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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#創造

吝嗇(りんしょく)とデザイン

吝嗇。「りんしょく」と読む。 意味は「極端に物惜しみすること」。つまり「ケチ」。 節約が度を越すと吝嗇となる。 1つ前で紹介したデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』。 実は、そこですこし書き足りなかったこともあって、それが吝嗇あるいは節約の問題である。 でも、グレーバーの話に入る前に、すこし遠回り。 グレーバーのいう節約とは真逆の位置にある芸術について、すこし書いてみたい。 浪費の一様式としての芸術「芸術とは浪費の一様式であり、なにものかをその功利的価値のた

新しい夢をみる

なんとなく悲しい気持ちだ。 近代デザインの出発は、誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができるのだという前提を条件のひとつにしていた。 これは『近代デザイン史』(柏木博編・著)という本に所収の「近代デザインに向かって」中の編者でもある柏木博さんの言葉だ。 この「自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができる」という創造性が気づくと何処かに消えてしまっているように思った。 柏木博さん自身、 それは理想的生活

大人のカンニング

よい仕事をする上で、自分ごと化が大事だとはよく言われる。 対象となる課題の解決に、当事者意識をもってコミットできるかということである。 当然、当事者意識を持つためには、対象となる課題についての理解が必要だ。 理解のためには知識がいる。 誰もが知っているように有効な知識の獲得と理解にはそれなりの労力がいる。 つまり、知識の獲得と理解がそもそも課題解決にあたる以前の課題となるわけだ。 だから、実際の仕事に取りかかる前の、知識の獲得と理解というそれなりに労力が必要なことをすると

僕らは世界にアフォードされながら創発的に発想してる

自分の発想がどこから生じるのか? 自分はどうやって仕事をしているのか? 部分的にオフィスワークを復活させてみて、5日ほど出社してみたけれど、あらためて感じたのは、そんなことだ。 まわりに生きた世界がないと思考がちゃんと働かず、まともな仕事ができないなーというのが、明確にわかった気がする。 その意味では、オフィスに出社すれば良いというだけでもない。 むしろ、オフィスに限らず、いろんな現場に足を伸ばしていろんなものを観察し、いろんな話を聞かせてもらう機会を増やすことが大事だ。

ヘルメスとアレッキーノと道化的汎用AIと

僕の道化熱はじつは終わっていない。 ウィリアム・ウィルフォードの『道化と笏杖』と読んだ後、何冊かはさんで、いまは山口昌男さんの『道化の民俗学』を読んでいる。 16世紀のイタリアを中心に流行した仮面即興劇コンメディア・デッラルテのなかの道化アルレッキーノを論じるところからはじまるこの本は、2章に入るとアルレッキーノの起源の考察をするのだが、そのなかでギリシア神話のトリックスター的な神ヘルメスとアルレッキーノの重なりを論じる過程でこんなふうにヘルメスという神格の特徴がリスト化さ

質量をもった大切なピースたち

気持ちよく過ごすためにはそのための行動がいる。うまくやるためにはそうなるようにしないといけない。 自分から、そういう風に仕掛けないのにうまくいくことを望むのは、なかなか図々しい。良くない結果を望まないなら、自分で考え、ちゃんと仕掛けていく必要がある。 楽しく楽してやれるように考えることが大事だと思う。 まわりも自分も楽しみながら必要以上の苦労なく過ごし、目指すべきところに向かうためには、どうしたらいいかを考え、実行する。 そうしてはじめて、物事はうまくいく。 自業自得人

決定論に身を委ねるな、創造的であろうとするなら

創造的であろうとすることとは、もちろん、すべてがゼロの状態から自分の内からの生成力によって生じることを意味しない。 むしろ、ゼロからの創造なんてものは、所詮、人間には無理な話(いや、人間以外にとってもそうなはずだ)。創造とはむしろ、ゼロスタートではなく、すでに外的な環境から与えられたものもうまく利用しながら、ただ、これまでは存在しなかった組み合わせとしての新たなものを創り出す活動なのだと思う。 外的な環境からの影響外的な環境からの影響を受けつつ、創造を行うといって、それは

わからないことに立ち向かう方法を想像することをデザインという

実は、「正しさ」なんてものを信用したことは一度もない。 何かがその時々の状況に応じて「適切である」ことはあって、その選択がその条件のもとで正しいことはあっても、何かが無条件に正しいなんてことはないと信じている。 だから前回「牛、蜂、そして、百合の花」で書いたような、古代エジプト人たちが「変身」という思考装置を用いて世界を理解していたという話にしても、いまの僕らにとってはまったくもって「あり得ない」ことだとはいえ、その思考が「正しくない」なんてことはないと思うし、その思考は十

キュレーションと創造

いまの時代に必要な創造的なビジネススキルの1つがキュレーションする能力なのではないかと最近思っている。 さまざまな人々のさまざまな創造的な成果や活動を集合させ、それらを組み合わせたものを見せたり、語ったりする。そこから個々の要素それぞれからだけでは生まれない、ストーリーやメッセージを生みだすキュレーション的な創造。 そうした創造的行為が、このさまざまな問題が幾重にも複雑に重なりあった時代における問題解決やムーブメントの創出には必要なのではないかと思うからだ。共創なんて言葉が

知ることと創造と。

創造とは異なる物事同士がこれまでとは違った形で出会うときに生じる。 すくなくとも人間的な意味での創造とはそういうものでないかと思う。 これまで重なりあったことのない2つ以上の物事同士の結合は、出会いの時点ではある意味、キメラ的で、怪物的である。その出会いはなんとも落ち着かないし、不安を募らせる。 こんなものが存在していいのか? 多くの者は疑問を感じるか、無視するかするだろう。 ゆえに、創造はなかなか成就しない。 その落ち着かなさや不安の裡に、新たな意味を読みとることが

自分が何者かなんて毎秒更新すればいい

自分の限界を固定してしまう思考や言説がとにかく嫌いだ。 いっけん立派な責任感を示すかのように、〇〇の役割だったらそれは自分でやるべきだとか、そういうことをやるのが〇〇の仕事だよね、と、その時々の状況などは無関係に、仕事や役割の範囲を勝手に限定して、何のことはない、ただやらない言い訳にする(あるいは他人にやらせる口実にする)のは、まったくもって創造的(クリエイティブ)でないし、素敵でもない。 創造的であろうとすれば、その時々の状況に応じて、その場で求められていることを実現す

マルセル・デュシャンと日本美術/東京国立博物館

フリードリヒ・キットラーは『ドラキュラの遺言』の中で「今日われわれの誰もが承知していながら、決して口にだしては言わないことがある」と前置きした後、口に出すのではなく文字にすることで、こんな指摘をしている。 書くのはもはや人間ではないという事態がそれである。 キットラーの念頭にあるのは、コンピュータによる書字行為である。1993年出版の本のなかでの25年前、四半世紀前の指摘だ。 コンピュータがなければ脱構築もありえなかったと、デリダはズィーゲンの講演会で語った。文

夜の闇のなかで創造が成ったとき、僕らにはまた何も見えなくなる

曖昧な状況が好きだ。 そこからなら多くのことをこれから作っていける気がするから。 逆に、いろんなことが決まっていて明確になっていると、もはや終わってしまった感覚を受ける。最終形が明瞭だったり、方法や手順も決まっていると、まだ出来上がってなくても、出来上がっているのと同じように思えて、面白さを感じられない。 曖昧な状況だと、何をすべきか、どんなアウトプットにするか、どうやればいいかなど、いろんなことを考える余地があるから面白いと思う。 やり方がわからなくても、何をすればいい

中間愛

どうやら中間的なものが好きらしい。 中間、プロセス、メディア、はざまなどに惹かれるし、変容だとか、両義性、横断とかも中間的なものを感じさせて気になる。 はざまで共振するだから、アビ・ヴァールブルクの歴史上の複数のイメージ同士が共振する様を感じとるような思考やそれを視覚的に表してみせる行動にも惹かれるのだろう。 時間を不連続にする亀裂、言葉とイメージのあいだの隔たり、そしてイメージ内部の両極性といったものすべてがひとつの間隔である以上、ヴァールブルクのあらゆる思考はい