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他人の人生の一部にコミットする

誰かといっしょに仕事をすること。

いやいや、それは特別なことではなく、どんな仕事だろうと誰か他の人といっしょにやる仕事だろう。
たがいに同じ作業をする共同作業者だったり、役割分担して進めるパートナーだったり。仕事をお願いする/お願いされる関係だって、いっしょにひとつの仕事をする協働者の関係だ。

誰かといっしょにやらない仕事なんてない。
自分ひとりでやるパートはあるだろう。だとしても、それが誰か別の人に引き継がれるという意味では、ひとりで完結する仕事なんてない。
いや、おそらくひとりで完結するという時点で仕事ではないのかもしれない。私的なWorkではあっても、JobにおけるWorkではない。

仕事は人生の一部だけど、全部じゃない

仕事をすることがその相手の人生の一部で、かつ、人生の全部じゃないってことを考えると、いっしょに仕事をするということは相手の人生(の一部)に必然的にコミットしてることになっているのだと思う。だから、ちゃんとたがいに配慮しあうのは、いっしょに働く仲間として、とうぜんのエチケットであるように思う。

自分が嫌なことを相手に押し付けたりなんて、もってのほか。
それが相手の時間を搾取していることになるということに意識的でありたい。

いっしょに仕事をすることで、その人の人生のいまだったり、この先の人生だったりに、どう影響を与えてしまうのかを考慮すること。
いまやろうとしていることを誰か他の人とやる際に、どんな影響があるのかにちゃんと配慮した上で、誰とどうやっていっしょに仕事をするかを考えないと、きっと相手と自分との関係だけでなく、それにつながった、エコシステムのすべてが疲弊し弱体化してしまう。

その仕事に相手が携わることで、その仕事の成果という短期的なもののみならず、

・その仕事によって相手がどんなことを身につけるか、
・それが相手の将来にどんな良い影響をもたらすのか、
・それを身につけるタイミングは相手の人生の優先度的に本当にいまなのか、
・そのこと自体も役に立つとはいえ、相手がいま本当に身につけるべきものは別のものではないのか。

そんなことも考慮した上で、誰とどの仕事をやるかを決めるべきだろう。

もちろん、すべての場合に最善の選択にはならなかったとしても、配慮した上で選ぶのと、何の考慮もなく選ぶのとでは結果も変わるはずだ。
相手の人生の一部である仕事をともにするというのは、そういうものではないかと思う。

パートナーとして意味のある時間を過ごしてもらいたい

いっしょに働くというのは、そういうところにも喜びがあるんじゃないかと思う。

僕などはいっしょにプロジェクトをやった人たちが、社内の人であれ、外部の人であれ、お客さんであれ、仕事をお願いした人であれ、パートナーとして意味のある時間を過ごしてもらいたいと思う。

だから、自分がプロジェクトマネージャーであるかどうかに関わらず、すべて完璧な配慮をするまではできなくても、それぞれがそのプロジェクトに入って何かしらの役割を担ってもらうことで、ちゃんとそれぞれに得るものがあるようなプロジェクトにしようと思うし、プロジェクトマネージャーであればそうできるようプロジェクトを設計する。
もちろん、設計して終わりではなく、日々のやりとりでも他人のことも考えて自分がどう動くか、何を言うかを選んでいる。
配慮をもった計画とリアルタイムでの配慮だ。

とうぜん、どれも自分にできる範囲でであって、完璧に配慮しきることなんてできはしない。

なぜ、そうするかといえば、そうしたことで相手がプロジェクトを通じて変わっていくのを見るのも楽しいからだ。喜びを感じられるからだ。
逆に、その反対にあるようなものに出くわしてもしまうと、がっかりしてしまうし、悲しくもなる。

配慮しきれないのは誰にだってあることだけど、そもそも配慮がないのは、倫理観がなさすぎる。民度が低すぎる。

まわりへの配慮はまわりまわって自分に還る

相手にとってもそうであるように、僕自身にとっても、仕事は人生の一部だし、一部でしかなく全部ではない。
だからこそ、その時間はできるだけ楽しいものにしたいし、有意義なものにしたい。その観点では、どちらかというと、僕は欲張りなほうだと自覚する。

自分の時間を有意義にしようと思ったとき、自分が相手から搾取するように自分だけいいとこ取りしようとしても、それは決して長くは続かない。
搾取を続ければ、いっしょに仕事をしてくれる人はいなくなるかもしれないし、仕事はしてくれても楽しく仕事をしたり、楽しいことを生みだす仕事にはなりにくいだろう。

また、仕事を通じておたがい学ぶことがなかったり、相手の学びにコミットしてあげなかったりすれば、まわりに面白い仕事をする仲間が増えてこなくなり、自分はどんどんできることが増えても、まわりがそれについてこれずに、結局は自分で面白いことをやるための仲間が見つけられなったりもする。

だから、1つ前で書いたとおりで、「教えることを楽しむ」ことも必要で、自分だけでなく、自分のまわりもいっしょに学び、スキルアップして、より面白い仕事ができるようになっていく必要があるのだと僕は思う。
他人に教えることがただの労苦だと思っている人は、ここで書いたようないっしょに仕事をするということのエコシステムを本当の意味で認識できていなんだろうなと思う。

あとはやっぱり僕からすると、もったいないなでしかない。
だけど、いっしょに仕事をすることで、相手も、自分も大きく変われる余地がある人とやるより、阿吽の呼吸で苦もなくやりとりできる間柄の人としかやりたがらない人は少なくない。
それだと得られる結果がたいして代わり映えしないものでしかない。

それよりもたがいに成長の余地ある人と仕事をした方が相手の変化に驚いたり、自分も新しいものに接して変化できたりして得るものははるかに大きいのは知ってるから、あーもったいないなと思う。

そういう無意味な保守性ってほんとにもったいない。

他人のために仕事をするほうが自分のために仕事をするより得るものは大きい

相手のことばかり配慮してたら、自分にとって良いことを取り逃して損になるのではないかと思う人はいるかもしれないが、そんなことはない。

僕なんか、自分のことを考えるより、どうしたらいっしょにやる人たちが仕事を面白くできるかを考えるほうが好きだし、結果、そのほうが僕も楽しい
そもそも、感覚的には、相手のことを考えたほうが自分への見返りも大きくなるとも思っている。

そりゃそうだろう。
自分のことばかり考えて仕事するより、広く多くの人のことのために仕事をしたほうが成果は大きく、得られる評価も高くなるのはとうぜんことだから。
より多くのためになる仕事をする人のほうが、自分だけのために仕事をしている人よりも、具体的な報酬だって多くもらえる傾向にあるのは、当たり前すぎることではないだろうか?

シンプルにいえば、仕事ってそういうもんだろう。

という意味では、人間の社会って結局は競争的なものというより、共生的なものなんだと思う。
ほかの誰かよりも多くを得ようと思って競争するより、ほかの誰かのためにどれだけのことをできるかという共生的な観点に立って仕事をしたほうが得るものは大きくなるはずである。

このことがわかってないんだろうな?と思うことはある。
間違った形で欲張ってしまうと、結局、得るものは少ない。
欲張るなら自分でひとりで欲張ろうとせず、他人も巻き込んで欲張らないと、結果には反映されない。

そう、結局のところ、他人の人生にコミットしようとしなければ、仕事をしたことなんかにならなくて、自分に還ってくるものも多くはならないということだ。





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