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言葉と物

バーバラ・マリア・スタフォードの『実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』を読んでいて、ちょっと興味をそそる記述を見つけた。

こんなものだ。

ジョン・イーヴリンには『煤煙対策論』(1661)があって、英国産瀝青炭を燃した指すだらけの蜘蛛がいかに「いつも空を圧す」かを論じていた。イーヴリンに言わせれば、ロンドンはエトナ山、鍛治神ウルカヌスの仕事場、ストロンボリカザンそっくりだ。地獄というのもこんなふうなのだろう。「怖ろしい煙霧」はこうして、あらゆる発散気の上に悪評を招く。同様な偏見が、霧も風も雨も、雹も雪も、暖も寒も旱魃も、人間の汚れた手によって自然の構造の中にもちこまれたものとする環境保護論をうんだ。川の流れを変え、沼を涸らし、縦坑を掘り、山を貫き、港をつくることで自然の静謐を掻き乱し、しかも人間干渉と商業のもたらす害は地球大である。こういう議論は明らかに急進的神学の意見を反映してもいたが、そもそも人間は食べ、消化し、呼吸するだけで、吐く息、出す排泄物を大いなる大気の貯蔵庫中に垂れ流し、その元々持つ浄化作用を妨げると考えた。

産業革命が社会に大きな影響を与え始めていた17世紀のイギリス。ある意味、現在の人新世の環境危機のはじまりともいえるまさにそのとき、すでに「人間干渉と商業のもたらす害は地球大である」という人間活動の環境に及ぼす危機についての議論がのっけから沸き起こっているわけである。

言いがかりという関係性

もちろん、ここで書かれた「霧も風も雨も、雹も雪も、暖も寒も旱魃も、人間の汚れた手によって自然の構造の中にもちこまれた」なんて記述は、現在からみたら、偏見、言いがかりもよいところである。大気はロンドンのあちこちで見られるようになった工業用の煙突からの煙で汚されるだけでなく、そもそも人間が「食べ、消化し、呼吸するだけで、吐く息、出す排泄物を大いなる大気の貯蔵庫中に垂れ流」すもので汚されるのだなんて、悲観的というより単なる被害妄想ですらある。

しかし、この記述を嗤う資格が果たして僕らにあるのか?と思ったりもする。
いまの気候危機の原因を僕らは何でもかんでも温室効果ガスのせいにして、そればかりを悪者扱いして安心しきっている。だが、もっと後の時代となったらそれも見当違いの認識だと明らかになって嗤われるかもしれない(まあ、温室効果ガスが問題なんだけどね)。

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何が言いたいかといえば、対象そのものとそれを人間が理解したつもりになっている言葉による認識って、人間がそう思う、そう思いこむ以上の関係性はないんだということだ。

そう、文字通り「言いがかり」だ。

言葉と対象のギャップ

同じことは、誰かの悪口を言ったり、誹謗中傷したり、変な評判を立てたりする場合にも言えそうだなとこれを読みながら思った。

もちろん悪口言われたり誹謗中傷されたり変な評判を立てられたら精神的にも日々の暮らしにも大きな打撃を受けることは多い。それを避けようと、人は、なるべく目立たないようにしたり、失敗しないようチャレンジを避けたり、自分の態度を明らかにするのを避け他の意見の裏に隠れようとしたりする。一方で、自分以外の人や物事に文句や苦情を言ったり、問題を外に押しつけたり、ろくに証拠もなにもない悪いうわさを平気で独断的にしたりする。言われたくはないが、自分が言うほうに回ることにはきわめて無頓着。人間とは、なかなかに都合が良い生き物だ。そのことは自戒しておく必要は大いにありそう。

では、そのとき、悪口や誹謗中傷や悪い評判の的になった対象が、本当にそういう言葉で評されているようなものなのかというとそうではなかったりする。すくなくともそういう面はありつつ、決してそれがすべてではないというか、ほとんどの場合、そんな風に言葉で評され認識されている部分なんて極小的な一部でしかないことが多いはずである。そう、つまり言いがかりだ。

さらに言えば、そんな言葉による評価や認識が広がる前と後では、対象そのものはほとんど変化しないのだが、評価や認識によって、その人の心や社会での生きやすさは激変してしまったりする。対象そのものはまるで変化しないのに、評価や認識は大きく変わってしまうというギャップ。この言葉と物の不釣り合いすぎるギャップは、このままで良いのだろうか?と悩む。

この対象である人そのものと、その人に対する評判や認識のギャップは、まさに17世紀の「霧も風も雨も、雹も雪も、暖も寒も旱魃も、人間の汚れた手によって自然の構造の中にもちこまれた」なんていう言いがかりとまったく変わらない愚かな思考姿勢から生じているものではあるまいか。

なんなんだ、この現実と概念のギャップは? このほとんどポンコツといえるほどの事実誤認に気づくことのできない人間の思考能力の欠陥は! と考えざるをえない。

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リアル・シングをつかむ

スタフォードは『実体への旅』の冒頭で、こう書いている。

本書が大前提にしているのは、17世紀初めのどこかの時点で、何かはたしかに外界に実在するのであり、かつアートも言語もたしかな「リアル・シング」を摑むために、模倣を越える、というか何となく聖化されているアートとしての言語を越えるような使い方をされなければならないとする大きな確信が一貫して表現されたという事態である。

古代ギリシアやローマの古典的な知を演繹的な方法で展開してきたヨーロッパの知のありようが、現実世界の客観的な観察に基づく帰納法的思考に変化するきっかけは、フランシス・ベーコンが『学問の進歩』(1605)や『新機関』(1620)などで示した新たな学のあり方だったといえる。

ベーコンは『新機関(ノヴム・オルガヌム)』で、「自然の下僕であり解明者である人間は、彼が自然の秩序について、実地により、もしくは精神によって観察した結果だけを、為しかつ知るのであって、それ以上は知らないし為すこともできない」と書いて、観察こそが知につながるのだといい、従来の演繹法の土台となる言葉による概念に混乱があれば、知の土台は揺らいでしまうことをこう指摘し、帰納法に希望を見いだしている。

推論式は命題から、命題は言葉から成り立ち、言葉は概念のしるしである。それゆえにもしも概念(ことの土台であるところのもの)が混乱しており、軽々しく事物から抽象されたなら、その上に建てられるものには、強固さなど全く存在しない。したがってただ一つの希望は真の「帰納法」のうちにある。

先にあげた、17世紀の汚れた大気に関する誤謬も、現代の他者に対して根拠薄弱な悪評を容易にたててしまうありようも、まさにこの思考の土台となる概念の混乱であり、直接的観察の不足であり、さらに次のようにベーコン指摘するイドラの問題だといえる。

「洞窟のイドラ」とは人間個人のイドラである。というのも、各人は(一般的な人間本性の誤りのほかに)洞窟、すなわち自然の光を遮り損う或る個人的なあなを持っているから。すなわち、或いは各人に固有の特殊な性質により、或いは教育および他人との談話により、或いは書物を読むことおよび各人が尊敬し嘆賞する人々の権威により、或るいはまた、偏見的潜入的な心に生ずるか、不偏不動の心に生ずるかに応じての、印象の差異により、或いはその他の仕方によってであるが、したがってたしかに人間の精神とは、(個々の人における素質の差に応じて)多用でそして全く不安定な、いわば偶然的なものなのである。それゆえにヘラクレイトスが、人々は知識をば〔彼らの〕より小さな世界のうちに求めて、より大きな共通の世界の中に求めない、と言ったのは正しい。
またいわば人類相互の交わりおよび社会生活から生ずる「イドラ」もあり、これを我々は人間の交渉および交際のゆえに、「市場のイドラ」と称する。人間は会話によって社会的に結合されるが、言葉は庶民の理解することから〔事物に〕付けられる。したがって言葉の悪しくかつ不適当な定めかたは、驚くべき仕方で知性の妨げをする。学者たちが、或る場合に自分を防ぎかつ衛るのを常とするとき使う定義や説明も、決して事態を回復はしない。言葉はたしかに知性に無理を加えすべてを混乱させる、そして人々を空虚で数知れぬ論争や虚構へと連れ去るのである。

こうした既知の誤った概念=言葉に惑わされることなく、リアル・シングを直接的に観察したり、対象となる人や物事に自分自身で触れて経験したことを通じて、理解や評価を行うことの必要性を説いたのがベーコンだと言える。

スタフォードが『実体への旅』で紹介してくれるのは、そうしたベーコンの客観的な観察を重視する姿勢に共感した博物学者や自然科学者たちが未知の土地を訪れ、自然のありようを観察し記述してまわった記録としての「絵入り旅行記」の考察を中心とした、18世紀後半から19世紀前半にかけての「リアル・シングのつかみかた」に関する取り組みと技術についてだ。

事実即応の絵入り旅行記というものは、事物の真底を摑めるかもしれないというこういう視覚形態に本質的と考えられるさまざまな可能態そのもととも言える典型例であろうが、まさしくその「アート」(というよりは技巧〔アート〕の少なさ)が、一般にすぐ利用されがちだったどんな意味作用の定型定石とも無縁だったからである。未踏の地の報告という建前からして、探検者たちの相手が何か既知の商品などであるはずがない。知られざる、文字通りの異境なのであった。この世界の個々独自の個別相に比喩を介さず対峙しようという決意に発する発見方法を、そうした探検者たちが工夫していく中で、真実のモノ語りが一個の美学に昂まっていった。

こうしたリアル・シングに向かう姿勢があって、先の大気に関する認識も「18世紀後半には別の科学者たちが、大気の健全さを保つ摂理や秩序があるはずだと主張した」というように変化するのである。

この立場で見ると、植物の蒸散作用および「反撥力」のような物質の作用が、空中の腐敗分子を吸収することで大気を浄化賦活するはずなのであり、日光を受けた植物が炭酸ガスを分解、酸素を出すことを明らかにしたのはインヘンホウスであった。

およそ1世紀をかけて盲信が取り除かれたわけである。

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言葉と物の正確な対応の達成

しかし、観察という方法をとれば、対象(リアル・シング)と言葉(概念)のギャップが完全に埋まるのかというとそうではない。

スタフォードは、17世紀後半のイギリス経験主義哲学者ジョン・ロックの思想をとりあげながら、こう書いている。

ロックは、物質的実体のいかなるかは知ることはできず、(固体性、延長、形象といった抽象的性質は別として)その観念をいろいろ形づくることができるだけなどとしている割には、少なくともその性質を示すあり得る仮説として差しあたり粒子説はありだとしている。(中略)彼自身の懐疑にブレーキをかけて我々に向かうと、自然研究によって知識の安定状態をできる限り――理想は単なる主観、主体性の彼方へ――突破せよなどと忠告してくれるのである。こういうふうに見ていくと、心的イメージが、それがそれらの観念であるところの当の事物に似ているか否かという彼の問いは、科学的発見の目的として密接に関係あり、広教会派と王立協会が展開した言葉と物の正確な対応の達成に基づく諸方法論にも関係あり、と見なければならない。

ロックは、ベーコン由来の観察を重視した経験主義に立ちつつ、その科学的な観察の結果の認識とその記述も決して十分なものとはなり得ないという懸念をはやくから評している。そう。「言葉と物の正確な対応の達成」に関する問題を、科学的発見にも通ずる問題としてちゃんと指摘していたわけである。

この問題をイメージするには、前に紹介した、スティーヴン・シェイピンとサイモン・シャッファーという2人の科学史家による『リヴァイアサンと空気ポンプ』が参考になる。

まさに、ロックと同時代人であり、空気を物質として観察し、その性質を理解しようと実験を重ね、ボイルの豊作を発見したロバート・ボイルが、科学的実験法とその実験結果に基づく新たな知の確立の方法がどのようにして、この時代に行われたのかを歴史的に考察した一冊である。

著者らは自分たちがこの本で何を目指したのかをこう綴っている。

私たちの主題は実験である。私たちが理解したいのは、実験的な営みとその知的産物とはなにか、そしてそれがどういう地位を有するかである。答えようと思う問いは以下のとおりである。実験とはなにか。実験はどのようにおこなわれるのか。実験はどのような仕方で事実を生みだすといわれうるのか。そして実験によって生みだされた事実と説明のために想定されることがらとのあいだにはどんな関係があるのか。どのようにして実験は成功したとされるのか、またどのようにして実験の成功と失敗は区別されるのか。この一連の問いの背景にはより一般的な問いが存在する。なぜ人は科学的真理に到達するために実験をするのか。

「実験によって生みだされた事実と説明のために想定されることがらとのあいだにはどんな関係があるのか」、そして「なぜ人は科学的真理に到達するために実験をするのか」という問いは、ロックがまさにその時代を生きながら感じていた問題とリンクするし、僕が今回このnoteで考えてみたいリアルな物事、現実に対する人間の言葉による概念化や評価・認識の「言いがかり」的関係の問題にも関連している。

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事実制作の言語ゲーム的方法

著者らは「実験プログラムというのは、ウィトゲンシュタインの表現を使うなら、「言語ゲーム」であり、「生活形式」であった」と言っている。つまり、それ自体にそれが正しいことを示す明確な根拠などなく、それを実際に行っているということそのものが唯一の根拠となるようなものだということである。

「そのプログラムの受容、ないしは拒絶は、ボイルとその仲間たちが提案していた生活形式の受容、ないしは拒絶にほかならなかった」という認識から、著者らは、ボイルらが確立した実験とその観察、観察結果の記述の客観性を観察者が複数人いたことに依存させる、つくられた客観性、つくられた「事実」と作りかたが確立されていく歴史的様子を概観してみせる。

事実とは、ある人が実際に経験し、自分自身にたいしてその経験の信頼性を請けあい、他の人びとに、彼らがその経験を信じることには十分な根拠があると保証するというプロセスの結果としてえられるものであった。このプロセスのうちで根本的だったのが、目撃経験を増加させることであった。経験は、たとえそれが厳密に制御された実験の実施であったとしても、目撃者が一人しかいなければ事実をつくりだすには不十分であった。もし経験がおおくの人間に拡張されたならば、そして原則的にいってすべての人間に拡張されたならば、そのとき結果は事実となりえた。

まさにたびたび言及している、1632年にそれまで「つくりもの」という意味しかもたなかった"fact"という英単語が事実という意味をもったという、その時代性の真っ只中にある問題である。

「実験的知識の基礎をなす要素、また適切に基礎づけられていると考えられた知識一般の基礎をなす要素は、人為的につくられたものであった」とボイルらの実験室で知識が".正当に"つくられるようになった歴史的瞬間を著者らは記述している。そして、事実がそのように実験室でつくられるためには、実験とその観察、そしてその記録の共有によって事実をつくりだす「コミュニケーションと、コミュニケーションを維持しその質を高めるために不可欠だと考えられたあらゆる種類の社会形式」が必要だったと指摘している。その社会形式が1660年の英国王立協会の設立であり、いまにもつながるアカデミックな論文の出版、蓄積、共有の仕組みであろう。

もしだれかが権威をもつ実験的知識(すなわち事実)を生みだしたければ、その人はこの空間にやってきて、他の人びととともにそこで働かねばならなかった。もしだれかがそれらの機械がつくりだす新しい現象を見たければ、その人はその空間に来て、現象を他の人びとといっしょに見なければならなかった。それらの現象はどこででも見られるものではまったくなかった。したがって実験室は規律づけられた空間だったのだ。そこでは有能なメンバーたちが、実験上の、言語上の、そして社会上の実践を集合的に制御していた。

事実という形で「言葉と物の正確な対応」を人為的に創作する作業は、その方法の確立の最初から閉じたアカデミーのコミュニティのなかの一部の認識たちのみによって、言語ゲーム的でしかない薄弱な根拠によってのみ実現されてきたのである。

科学的思考の盲信さ

まさに、その様子の滑稽さを描いたのが、時代をすこし降った、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の第3部だろう。

スウィフトは、ガリヴァーこ3つめの冒険のなかで訪れたバルニバルビ国の首都ラガドでの、失敗した科学者たちのたくらみをこんな風に諷刺してみせる。

この目的の為、ラガドに企画屋たちの学院を創建する勅許を得て、この進取の気性液体が臣民たちの五体をかけ巡った結果、その種の学院を持たぬ町がひとつもないという事態が生じた。そうした学院では教授たちが農業や建築の新規則、新方法を捻りだし、どんな商売、どんな生産業に対しても新しく道具、新しい機材を提供し、その為、彼らの企てるところ一人の人間が十人分の働きをし、大建築だろうとわずか一週間ででき、部材の耐久力は修理いらずで永遠永久という話だった。地の果実は全て、我々がその時期が最適と決めた時期に完熟し、しかも出来高は現在の百倍、とかとか兎角売り文句は無数。売り文句は結構、ただひとつ厄介なのはこうした企画がひとつとして完成をみないこと。そしてその間にも、国中目も当てられぬまだに荒廃、建物は廃墟と化し、人々は衣にも食にもこと欠く始末。こういう状況に挫かれるどころか彼らは、希望からも絶望からも背中を押されて、おのがじしのたくらみになおのこの五十倍も激しく入れ込むのである。

このガリヴァーの世界の馬鹿馬鹿しさは、大気の汚れがすべて人の行動のせいとした1661年の現実世界の記録と大して違いはない。現実のほんの一部の事象のみを観察や実験を通じて取りだしておいて、それが何もかもを説明するかのように盲信的な仮説を立てれば、現実とのギャップは取り留めなく大きく広がってしまうだろう。

この困った科学盲信の国バルニバルビの頭上に浮かぶ、国王の住む空中都市ラピュタの王侯貴族らの数学しか頭にない現実に根を持たない、まさに現実という土壌に根拠を持つことのない足が宙に浮いたような様子は、「言葉と物の正確な対応」のために生みだされた方法への妄信が、かえって言葉と物のあいだに致命的なギャップを生みだす要因になりうるのだということを諷刺している。

やっと宮殿に着くと、謁見の間に通された。王は玉座にあり、両側に最高級の格の人々が侍っていた。玉座の前のテーブルに地球儀、天球儀、各種数学の用具が載っていた。我々が現れて宮廷の人間全部が蝟集したわけで、相当な大騒ぎだった筈なのに国王陛下は我々に何の興味も持たぬようだった。陛下は或る問題の解に没頭中で、解が出る迄、少なくとも1時間のあいだ、我々はそのままでじっと侍っていた。陛下の両側すぐに若い小姓がぽんぽん棒を持って侍し、陛下の手すき時と見るや、一が陛下の口を優しくぽんぽんし、他が右耳をぽんぽんした。すると陛下は突然目ざめた者の如く、我に返ったか、わたしの方を見、わたしの一行を見、我々がやって来たわけを、事前に聞いていた通りのことを思いだしたようだった。

言葉と物

「博物学が可能になったのは、人々がよりよく熟視することを学んだからではない」と言ったのは、『言葉の物』のミシェル・フーコーだ。「厳密な意味において、古典主義時代は、できるだけものを見ないように努めたといえるだろう」とフーコーは書いている。まさにラピュタの国の王の様子がこれである。

フーコーは「17世紀以来、観察というものは、ある種のものを体系的に除外することを条件とする感覚的認識となったのだ」とも書いている。

観察するとは、見るだけで満足すること、体系的にわずかな物しか見ないこと、表象のやや混乱した豊かさのうちで、分析されうるもの、万人に認められるもの、だれにでも理解できる名をもちうるものだけを見ること、である。

「だれにでも理解できる名をもちうるものだけを見ること」。

これこそ、いま人々がとにかく自分を除いた外にあるものをとにかく徹底的にけなして文句を言って責任をなすりつけるか、その反対にとにかく「共感します」と言って同じく外のものを持ち上げるだけ持ち上げて、賛否いずれの場合でも結局自分自身はいずれにも現実的には参加することなく距離をとったまま、何もせずにいることに平気な状態を可能にしているものではないかと思う。時事的ネタにばかり引っ張られてしまって他がまったくもって疎かになったり、フィルターバブルに飲み込まれたりというのも、「だれにでも理解できる」言葉的な既知に気を取られて、未知の領域がまさにあるのにないことにされてしまっても平気でいられる。むずかしい、わかりにくい、あんまり話題になってない、少数派的なものは、あたかもそこに大きく致命的な問題があっても、なかったことにされてしまう。「国中目も当てられぬまだに荒廃、建物は廃墟と化し、人々は衣にも食にもこと欠く始末」になったバルニバルビの国の話は他人事ではないはずだ。

まさに「やってる感」を前面に打ちだして、何もせずにいるという空虚な状態を良しとできるのは、17世紀のアカデミックな閉じた知の形成と維持のしくみが、「だれにでも理解できる」という風に悪い意味で民主化、俗化して、人々が「名をもちうるものだけを見ること」だけで、ラピュタの王のように、現実に自分で触れることなく生き続ける、地に足をつけない生きかたを可能にしてしまっているということなのだろうなと強く思う。

『計算する生命』で著者の森田真生さんがこんなふうに書いているのをあらためて感覚見るべきなのだろう。

ブルックスが指摘した通り、全身の感覚器官を用いていつでも現実世界にアクセスできる主体にとって、外界の忠実なモデルを内面に構築する必要はない。世界のことは、世界それ自身が正確に覚えていてくれるのだ。とすれば、認知主体の仕事は、外界の精密な表象をこしらえることではなく、むしろ、環境と絶えず相互作用しながら、さしあたりの知覚データを手がかりに、的確な行為を迅速に生成していくことにこそある。生命にとって、世界を描写すること以上に大切なのは、世界に参加することなのである。

世界に言葉を投げつけるだけで「やってる感」「わかってますよ感」「ちゃんと見てる感」に陥ってしまうのではなく、世界に自分自身の身体と生活をもって参加するということの必要性をあらためて認識することが。

言葉と物の対応を可能にするのは、この現実への参加のみではないだろうか。

まあ、問題なのは、やってる感も、わかってる感も、ほんとにやってない、わかってないことが問題なのでなく、一部ちゃんとやってたり、わかってたりするので、それを批判しても仕方ないことだったりもするから、事はそれほと単純ではないのだけど。とりあえず他人や外部を批判するより、問題だと思うなら自分で解決のための行動をしてみようというのは確かかな。


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