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作戦を練るために

先日から公開しはじめた「見ることと考えることの歴史」。

これまで第1章の3つ目の記事まで公開した。

世界がヨコにもタテにも広がって 」と題した1本目では、なぜルネサンス期に人間の思考の方法が大きく変わる必要があったのか?ということを、羅針盤の発明がもたらした航海術によって世界がヨコ方向に広がるのと同時に、ケプラーやガリレオ・ガリレイらによる天文学の発展による宇宙への視界が開けたり、顕微鏡学の発展によってミクロ世界にも視野が広がっていくといったタテ方向にも世界が拡張さらたことによって一気に「未知が増大した」ことに関連づけて考えている。

2本目の「芸術家たちの視野の中で」では、そうした世界の広がりに対して、視覚的思考の専門家ともいえる画家たちが未知のものをどう捉えようとしたか、言語的思考の専門家である詩人や哲学者たちが未知にどう立ち向かったかについて考察した。どう見るかということが、そのまま、どう、それらの未知を扱うか?ということにつながっていく。

そして、3本目の「蒐集家たちはなぜ「集めて、並べた」のか?」では、そうしたたくさんの未知を野放しにしておくわけにはいかず、どうにかコントロールしようという意図から生まれたプレ・ミュージアムとしての「驚異の部屋」を用いて、人間が突如目の前に現れた未知のものたちをどう管理し制御できるようにしようとしたかを考察している。この頃から分けることが分かることだという発想が生まれている。

現状打破のため、作戦が必要だ!

さて、こんな具合に、すでに書き終えていた原稿をすこしずつ分けて公開しているわけだが、3本目の記事の後半では、こんな風に書いているのを見つけて、この先はすでに書きあげたものに手を入れつつ、書き進めたほうがよいかもと考えはじめている。

思考の方法に歴史的変遷があることを理解してはじめて、私たちは自分たちの思考の仕方を幾分なりとも自律的に変更・再構築できるようになる。その意味で「デザイン」という方法に注目を集まっているいまこそ、自分たちの思考法を歴史的な視点で見つめ直すことで、自分たちの現在地をしっかり把握する良い機会なのではないかと思う。

自分たちの思考法そのものを知る必要性は、2年ほど前にこの原稿を書いていた当時の問題意識としてもあったけど、いまでは、より現実的で切実な問題であるように感じている。

とにかく考えるということが危機的な状況であるように思う。何かの方法なり、レールがないと考えることができない人が少なくないし、それ以前に、いま何が起きているかということを知るための現状認識力もかなり危うい。
問題が山積みなのにどうしたらいいかわからないという状況はかなりしんどい。

特にいまの日本の状況では、経済的にも、社会的にも、何もせずにいる余裕など、どこにもないくらい、いろんなことが切羽詰まっているはずなのに、いまだに行動を起こそうとする人を妨げる方向のものばかりが稼働していて、あらゆるものがやりにくい状態だ。
ただ、それ以上に問題なのは、そういうよろしくない状況を理由に、思考や行動をしないことを自分に許してしまうことかもしれない。

この状況を打破する作戦がいる。
ひとつの決まった作戦ではない。各自がそれぞれ作戦をもつ必要があるし、複数の作戦を同時に仕掛けられるといい。
作戦を立てるためには、自分自身で状況を把握し、その状況に合わせたアクションを考えるための頭の使い方が必要だ。
ルネサンス人たちが一気に押し寄せてきた未知のものたちを前に、とにかく状況を把握し、こうすれば良いというはっきりした答えがないまま、自らアクションを考え、行動を起こしたことで、僕らのいまが開けたように、僕らもまたこの現状を打破し、未来につながるものを創造する必要がある。

だから、問題は、各自が自分の思考がどうなっているかをちゃんとあらためて知ることだと思うのだ。
その上で、各自が自分の思考のツールを獲得し、自らの作戦を立てる力を手に入れないといけない。

自分たちの思考がどんな仕組みで動いてるかを考える

この「思考のツール」の再獲得がなければ、このシュリンクし続ける経済状況をとめられないのではないか?と焦る(いや、もはや止められないのかもしれないが、すこしでも良い方向にはしたい)。

だから、この危機的なご時世に、悠長にイノベーションの方法がわからないなどと嘆きはあんまりだと感じてしまうこともある。方法かわからないからやらなくていいほど、のんびり構えていられる余裕はもはやない。むしろ、被害をどこまで最小限にとどめられるかという局面だろう。だとすれば、方法がわからないなら、いますぐ知るべきだし、知ってる人とともに行動を開始すべきだろう。そのことを妨げるルールや仕組みは本当に早いところお払い箱にしたいところだ。

というわけで、自律的に考える方法を、より多くの人が獲得し、この停滞を打破すること、それがすごく急務だと日々感じたというのも、この眠らせていた原稿を公開してみようと思った要因のひとつだったりする。
その意味では2年前に書いたものに手を入れながら書き進めようという気持ちになっているのも同じ理由だ。

自分で「考えている」と思っていることが、どれほど単に世界にあらかじめインストールされたシステムの上で考えられれていることにすぎないか、どれほど、そうしたシステムが自律的に考えることを妨げているかを知らなければ、この停滞を招いている張本人であるシステムを超えた思考はできない。
いや、自分たちの思考がどんな仕組みで動いてるかを考えることで、考えるために日々をどういう風に過ごしたらいいかも明らかになるはずだ。そして、その思考がどれほど「デザイン」的であるかを知ることで、その限界についてもあらためて考えることができるだろう。

そんなことを考えつつ、変形的な連載形式で進めている「見ることと考えることの歴史」の更新を続けていこうかと思う。

#コラム #デザイン #歴史 #エッセイ #ビジネス


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