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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#思考

言葉と物

バーバラ・マリア・スタフォードの『実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』を読んでいて、ちょっと興味をそそる記述を見つけた。 こんなものだ。 ジョン・イーヴリンには『煤煙対策論』(1661)があって、英国産瀝青炭を燃した指すだらけの蜘蛛がいかに「いつも空を圧す」かを論じていた。イーヴリンに言わせれば、ロンドンはエトナ山、鍛治神ウルカヌスの仕事場、ストロンボリカザンそっくりだ。地獄というのもこんなふうなのだろう。「怖ろしい煙霧」はこうして、

消えてなくなる詩のようなお金を夢見て

ケイト・ラワースの『ドーナツ経済学が世界を救う』を読んでいて、こんな一文に出くわした。 新しい経済の自画像には、世界のなかにおける人類の位置も反映されなくてはいけない。昔から西洋では、人間に自然を足もとにひれ伏させ、好きなように利用する存在として描かれてきた。「人類に自然に対する決定権を取り戻させよ。自然は神によって人間に授けられたものなのだから」と17世紀の哲学者フランシス・ベーコンは述べている。 ベーコンの言葉とされるのは、彼の『ノブム・オルガヌム』中の文章だそうだ。

生き生きと生きて考える

自分で自分の考えをつくれること。 同時に、他人の考えにもちゃんと耳を傾け、たとえ、それが自分の考えとは異なっていたとしても、ちゃんと受け入れ理解はすること(同意するかは別として)。 これはずっと感じていることだけど、あらためて最近特に強く大事だなと感じるようになったことだ。 いまのコロナ禍でのさまざまな状況や、今回の都知事選の機会でもあらわになったのは、自分で考えてある程度は自分の責任を感じて行動できる人と、自分で考えられないから上やまわりに責任を押し付け文句ばかりを言い

僕らは世界にアフォードされながら創発的に発想してる

自分の発想がどこから生じるのか? 自分はどうやって仕事をしているのか? 部分的にオフィスワークを復活させてみて、5日ほど出社してみたけれど、あらためて感じたのは、そんなことだ。 まわりに生きた世界がないと思考がちゃんと働かず、まともな仕事ができないなーというのが、明確にわかった気がする。 その意味では、オフィスに出社すれば良いというだけでもない。 むしろ、オフィスに限らず、いろんな現場に足を伸ばしていろんなものを観察し、いろんな話を聞かせてもらう機会を増やすことが大事だ。

カンフォタブルゾーンへの幽閉から解放されて

アヴィラの諸自己の生態学において、魂=盲は、モナド的な独我論という孤立した状態――自分自身あるいは自らのたぐいを超えて見る能力の欠如――によって特徴づけられる。 エドゥアルド・コーンの『森は考える』に、このように記述される「魂=盲」という概念がある。 一言でいえば、自分のなかに閉じこもって、まわりの存在に気づくことない状態だ。 野生の猛獣たちがたくさんいる南米の森で、この状態は危険この上ない。なにかしらの獣が自分を狙っていようとも、それに気づけなくなっているのだから。

パニック

パニックを作りだすのは、自分自身の頭でしかない。 まあ、そうだと思っていたけど、やっぱりそうなのかという話に、いま読んでるエドゥアルド・コーンの『森は考える 人間的なものを超えた人類学』で出会う。 南米エクアドルの調査に向かうバスでの旅路で、著者は、地滑りに巻き込まれて、バスの前後を塞がれてしまう。バスの上の方の山も崩れて、岩がバスの屋根にも降ってくる。 恐怖を感じる著者とは別に、乗り合わせていた旅行者のスペイン女性たちは冗談を言って笑っている。そのうちひとりはバスを降り

デフォルト値の更新

日常的な生活空間にあいた亀裂から、異常が溢れだしてきてからもう何週間も経つ。 各国で非常事態宣言がされ、店舗の営業が禁止されはじめたかと思えば、とうとう域内の渡航制限がされる状況にまで追い込まれたヨーロッパに比べれば、まだそれでもマシな方だとは言えるが、それでもいままで「日常」に普通にあるものと思っていたものが制限され、いまこの日々からは失われているものはたくさんある。 不要不急なものだからと我慢しているそれら失われたものは、果たしてもうすこし時間が経てば戻ってくるのだろ

記述するという生存戦略

こんな時代だからこそ、記述することをもっと大事にしないといけないと感じている。 みんなが自分で観察したことをちゃんと自分の考えとして自分の言葉で記述する。それを他の人と共有し合い、そこを起点に議論の輪を広げて、ネットワーク的な知を組み立てていく。 フランスの社会学者のブリュノ・ラトゥールがアクターネットワーク理論で提唱していることも、古くは1967年の『発想法』で川喜田二郎が提唱したKJ法も、目指しているのは記述による知をネットワーク的につなぎ合わせることにより、既存の理

他人の言葉はあなたのものではない

他人の言葉はあなたのものではない。 これ、本来は当たり前のことだと思うんだけど、現実には、結構多くの人が他人が書いたものを読んで、そう思ってた的な発言を自然にしてしまう。 「共感する」と言えば聞こえはいい。 でも、本当に最初にそう思ってたのだとしたら、何故自分が先に同じことを書かないのかという話でもある。 それに本当に最初からそう思ってたら「私もそう思ってた」なんてことをうれしそうには言わないだろう。あっ、先に言われた!くらいのちょっとした悔しさが起こる方が自然な反応では

自分で理解する(答えをつくる)

理解するのには、2つのベクトルからのアプローチがある。 1つは、話をする側、何かを表現し伝える側のほうから、受け手に理解してもらいやすく工夫することで受け手の側の理解を得ること。 もう1つは、その受け手の側、話を聞く側であり、何か表現されたものを視聴したり読んだりする側のほうから、自分から積極的に発信者側が何を言ってるか、言おうとしているかなどを理解するために、内容を整理したり、わからない点を質問したりすることで理解を形づくろうとすること。 現代において、前者の努力は方々

書かずにはいられない

先日、とあるプロジェクトの打ち上げの席で、僕が日々noteを書いていて30000人を越えるフォロワーがいるという話題になった。 その流れで「どうして書いているんですか?」という質問を受けた。 同席していた別の場所に人が「発信したいことがあるですか?」と言ったが、僕の答えは「そうじゃない」。 誰かに何か発信したいことがあって、このnoteを書いているかといえば、まるでそうじゃない。誰かが読んでくれるということさえ、まったくないとは言わないが、さほど期待してない。 では、何で

判断力の根っこ

仕事をする上で大事な能力のひとつは判断力だと思う。 異なる選択肢が2つ以上ある場合、何を選んで仕事をその先の段階に進めていくか。はたまた目の前にある作業の結果を良しとしてそのまま進めるか、良くないとして修正に戻すか。 何かをつくりだす仕事は当然として、その他たいていの仕事のなかには、こうした「判断」の場面が日常的に何度も発生する。 判断基準があらかじめ明確になっていて、それに照らし合わせて判断すればよいことももちろん数多くあるだろうが、それと同じくらい基準は明確になってい

英雄視しない

週末、岸田劉生を観たこともあって、明治期の知識人のことについて考えてみたくなった。 明治期の知識人たちの現代人とは比べものにならない知への欲望、自己研鑽の徹底について、もうすこしちゃんと知った上で、考えてみたくなったからだ。 それで、いまこそ、そのタイミングと思い、1年くらい前に買っておいた夏目漱石の『文学論』を読みはじめた。 青年の学生につぐすると、「序」にさっそくこんな一文を見つけた。 青年の学生につぐ。春秋に富めるうちは自己が専門の学業において何者をか貢献せんと

優れた人は、読書家である

ちょっとびっくりした。 1つ前で『時間は存在しない』を紹介したnoteの反響のあまりのなさに。 自分ではとても面白い本だと思って紹介しただけにこの反応の薄さは予想外。 内容的にも「時間が存在しない」という衝撃的なことを物理学的に分かりやすく教えるものだし、世の中的にもよく売れてたりもするから、自分自身の紹介の仕方がよくなかったのかなと反省している。 まあ、それは仕方がないこととして、今回は、その本の内容自体の驚くべきすごい思考の展開もさることながら、もう1つ驚かされた著