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パニック

パニックを作りだすのは、自分自身の頭でしかない。

まあ、そうだと思っていたけど、やっぱりそうなのかという話に、いま読んでるエドゥアルド・コーンの『森は考える 人間的なものを超えた人類学』で出会う。

南米エクアドルの調査に向かうバスでの旅路で、著者は、地滑りに巻き込まれて、バスの前後を塞がれてしまう。バスの上の方の山も崩れて、岩がバスの屋根にも降ってくる。
恐怖を感じる著者とは別に、乗り合わせていた旅行者のスペイン女性たちは冗談を言って笑っている。そのうちひとりはバスを降り、2、3台前に止まっていた車からパンとハムを買ってきてサンドイッチまで作りはじめた。

旅行者たちの無頓着さと自身の感じる危機とのギャップに、著者は次第にパニックに陥る。

なぜ私は、「私の身体」に対する「私」のつながりを信じなければならないのだろうか。(中略)私は生きていたのだろうか。このように考えて、私の考えは暴走した。

パニックの持続と解放

何時間か経ち、地滑りが解消され、近くの昔馴染みのホテルにたどり着いても著者の「根本的な疑いの情態、その存在をもはや信じるかことができなくなった自らの身体と世界から切り離されてしまったという情態」は消えなかった。

「落ち着かない夜を過ごした翌朝もまだ、気分がすぐれなかった」のだと、著者は書いている。
それが解消されたのは、街に散歩に出たあとのささいな出会いがあったからだ。

著者は散歩の途中、町外れの灌木のなかでフウキンチョウという鳥が餌を食べているところに出会す。
持ち歩いている双眼鏡ごしにフウキンチョウに焦点を合わせ、「そのトリの分厚い黒いくちばしが鮮明になったとき、私は突然の変化を感じた」。

それまで抱えていた精神と身体の居心地の悪い分離の感覚がすっと消えたのだという。

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パニックを構築する象徴的思考

著者は心理学者リサ・キャップスと言語人類学者エリノア・オクスによって書かれた、ある女性(メグ)の生涯にわたる不安との闘いについて記述された『パニックを構築する』という本を参照しながら、パニックと人間の象徴的思考の関係について記している。

私は、そのタイトル(補足:『パニックを構築する』を指す)はパニックについてより深い事柄を示していると考える。それはまさしく、不安を可能にする象徴的思考の構築的な質である。すなわち、象徴的思考が非常に多くの仮想世界を生み出すことになるという事実である。メグは言語的、社会的、文化的に、言い換えれば象徴的に、パニックの経験を構築するのではなくて、パニックそれ自体が象徴的構築が暴走する徴候なのである。

著者は、人間が扱う記号のタイプを、イコン、インデックス、象徴と分類している。

イコンは自然に存在するものをそのまま模倣したような記号(動物の影とか雨の音とか)、インデックスは自然による直接的な指示のような記号(何らかの危険を知らせる激しく揺れる木々とか、地滑りの音とか)、そして象徴はきわめて人間的な言語的規則のなかでのみ機能する記号だ。

この最後の象徴的記号のみで思考される世界はある意味、現実の世界から切り離された抽象的な世界だ。
この象徴的記号による構築が必要以上に暴走した状態がパニックだというのだ。

なるほど、これはとても納得感がある!

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象徴的思考世界に足の踏み場はなし

これは「"Stay home"から"Go home"へ 」で書いた定義したがりの感覚と重なるところがある。
必要以上に定義を求める傾向は、ある意味、パニック状態にあるように感じられるからだ。

そのnoteのなかでも、

定義を求めるよりも、相手がそれをどういう意味で用いているのかを知ろうとしてあげるほうが、はるかに意味ある態度なんじゃないだろうか。

と書いたが、定義に依存しがちな思考は、イコンやインデックス的な記号にはある、現実との接点を欠きがちだ。

現実との接点がなく、地に足がついてないから、地滑りの恐怖に囚われた著者が結果、身体的な現実との分離に襲われパニック状態に陥ったのと同様、落ち着くべき現実の根拠を見失って、代わりに、象徴的根拠を求めようと慌てる

しかし、象徴的な記号など、結局は人間世界のお約束でしかない。
だから、落ち着かない身体を落ち着かせるような足の踏み場の代わりにはなりえない。
結果、どれも納得できない象徴のたわむれに、満たされることなく、もやもやした状態からいつまでも脱せられない
そして、まわりに文句ばかり言うだけで、自分が納得するものはどこにも見いだせずに非生産的なクレーマーに堕してしまったりもする。

残念ながら、そこには著者をパニックから救ったフウキンチョウの目はない。

頭のなかの世界からはみ出して

僕らは、僕ら自身の頭のなかの世界からはみ出す必要がある。

それをせず、自分の内だけで、いつまでも自分自身ばかりを相手にしているからパニックになる。
終わりなき自分探しだ。

暴走する象徴的思考は、身体が通常は与えてくれるだろうインデックス的な接地から根本的に切り離された精神を生み出すことになる。私たちの身体は、全ての生命と同様、記号過程の産物である。私たちの感覚的経験は、もっとも基礎的で細胞的な、そして新陳代謝のプロセスでさえも、表象的な――必ずしも象徴的ではないのだけれども――関係によって媒介される。しかし暴走する象徴的思考は、全てのものから区別されたものとしての「私たち自身」を私たち経験させる。

いまを生きていくために必要なのは、ちゃんと常に世界そのものを感じて生きることだ。

言葉による理解はとってもとっても大事だし、それをサボる人はろくでもないと思う。それでも、言葉でしか新しい何かを受け取れずに生きているとしたら、それはそれで別の大きな問題だ。

ちゃんと言葉になっていない、世界そのものが示してくれる記号を読みとって、それとともに生きることが大事だ。
それは象徴的なものに傾きすぎた現代の人びとが失ったアレゴリー的思考なのだろう。

そのことを書いたのがヴァルター・ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』の下巻だ。
そのことは次に触れてみたい。


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