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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#持続可能性

自立共生(コンヴィヴィアリティ)

すぐれて現代的でしかも産業に支配されていない未来社会についての理論を定式化するには、自然な規模と限界を認識することが必要だ。この限界内でのみ機械は奴隷の代わりをすることができるのだし、この限界をこえれば機械は新たな種類の奴隷制をもたらすということを、私たちは結局は認めなければならない。教育が人々を神神的環境に適応させることができるのは、この限界内だけのことにすぎない。この限界をこえれば、社会の全般的な校舎化・病棟化・獄舎化が現れる。 人がみずからの意思で行動することを制限す

この気候危機のなか、水さえも私物化され、金融商品化されていく

今日知って驚いた。 アメリカ・シカゴの先物取引所「シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)」は、2020年12月7日、ナスダックと提携して世界で初となる水先物を上場したという。 増大する水不足のリスクに備えて、需要量の大きい農業や製造業を中心にして水資源の管理に役立つとされているが、足りないものを資本のある一部のものが先物買いしてしまえば、水にありつけない者がたくさん出るだけだ。 ただでさえ、水道サービスが民営化されていて、料金が高騰していて、コロナ禍でも水で手が洗えない

線を引く(「非デザイン論」に向けて)

線を引く。 デザイナーが線を引き、歴史家が線を引く。 空間の線があり、時間の線がある。 線によって、奴らと僕らは区別され、あなたと私は結ばれる。区切線と接続線。敵と味方。 「と」。 接続詞としての「と」は、二者をつなぐと同時に分けてしまう。 線が引かれているから、接続詞「と」の出番が生じる。 区切ることと接続することは一見逆のことをしているようで、実は同じことの裏表でしかない。 線と言語線を引くことは認識することである。 こっち側とあっち側。内側と外側。対象とそれ以外。

「できる」を奪わない

ひとりひとりが自分で考えて、行動すること。 それがどんなに面倒で大変なことであっても、それだけは避けてはいけない。 そういう社会へとどんどん変わっていくのではないか。 いや、変わっていけるようにしないと、ちょっとやばい。 この持続可能性の問いが社会全体に課せられている状況では、ひとりひとりが自分で考えて行動するということこそがもっとも大切なことではないかと思うからだ。 自分自身で考えることでほかの誰かに搾取されることを防ぐ必要がある。逆にいえば、ほかの誰かの考えを尊重するこ

お金を増やすことと気候変動の問題

表象と現実。 あるいは、言い方を変えれば、人間が扱いやすくするために用いる記号的なものと、記号によって示される元の現実にある物や出来事。 たとえば、デザインが可能なのは、画面や紙の上でつくろうとしているものを図示したり、場合によっては物理的なプロトタイピングでも実物とは異なる素材やつくりかたで試作したりすることで思考できるからだ。 そうした図示やプロトタイピングによる代理的な記号操作を経ずに、直接、実物=最終製品をいきなりつくるのだとしたら、それはデザインという工程なしの

脱成長コミュニズム

まだ読み途中だけど、これは絶対読んだほうがいい。 そう、声を大にして言いたいくらい、持続可能な社会を問う上で素晴らしく、かつ独自性のある提案をしているのご、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』だ。 ひとことで、その特徴を言うなら、斎藤さんはこの本で持続可能性の実現のためには、資本主義を停止させ、脱成長の経済へと移行する必要があると言っていることだ。 『資本論』以降のマルクスその思考の根底をなすのが、『資本論』以降の著書に結実していないマルクスの思考だ。 晩年のマルクス

居場所

みんな、弱っているのかな。 日に日にそういう風に思うことが増えてきているように思う。 街に、職場に、人の気配や交流が少なくなっているのは仕方ないとしても、なんだか、それとは本来無関係なはずのネット上での発言や閲覧も減っている印象がこの数ヶ月あって、それはますます顕著になってきている。 そう、感じません? 身体的な動きをともなう活動が減っているだけでなく、ネットを見たり発言したりというような精神的なものが中心となる活動も同時に減ってしまうというのは考えさせられる。 身体を使

オラファー・エリアソン ときに川は橋となる@東京都現代美術館 / Olafur Eliasson Exhibition at MOT

この記事が400記事目らしい。 なんかうれしい。 さて、東京都現代美術館で開催中の「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展に行ってきた。 これも開催前から楽しみにしてた展覧会。 はじまるかどうかのときにコロナ禍に突入。 当初の会期が終わるころにはじまるかたちで会期が変更されて、2ヶ月あまり。 様子見してたらこの時期に。 そして、昨日、混雑を避けるため、平日の早めの時間を狙って行ってきた。そのために仕事は休みにして。 計画してたとおり、人もそう多くなく、ゆったりリ

脆弱な世界

世界を人間の思考だけでみることの危うさ。 それは実際の世界から、人間の思考からは外れる存在を排除することである。 外されるものはいわゆる自然だけではない。 人間自身が作りだしたものだって、役に立たなくなれば外に放り捨てられて、顧みられなくなる。 なかったことにされる。 ゴミ、箪笥の肥やし、壊れたおもちゃ、廃墟、無用の長物。 いらなくなった人工物は、それがたとえ自分たち自身が生きる環境に悪影響を与える結果になろうとも、そんなことすら気にされることもなく、自分たちが認識する

これからも生きていくための基盤

失われるということに対する想像力。 何かが失われることで自分の生活がどんなふうに変化してしまうのかを憂う気持ち。 そんな思考がいま、とても大事な気がする。 実際、この半年、ほとんどの人がそれまでの暮らしを失った。 自分の暮らしが何によって可能となっていたかをあらためて考えなおす機会としては十分すぎるインパクトがあったはずだ(実際どれだけの人が「考えなおした」かはまた別として)。 この状況は最低でもあと1年くらいは続くだろうから、当初抱いていた元どおりの暮らしが戻ってくること

ポストヒューマン的言説を整理する

考えて必要な答えを出すのには、普段の準備が大事だ。 最近やってる仕事のなかでもあらためてそれを感じる。準備しているのとしていないのでは到達可能な地点がまるで違ってくる。 準備には、 ①多様な知識に可能な限り濃い密度で触れておく ②触れた知識同士の関係を小さな単位でいいので普段から考えておく ③1か月か数ヶ月の単位で1回くらいは、集めた知識や小さな単位でつなげた知識同士の関係性をあらためて整理し、俯瞰的な視点で何が言えるかを図式化したり記述したりすること の3段階がある

仕事の改革

仕事に関する話題としては、世の中、リモートワークに関することで持ちきりだ。 もうオフィスワークや、それに伴う通勤には耐えられないという声はよく聞く。 もちろん、共感する部分はある。 でも、仕事について、そんな話ばかりに終始する気には到底なれないし、リモートワークを過度に要求したいという気持ちにもならない。 とりわけリモートワークかオフィスワークかという二者択一的な話はどちらの形態にだっていいところがあるので、どちらかを選ぶという話はナンセンスすぎるように思う。 それより

生き生きと生きて考える

自分で自分の考えをつくれること。 同時に、他人の考えにもちゃんと耳を傾け、たとえ、それが自分の考えとは異なっていたとしても、ちゃんと受け入れ理解はすること(同意するかは別として)。 これはずっと感じていることだけど、あらためて最近特に強く大事だなと感じるようになったことだ。 いまのコロナ禍でのさまざまな状況や、今回の都知事選の機会でもあらわになったのは、自分で考えてある程度は自分の責任を感じて行動できる人と、自分で考えられないから上やまわりに責任を押し付け文句ばかりを言い

接触仮説

自分と同類とばかり一緒にいると、ちがう視点に立てなくなり、ちがう価値観を理解できなくなる。これは大きなデメリットだ。 いま読んでいる『絶望を希望に変える経済学』という本に書かれた言葉だ。 2019年のノーベル経済学賞を受賞したアビジット・V・バナジー & エステル・デュフロという2人の経済学者による指摘は、 BLMや香港のデモなどに代表的にみられる、現在ますます悪化しているように感じられる格差や差別、それにともなう異なる集団同士の誹謗中傷や暴力の問題に関するものだ。 個