マガジンのカバー画像

言葉とイメージの狭間で

343
ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
運営しているクリエイター

#科学

発見とは即ち地平を広げることであるならば

自分が何をやりたいかわからない。 よく聞く言葉だが、この意志の不在の問題は、自分の外の事柄への理解(力)と相関しているはずだと思っている。 自分の元からの理解の枠組みでは物事の理解がうまくても、その外に、別の理解の枠組みがあることを想像することをしないと、新たな意志は生まれない。外の世界に飛び出して、自分とは異なる理解のフレームワークがあり、そこにある他者のロジックを発見しようとするところに、「これをしたい」という意志は生じるのだと思う。 それは発見への意欲であると同時

消えてなくなる詩のようなお金を夢見て

ケイト・ラワースの『ドーナツ経済学が世界を救う』を読んでいて、こんな一文に出くわした。 新しい経済の自画像には、世界のなかにおける人類の位置も反映されなくてはいけない。昔から西洋では、人間に自然を足もとにひれ伏させ、好きなように利用する存在として描かれてきた。「人類に自然に対する決定権を取り戻させよ。自然は神によって人間に授けられたものなのだから」と17世紀の哲学者フランシス・ベーコンは述べている。 ベーコンの言葉とされるのは、彼の『ノブム・オルガヌム』中の文章だそうだ。

変化と知識

昨日紹介した『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』の番外編。 著者のエイドリアン・ベジャンによる知能と知識に関する、こんな区別についても紹介しておきたい。 もし物理学現象としての知識と知能を区別するとすれば、知能は知識を所有したり、創造したり、伝えたりする人間の能力ということになる。 まず「物理学現象としての知識と知能」っていうのがいいよね。知識や知恵まで物理学の現象として捉えようとする徹底した姿勢。 で、物理学現象としての知能がそんな風に知識

知識人というカテゴリの誕生

固定した形態にとらわれず、変化を見てそれをベースに思考を組み立てることが大事だと思う。世の中の動きを捉えて、その中でまともな思考をしようとすれば、「生成」という視点をしっかり持つことが必要だと思うからだ。 なぜなら時間は、その本質において生成であり、歴史とは「可塑的な持続」、すなわち変化だからである。 こう書くのは、『アンリ・フォシヨンと未完の美術史:かたち・生命・歴史』の阿部成樹さん。 「時の尺度を生きた歴史の推移そのものと混同して」しまう人間の思考のクセを指摘し、

見えるのではない、見えるようにするのだ

視野の広さって大事だと最近は繰り返し思う。 見えてないものは考えられないし、見えてないものには感情を動かされもしない。実際には、起こっている出来事でも見えてなければ、心配にもならないし、どうにかしなければとも思わないし、何か行動を起こそうとも思わない。 ようは視野が狭いと、行動や思考がかなり制限されているということだ。 危機も、チャンスも、目に入ってこなければ、何をしていいかもわからないし、そもそも何かしなくてはいけないと感じることもない。 視野が狭いと、冒険にも向かな

神を迎え神送る道行の向こうには人新世が……

日本の家屋には、ハレの出入り口とケの出入り口があるという。 ハレの出入り口のほうは庭から入って縁側を通って座敷に入るそうだ。 門のそばの庭木戸から池などをめぐりながら庭をあるき、靴脱石から縁をとおって座敷にはいるのが正式の玄関だった。 と『日本人と庭』で上田篤さんが書いている。 縁側に靴脱石があるところ、それがハレの出入り口。 しかし、それは……、 いいかえるとそれは神迎えをし、また神送りをする道行である。あるいはその家の祖霊がやってきて、去る道でもあった。

環境は私を含む

うまくいかないことを外部の環境のせいにしてしまう。 社会のせい、経済のせい、会社のせい、誰かのせい……。 この人新世のこれだけ環境問題が叫ばれる、グローバルに相互につながりあった現在の世界において、自分にとってうまくいかないことを、そんな風に自分以外の外部のせいにしてしまえるなんて、どれだけ考え方が保守的で時代遅れなのだろうかと感じる。平成が終わろうとしている状況で、昭和のにおいがプンプンする(いまだに「サラリーマンは気楽な稼業」とでも信じているかのように)。 社会や組織

編集するのが好き

たぶん、編集っていう行為が好きなんだと思う。 「たぶん」と書くのは、自分が思ってる行為がほんとに「編集」って呼んでいいか、ちょっとだけ不安だから。 じゃあ、どんな行為をココで「編集」って呼んでいるかというと、いろんな本で読んだこと、最近見たこと・聞いたことや、これまでの人生での体験で出会った事柄などの断片を編み上げて、ひとつの論、ひとつのストーリー、ひとつの考えに仕立て上げていくことを指している。 生命とは何か?今日も近々あるハッカソン・イベントの最初のインスピレーショ

科学を人類学的思考の俎上にのせて

「人類学者には西洋を民族誌学的に研究することは不可能である」と書く、ブルーノ・ラトゥールの『虚構の「近代」』が、なかなか面白い。 「自分たちから見た異文化に対しては問題なく遂行できる研究でも、西洋文化(「自然-文化」と呼ぶべきか)に対してはなかなか遂行できない」というラトゥールは、自分たち西洋人が生み出した人類学という人間の文化・社会がどんな基盤の下に成立しているかを分析する方法が自分たちの外の異文化には適用できても、自分たち自身の文化にはうまく適用できずにいることを指摘す

自然の極と精神の極

自然と精神、あるいは、自然と文化。 古くからある、この二元論の思考装置がいま機能不全に陥っている。 いや、壊れたのは最近のことではない。 20世紀のはじめには、すでに修理が必要なことは指摘されてきた。 だが、上手な修理工は現れることなく、ほとんど機能しない形骸化された二元論の残骸だけが横たわりつつも、それに代わるものなく人々の思考を制限している。 もはや、そこから得られるものはないというのに……。 近代の「憲法」ここにこの二元論の装置を別の形で描いた人がいる。 純化と翻訳

手をつける

哲学書を読むのはあんまり得意ではない。抽象度が高いからだ。 だが最近は、そんな哲学書よく読んでいる。新しい哲学に興味があるからだ。 自分が興味をもったことにちゃんと手をつけられるかどうか、それは大事なことだと思う。興味があるものに、手をつけることによって新たな知識が増えていく。しかし、それは単に外にある知識を自分の内へと移動させるということを意味しない。知識を増やすということは移動ではなく、創作なのだと思う。 そう。学ぶというのは客観的な知識を手に入れることでは無い。むし

自己の体験のほかに、なんの権威も認めない

外に出る。 それが成長のために必要なことだと1つ前の「成長の資格」で書いた。 当然、外に出るのにも、大掛かりな冒険めいたものもあれば、行ったことのない知らない町を散歩したりもあればと、レベル的な差はある。だから、そういう組み合わせをうまく使っていくと、成長のために自分の領域の外に出ることも自然なことに感じられるようになってくる。 その意味では、最近読みはじめた由良君美さんの『椿説泰西浪曼派文学談義』は、「知らない町を散歩」してるような感覚だ。1972年に出版された著者のデ

言葉と他者

言葉というものを信じすぎてはいけない。言葉だけで何か定義しようとするのは現実的ではない。 言葉はとにかく曖昧だ。 人によっても取り方は変わるし、同じ人でも状況によってどう解釈するか、どういう意味で使うかは変化する。だから、言葉だけで議論するとき、議論する同士が相手がどのような立場でどのような意味で言葉を発しているかを配慮しない場合には無意味な言い争いにしかならなくなる。 言葉の扱いに配慮するということは、他者に配慮することに他ならない。自分とは違う他者というものを前提に「確

文化を変える会話が行われる場

文化が大きく変わろうとする際には、会話の場が求められるのだろうか。もちろん、場といって物理的な空間だけ用意すれば、そこに変化をもたらすような会話が生じるわけではない。物理的な空間は必要条件ではあっても十分条件ではなく、では、十分条件とは何かといえば「新しい会話」そのものだろう。新しく会話されるべき話題があってこその変化である。場や形式からはじめようとしても、なかなか変化は起こらない。各自、新しい会話を用意するように。 あの17世紀後半もやはり、そういう会話の場が必要だったの