナルがあるわけでもないし、新しく現れるニンファが何かを模倣しているというわけでもない。
それなのに、それは反復なのだ。つまり、同じものの反復ではなく、ニーチェ的な意味での回帰である。

反復の力と恩寵、反復のもたらす新しさとは、かつてあったものが可能性において回帰するということである。反復はかつてあったものの可能性を回復し、かつてあったものを新たに可能なものにする。

と、アガンベンは書く。

可能性という潜在力が現実に引き出された結果が反復なのであろう。それは単に同じものがそのまま戻ってくるコピー的な再生産なのではない。かつてあったものがその可能性において、再び、新たに別のものとなってその可能性を切り開く。

アガンベンは、それを記憶のもつ機能と同様のものとして見る。
なぜ、ヴァールブルクのプロジェクトが記憶の女神であるムネモシュネの名を持つかがあらためて理解できる。

作品というものの再考

アガンベンの指摘が面白いのは、このヴァールブルクの情念定型というものを、個人の側にも、人類という集団の側にもおかず、その中間領域においてみることだ。

ちょっと長いが引用してみよう。

すなわち、人間が思考によってではなく思考することができるという可能性によって定義されるのだとするならば、その可能性は一個人によって実行されるのではなく、ただ空間・時間のなかにある「多数者」によってのみ実行される、つまり集団性・歴史という平民においてのみ実行されるというのである。ヴァールブルクにとっては、イメージについて仕事をするとはこの意味で、身体的なものと非身体的なものの交点において仕事をするというだけでなく、とりわけ、個人的なものと集団的なものの交点において仕事をするという意味ももっている。ニンファとはイメージのイメージである。それは人間が世代から世代へと伝達する情念定型の暗号であって、人間は、見いだされる可能性や見失われる可能性、思考する可能性や思考しない可能性をその暗号へ遺贈している。

情念定型という記憶は、集団としての人類に担われている。けれど、アガンベンはここでヴァールブルクの「イメージにおいて仕事をする」ということを「個人的なものと集団的なものの交点において仕事をする」ことだとしているように、それは集団的記憶が個人によって再びその可能性が引き出されることを必要とするものと捉えているのだと思う。

だからこそ、ギ・ドゥボールの映像の仕事を評する際にも次のようなことを考えずにはいられないのだろう。

そもそも私は、ドゥボールのばあいに作品という概念は有用ではないと思っているが、それだけでなく、文学作品であれ映画作品であれ何であれ、作品と呼ばれるものを今日分析しようと思うならば、作品というそのありかた自体をそのつど問いたださなければならないのではないかとも思っている。作品を作品のまま問いに付すというのではなく、その代わりに、人のなしえたことと実際になされたことのあいだにどのような関係があるのかと問う必要があると思うのである。

先に、イメージは新たに可能性をひらくように反復するということを書いたが、この可能性の開示が可能なのは、個人としての作家がいるだけでも、情念定型という記憶を司る人間集団だけがいるだけでも成り立たず、双方が運よく居合わせることではじめた可能になる。

その意味で本当は作品は、ひとり作者に帰属しない。

ダリオ・ガンボーニが『潜在的イメージ』の中で、こう書いていたのを思い出させる。

観る者が(物質的対象としてではなく生成プロセスとしての)芸術作品の生成に貢献している事実を重視するとき、「潜在的イメージ」という概念は、視覚芸術という範疇を超えて、コミュニケーションと意味作用に関わる重要な問題を引き起こすことが明らかとなろう。

ガンボーニが扱っていたのも、イメージにおける潜在力であったのは偶然ではないだろう。コミュニケーションあるいは思考の展開ということを考える際、このイメージのもつ潜在力というのは、今後避けて通れないのではないかと思っている。

そこにそういう振動、あるいは、過去の可能性の反復という面を考慮すれば共振と言ったほうがいいか。それがあるからこそ、今後AIがその情念定型をどう読み解くか?という点に価値が生まれてくる可能性がある。そのとき、おそらく創造とか、作品という意味は大きく変化するだろう。

ヴァールブルクらが属人的な天才性をもって見出した情念定型というパターンの正体が人工的な計算技術をもって解析されたのち、イメージとしてのイメージに関心をもつ唯一の存在である人間は、引き続き、その関心を維持できるのだろうか。

基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。