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安全なイメージのうしろに危険な現実を隠して

最近本気でちょっと怖くなっている。
何が?って、世の中の反動的な傾向が、だ。

COVID-19をきっかけとした世界的な危機の兆候がみえはじめてから、気づけば、この日本でもすでに半年ほど経っている。
危機的状況の長期化によって、経済はもちろん、人それぞれの精神的にも大なり小なり打撃を受けている状況だろう。

こう弱った状態になれば、誰しもが、まわりのいろんなものが敵に見えてきてしまうのは、ある意味正常な反応である。
もちろん誹謗中傷や暴力で他人を傷つけてしまうのは決して許されるものではないが、そうした行動に促される心理的ストレスが世間一般に蔓延しきっているのは否めない。非常事態とはいえ、セーフティーネットもあまりになさすぎるのだ。

正直、これはしんどい。
どうしたら良いのだろう、と思っている。

内向きになる世界

このしんどさが世界をおかしな方向に動かしている。
とにかく、世の中が反動的に保守的な傾向になって、内に内に閉じるベクトルが世界的に働いている。
内に閉じようとすればするほど、人というものは外に対して攻撃的になるのは、誹謗中傷が増えるのと同じく理屈なのだろう。

中国による香港への強引な国家安全維持法の導入だって、同じ文脈でみることもできるはずだ。それは国際的な流れと自国の経済成長の鈍化なども含めての中国の焦りのようなものも無関係ではないだろう。
インドとの激しい対立、南シナ海での不穏極まりない動き、オーストラリアとの貿易の問題、そして日本とは尖閣諸島の問題と、明らかに外に出て対して戦闘モードにあることだって、外との関係を閉ざしてみずからの思考や主張を押し通そうとする反動的な姿勢だといえる。

もちろん、そんな中国に対して明確な反対姿勢を打ち出すアメリカやイギリスだって、きわめて右傾化している状況だ。

さらに、そんな世界のキナ臭い状況に怯えることもなく、ウイルスを恐れてひたすら自粛を続けるひとが圧倒的に多い、この日本の状況も半年前とくらべてもはるかに保守的になっていて、一見安全性が保証されているかのようにみえる権威的なものに靡きやすくなっている。
それは、このnoteコミュニティにおけるコンテンツの読まれ方の傾向ひとつとってみても、半年前とはまるで別の場所のようになっていることからも感じられる。

いや、きわめて恐ろしいし、身の危険を感じることが増えた(ウイルスを原因とするものではない身の危険を)。

ひとつ知ることで他に気づかなくなる

先日紹介したテジュ・コールの『オープン・シティ』を読もうと思ったのも、そんな気配をつよく感じとっていたからだ。
この気配の要因について、もっといろんな情報を集めたかったからだ。

その選択が概ね間違っていなかったことは、作中で、ブルックリンで精神科医として働く、ナイジェリア人とドイツ人のハーフである主人公のジュリアスが、クリスマスの休暇で訪れるブリュッセルで出会うモロッコ出身のファルークのこんな言葉を読んでわかった。

ファルークは声を荒らげなかったが、言葉の強さははっきりわかった。パレスチナ人は収容所を造ったか? ファルークは言った。アルメニア人はどうなるんだ? ユダヤ人じゃないから彼らの死は軽いことになるのか? アルメニア人にとってほ魔法の数字はいくつだっていうんだ? 600万があれほど重要な理由を教えてあげるよ。ユダヤ人は選ばれし民なんだ。カンボジア人を無視し、アメリカの黒人を無視し、ユダヤ人の受難だけが特別なんだ。でもそんなのは受け入れられない。あれは特別な受難じゃない。スターリンが死に追いやった2000万人はどうなる? イデオロギーで死ぬのはましだとでもいうのか。どんな死も死にはかわりはないよ。だからすまないけど600万は特別じゃない。僕はいつもこの数字に我慢できないんだ。

ユダヤ人の犠牲のイメージがほかのさまざまな民族の犠牲を覆い隠してしまうように機能してしまうことに気付かされてハッとする。だが、同時に、こんなことを書いている僕もまた単に別のイメージを再生産しているだけだとも言える。

言葉が現実を覆い隠す。
知るということはいつでも諸刃の剣だ。
知ることで別のことを忘れてしまう。無視してしまう。

ひとつのイメージが鮮明になればなるほど、他の物事がその影に隠されてしまうのだ。保守的になること、反動的になることはその際たる状態だ。「コロナ」いうワードであらゆる他の危機が隠されてしまっているかのように。コロナの恐怖のイメージに、経済の危機も、精神的な危機も、国際的な問題のキナ臭さも、全部うしろに追いやられて見えにくくされている。

ひとつだけ大きく前景に配された自分の内なるイメージに意識が集中しすぎるあまり、外の現実に対して盲目になってしまうのだ。

現実が幻想に、幻想が現実にすり替えられる

そして、いまファルークのこんな言葉に促されて、エドワード・サイードの古典的名著『オリエンタリズム』を読み進めている。

だから僕にとってサイードは重要なのさ、とファルークは言った。ほら、若かりし頃のサイードは、ゴルダ・メイヤ首相の「パレスチナ人など存在しない」という発言を聞いたのがきっかけで、パレスチナの問題に引き込まれたよね。そして人間は差異というものを決して受け入れないことを悟った。人はそれぞれ違っている、オーケー、でもその人間の差異そのものに価値があるとは思われない。オリエンタルな見せ物としての差異は受け入れられても、特有の価値のある差異だとだめだ。どれだけ待ってもその価値は認められることはない。

ここでも実在するパレスチナ人を、「存在しない」と否定する内向き極まりない発言にスポットが当たっているが、同じことだ。現実にあるものがイメージによってあたかも幻想であるかのように操作される。

言説というのはおそろしい。
現実が幻想に、幻想が現実にすり替えられる。
人はそのことで本当の恐怖から身を守ろうとする。
まさに「見て見ぬ振り」のテクニックとして、言説によるイメージ操作が行われる。

イメージでくるんで恐れる対象を馴化する

『オリエンタリズム』を読むと、まさにそうしたイメージ操作が「東洋=オリエンタル」に対する西洋によって繰り返し行われていたことが紹介されている。
これはいま起こっている、いろんな事柄の理解の参考になる。

十字軍による戦いや、スペインが8世紀から15世紀までの長きにわたってイスラムに支配され、レコンキスタを戦い続けた歴史をもつように、ルネッサンス期の西洋にとって東洋は恐るべき存在だった。その危険な存在による恐怖を緩和したのは、やはりイメージだったのだ。

ルネッサンス期のイギリスだけを例にとってみても、「平均的な教養と知性の持主」なら誰であれ、オスマン帝国の奉ずるイスラムとそのキリスト教的ヨーロッパへの侵入の歴史について、かなり多くの事実を詳細に知っていたし、それらがロンドンの劇場で演ぜられるのを見ることもできたのだった。要するに、イスラムに関する持続的な通念とは、ヨーロッパに対してイスラムが象徴した大いに危険な力をば否応なく矮小化したものにほかならなかった。ウォルター・スコットの描くサラセン人と同様、ヨーロッパ人が心に描いたりイスラム教徒、トルコ人、アラブの表象は、つねに恐るべきオリエントを制御するための一手段なのであった。

ヴェネツィアのムーア人の軍人の嫉妬を描いた「オセロ」やまさに西洋と東洋の交わりを描いた「アントニーとクレオパトラ」などの作品のあるシェイクスピアをはじめ、エリザベス朝期のイギリス・ルネッサンス演劇はオリエントを題材にした作品は多い。
そこで期待された効果のひとつがここでサイードが指摘するような、イメージによる矮小化だったのだろう。

サイードはこう続ける。

彼らが対象とするのは、東洋そのものであるよりもむしろ、西洋の読者大衆にすでに知られ、恐ろしさを削ぎ落とされている東洋だからである。こうした外来物の馴化ということそれ自体は、とりたてて問題にしたり非難したりすべき筋合いのものではない。それはあらゆる文化のあいだで起こり、あらゆる人間のあいだで起こることなのである。

そう、これはいまも「あらゆる文化のあいだで起こり、あらゆる人間のあいだで起こ」っている。
まさに、日々報じられる中国のイメージだって、これと変わらない。それは恐ろしさを残していたとしても、僕らが制御可能なくらいには馴化の操作がなされている。現実をちゃんと見なくなった僕らが好き勝手に文句を言いまくれるくらいには。

骨抜きされたイメージの背後に、危うい現実を隠して

恐ろしい対象そのものを前にして文句を言えないくせに、恐ろしい対象をイメージに置き換え馴化したものに対しては好き放題文句をいう世の中になっている。

イメージは本体から切り離された瞬間、そのイメージを扱う人々によって好き放題に変形される。それは元のイメージを残さないのに、文句を言われる対象になる。
まさに文句や誹謗中傷を言いまくっている人たちにとっては、現実にはふるえない暴力を、アバター的なイメージに対してふるっているつもりで、自分たちは無害な気になってしまうのかもしれないけど、アバターとしてのイメージと自分自身との区別のつかない文句の対象となった本人にしてみれば、それは精神を抉る直接的な暴力でしかない。

そうした他者からの暴力に怯えつつ、その危険な他者のイメージ=アバターに対して、暴力的な否定の態度を取ろうとするのは、ルネッサンス期の西洋から変わらないのだということも、このサイードの言葉から知ることができる。

デルブロは読者の期待感を満足させてくれる、とガランが言ったとき、彼の真意は、『東洋全書』がオリエントについての一般通念を修正しようとするものではないという単にあったと思われる。オリエンタリストの仕事とは、読者の目の前でオリエントを追認することなのである。彼らはすでに堅固なものとなっている人々の確信をぐらつかせようとはしなかったし、それを望んでもいなかった。『東洋全書』がなしとげたことは、オリエントをより十全に、より明瞭に表象してやることにほかならなかった。

こういう自分たちに遠い未知の部分をもった存在に対して、無知で不勉強な人たちが未知に向き合うリスクを回避して、安易で分かりやすいイメージを都合よく受け入れ、現実に目を逸らしつつ、文句ばかりで世の中の雰囲気をどんどん悪い方向に引っ張っていってしまうことは、本当にどうにかできないものか?と思う。
新しくわかりにくい未知のものからは身を遠ざけ、すでに知っている自分の身近なものだけでまわりを固めようとする保守できる態度。それだけならいいが、それでおさまることなく保守的姿勢は外部への攻撃に転嫁する厄介なのだ。どうしたらいいのだろう。そういう流れはあまりにしんどすぎるから。

どうしたら、みんながもっと未知に向き合えるようになるのか。他者のことを理解しようと努められるようになるのか。

そうではなく、現実に向き合おうとしない、現実の世界の行き過ぎたヴァーチュアル感に、ほんとに恐怖を感じてしまう。


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