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コミュニティを問いなおす つながり・都市・日本社会の未来/広井良典

コミュニティは、社会と個人のあいだにあって、外である社会と個人をつなぎ、内で個人同士のつながりをつくる。

昔であれば小学校の学区レベルでコミュニティが機能していたり、商店街を中心にコミュニティができていた時代もあった。時代が下っても、すこし前までは、カイシャやイエがこの資本主義の世の中においてもコミュニティとして機能していた。

生産のコミュニティと生活のコミュニティについては、都市化・産業化が進む以前の農村社会においては、両者はほとんど一致していた。すなわち、稲作等を中心とする農村の地域コミュニティが、そのまま「生産のコミュニティ」でありかつ「生活のコミュニティ」でもあったのである。やがて高度成長期を中心とする急速な都市化・産業化の時代において、両者は急速に"分離"していくとともに。「生産コミュニティ」としてのカイシャが圧倒的に優位を占めるようになっていった。現役のサラリーマンに”あなたの日々の生活にとってもっとも大きな意味をもつ集団は何か”と問えば、ほぼ確実に勤務先の会社と答えるという状況が、自明の事実となっていったのである。

『コミュニティを問いなおす つながり・都市・日本社会の未来』で、広井良典さんはコミュニティを生産的な性格のものと生活の性格をもつものに分けている。

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カイシャが生産のコミュニティで、イエが生活のコミュニティだ。学生なら学校もコミュニティだろう。

しかし、そうしたコミュニティが以前より機能しづらくなりはじめている。昨年来のコロナ禍以降は特に。

コミュニティが機能しなくなれば、とうぜん人は社会において生きにくくなる。社会と自分をつないでくれているものがなくなってしまうからだ。

この本は、そうしたコミュニティの重要性を思い出させてくれる。この持続可能性が問われる世の中において。

社会的孤立が問題となる社会で

広井さんは、日本は諸外国にくらべて、社会的孤立の状況が著しいという。下のグラフでも示されているとおりだ。

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これは2005年のデータなのだから、高齢化や貧困化がさらに進み、独居老人や貧困ゆえの未婚という問題もより深刻化しているのだから、この「孤立」もさらに深刻さを増しているはずだ。

こうした孤立の問題も、この人口減少化する社会においては、誰かが誰かをケアしていくという1対1の発想ではもはや解決が望めなくなってきている。広井さんはそうした観点からも、この社会でのコミュニティの必要性をこのように提示している。

これまで「ケア」というものは、誰かが誰かをケアするという具合に、つまり「ケアする者―ケアされる者」という"1対1"の関係をモデルに考えられることが多かった。しかしながら、ケアということを考えまた実践していくにあたっては、そうした1対1モデルでは限界があり、特にケアの最終目標がその当事者が地域や社会の中で自立していくことにあるとすれば、コミュニティという視点を抜きに考えることはできないし、またそもそも人間の心身の状況というものは、その人のコミュニティとの関わりと深い関係にある。

1対1の「わたし」と「あなた」の関係だけで社会のありようを考えるのではなく、「わたしたち」「あなたたち」という共同体=コミュニティ単位での社会のありようを考えていく必要があるのだと思う。

社会と個人をつなぎ、個人と個人をつなぐ

冒頭、「コミュニティは、社会と個人のあいだにあって、外である社会と個人をつなぎ、内で個人同士のつながりをつくる」ということを書いたが、それは広井さんが示す、こんな図が頭にあったからだ。

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コミュニティと個々人とのあいだには、二種類の関係がある。コミュニティの内部にあっての個人間ではたらくコミュニティとの関係性と、コミュニティの外部の人との間ではたらくコミュニティの関係性。

こんなイメージをするとよい。おなじ企業に働く人同士の会話のなかで登場する自社=企業と、ちがう人との会話のなかでの自分からみた自社=企業と、会話の相手が話す「御社=企業」というときに、おなじ企業=コミュニティが違った関係性として働く。

広井さんが前者を「母親」的といい、後者を「父親」的とするのは、イエ=家庭という小さなコミュニティを考えたとき、内からみた家庭=コミュニティと、外と接するときのイエ=コミュニティの意味合いが異なることを想像するとより明確になるのではないか。

後者が外と接するときの自分のアイデンティティのように働くのだとすれば、前者で内にあるときは基本的には外でアイデンティティとして機能したものは、それを共有する者同士のあいだでは機能する必要がそもそもなくなり、意識されもしないだろう。

農村型コミュニティと都市型コミュニティ

この本では、農村型コミュニティと都市型コミュニティという区分がなされており、それがこれからの社会における共生の場のつくりかたを考える上で重要な支店になるように思う。

まず、広井さんの2つの区分がどういうものかを見てみよう。

「農村型コミュニティ」とは、”共同体に一体化する(ないし吸収される)個人”ともいうべき関係のあり方を指し、それぞれの個人が、ある種の情緒的(ないし非言語的な)つながりの感覚をベースに、一定の「同質性」ということを前提として、凝集度の強い形で結びつくような関係性をいう。これに対し「都市型コミュニティ」とは”独立した個人と個人のつながり”ともいうべき関係のあり方を指し、個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の異質性を前提とするものである。

非言語的なつながりと、言語化された規範やルールに基づくつながり。前者は同質性をコミュニティメンバーに課すことになり、後者は個々人の多様性を引き受けられる自由度が高くなる。

広井さんはこの2つのコミュニティのうち、日本においては旧来より農村型コミュニティはあったが、歴史的にも、都市型コミュニティが生まれる機会をもたなかったと指摘している。

なるほど、日本のコミュニティが多様性を受け入れるのが苦手で、同質性をもたないメンバーがコミュニティに入り込まないよう排除したがる傾向があるのも頷ける。

城壁のなかの法人

さて、では、何故、日本においては都市型コミュニティが発展しなかったのか? それはそもそも日本においては自然発生的に都市が生じた歴史を持たなかったからだともいえる。

そもそも、この場合の都市は、ヨーロッパや中国の古くからある都市のように、城壁によって明確に都市の「内」と「外」が分けられたものが想定される。

そして、その明確な城壁による区切りが、市民と非市民も分ける。

市民とはその意味である種の「資格」であり――それは一定の(言語化された)権利・義務を伴う――、メンバーシップと呼べるものである。そして「都市」が(城壁を通じて)その外延や外部をもつように、「市民」も本来的にその”外部”――「市民でない者」の存在――をもっている。

なるほど、フーコーやアガンベンが問題視する生政治的な、出生にもとづく剥き出しの生を統治の対象とする西洋近代的なナショナリズムがそこから生まれてくるのも納得できる。

そして、この城壁に囲まれた都市の市民という団体こそが、「法人」という法的人格の起源であるという。そして、それこそが「自治体」なのだ。

岩井は(中略)「法人の起源は、ローマ時代や中世における都市や僧院や大学といった、まさに現代の言葉でいえばNPOであったのです」という印象深い議論を展開している。
話を「都市」に戻すと、以上のように考えれば「(都市)自治体」といった言葉が、私たちが通常使うのとはかなり異なる、意味の強さをもって立ち上がることになる。つまり「自治体」というと、現在の日本語ではどちらかというと(市役所などの)「行政」(組織)を指すものとして使われることが多いが、それは本来そうではなく、そこに住む市民全体を含んだ「団体」なのである。

企業などの営利法人などは後世の発明であって、もとは城壁に囲まれた都市に暮らす市民たちのコミュニティ=自治体こそが法人だったのだ。

都市型コミュニティを欠いた日本

しかし、日本は昔からそのような城壁に分け隔てられたような都市をもたなかった。

いまの東京にしろ、ほかの日本の都市にしろ、どこからどこまでが都市であり、どこからが周縁地域なのかがわからない都市においては、先の内と外との関係がいまいち不明瞭である。

ゆえに現在のような都市においても、都市とは異なる農村=ムラの小さく閉じたコミュニティのあり方が家庭や企業、学校といったコミュニティに受け継がれている。

そのありようが西欧的な個人主義をベースとした「わたし」中心の文化とは齟齬をもちつづけてきたのが、日本の社会なのだろう。

古い農村的なコミュニティが機能しなくなり衰退していきながらも、それに代わる都市型コミュニティをうまく形成することができなかった。

全体としては、「私」(市場)中心のシステムという性格が特に近年強まっており、この背景には、社会システムの根底をインフォーマルな形で支えていた「共」的基盤が弱体化し、それに代わる「新しいコミュニティ」(ないし公共性)と呼ぶべき人と人との関係性や価値原理がなお未確立であるという点が基本としてあるだろう。ここでの「新しいコミュニティ/公共性」とは、他でもなく本書の中で論じてきたり都市的なコミュニティ」、つまり(ムラ社会な共同体ではなく)独立した個人と個人がつながるという形の関係性であり、社会保障を含めて真の意味での「都市」というテーマに日本社会が直面しているのが現在といえる。

都市型コミュニティのために必要なもの

この都市型コミュニティを日本においても成立させるために必要なものとして、広井さんが挙げているものが次の3つだ。

⑴ごく日常的なレベルでの、挨拶などを含む「見知らぬ者」同士のコミュニケーションや行動様式
⑵各地域でのNPO、社会的起業その他の「新しいコミュニティ」づくりに向けた多様な活動
⑶普遍的な価値原理の構築

個人レベルでの行動変容としての1つめ、そして、宗教・信仰レベルの変化が必要な3つめの、その両方の中韓レベルにあるコミュニティづくりの活動に僕はいま興味がある。興味があるというのは、そういう活動を仕事としてやっていきたいという意味において。

3つめに関しては、なかなかむずかしそうだ。

独我論か、あるいは独我論に類似した問題や発想の立て方というのは、ある面で現在の日本社会(のような社会)において生じやすい問題なのではないかということだ。それは大雑把な把握としては、たとえば"ひきこもり"などといった問題と共通の根をもっており、その背景にあるのは、「自己」と「他者」の距離の遠さ、「ウチ」と「ソト」の断絶、そしてその「非対称性」の強さ、といった社会のあり方ないし人と人との関係性である。
ヨーロッパやアメリカなどの場合は、(どれほど教会に行く人も減り社会が「世俗化」しているといっても)やはり根底的にはキリスト教をベースとする世界観や規範原理、あるいは公共性に関する感覚が、社会やその日常のあらゆる側面に深く浸透している。このことは、私自身もそうした地域に滞在する中で痛感してきた。言い換えると、そこでは個人と個人を"つなぐ"ような、ある種の「普遍的な原理」が確かにあるのである。

でも、ここの議論もなかなか面白いし、それは「フロー型の文化からストック型の文化」へという、広井さんがヒントをくれるもうひとつの視点から語れそうだ。

でも、それを語りはじめると長くなりそうだし、しっかり語りたいので、また別の機会に書くとしよう。

いずれにしても、最近考えてたことの問題系がぎゅっと凝縮したような一冊で、読んでよかった。


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