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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2018年9月の記事一覧

美はすでに人間的なものではなくて

まだ、自分のなかでもきちんと消化しきれてないんだけど、備忘録的に書いておこう。 美とは、アリストテレスの畏怖すべき定式化によればτο ευσυνοπτον(容易に理解しうるもの)のことである--すなわち、われわれの目に1つの関連として概観され、全体として見渡されうるもののすべてである。 フリードリヒ・キットラーの『ドラキュラの遺言』からの引用。「象徴的なものの世界--マシンの世界」という小論から。このあとにキットラーは、美学はパターン認識からはじまったと書いている。そ

形成

カタチを成す。 有形無形を問わず、形作る意思がなければ、何事もなし得ない。 いや、意思だけでは足りない。カタチを成すためには、どうすれば良いかとその方策を練らない限り、まともなカタチは生まれない。デタラメにやれば畸形が生じるだけだ。 カタチを成すためには方策がいる。 その方策について頭を悩ませない限り、思い通りに形作ることができるわけがない。 その方策をデザインという。 デザインとは、形作ることそのものというより、どうすればカタチが作れるかの作戦、戦略を練ることだ。 どう

痕跡の確保

ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』は吸血鬼小説などではない。 たしかに僕もそんな風には読まなかった。それは前回の紹介を読んでもらえればわかると思う。 けれど、フリードリヒ・キットラーの『ドラキュラの遺言』中の、この読みは言われてなるほどだが、読んでいて思いつくことはなかった。 主人のディスクールというものの可能性の条件そのものを清算することが問題なのであれば、男たちと女たちは、もはや互いに秘密を持つことは許さない。ストーカーの『ドラキュラ』は吸血鬼小説などではなく、わ

区別するか混ぜちゃうか

ちゃんと理解するにはちゃんと区別した方がいいが、僕はいったん分けたら(ようは分かったら)、もう一回混ぜてごちゃごちゃにしちゃった方がいいと考える性質(たち)。 区別を維持しちゃうと考えが固定化しちゃってつまらないことが多いからだ。 理解が大事なら、また分け直せばいい。それが前の分け方と違っても、分ける際に理解できてれば、その分け方がどういう観点で分けられているかが分かり、前の分け方との違いも明確なはずだから問題はないはず。問題ないというより2つの視点=理解が持てているという

自己の体験のほかに、なんの権威も認めない

外に出る。 それが成長のために必要なことだと1つ前の「成長の資格」で書いた。 当然、外に出るのにも、大掛かりな冒険めいたものもあれば、行ったことのない知らない町を散歩したりもあればと、レベル的な差はある。だから、そういう組み合わせをうまく使っていくと、成長のために自分の領域の外に出ることも自然なことに感じられるようになってくる。 その意味では、最近読みはじめた由良君美さんの『椿説泰西浪曼派文学談義』は、「知らない町を散歩」してるような感覚だ。1972年に出版された著者のデ

成長の資格

言葉の意味。 結局それは生きる個々人の生のおける価値の表象だ。 であれば、その意味するところは似ることはあっても微妙に異なるは当然。それを俯瞰すれば1つのキーワードに集まるのはバズのようにあやふやに見える。それは群衆=クラウドがそれぞれ違って全体としてもやっとした雲のように映るのと同じこと。だから、その全体をみてバズワードだと非難したりつもりでも、結局その非難さえバズワードの雲の一部でしかないのだから、その言葉に対すふほかの態度以上の価値を持ち得ない。 これを現代の表象論とし

貴方も私もクラウドのひとり

言葉に騙されてはいけない。 実はそう思ってる人ほど、騙されていることがある。 言葉なんて騙すもの、確実な定義など望まないほうがよいと思ってるほうがちょうどよい。 というのは、あとでも書くが、それは言葉が対象にする現実の世界の方が常に動き続けているからで、定義をしても状況が変われば言葉のもつ意味が内包的にも外延的にも変わることは免れないからだ。 だから、バズワードの存在もある意味仕方がないものだ。いや、どこから見たらバズワードに見えるのか?をちゃんと考えてみることが大切である

学ぶのは得意?

まわりを見ていると、この人は学ぶのが上手だなと思える人と、逆に、この人はちょっと学ぶのが上手くないなと感じる人がいる。 シンプルに言うと、得意な人は基本的に間口が広い。 他人の意見に耳を傾けるのが上手だし、自分とは違う他人の指摘をちゃんと受け入れられる。 そもそも学ぶことに貪欲だと、自分のいまの考えにこだわるより、自分がいま持ててはいない捉え方を他人から得る方を選べる。 つまり、何かがうまくいかないとき、うまくいかない理由を他人の側、外側に見るよりも、自分の側に問題がない

考えるの素材

なんらかの仕事を成し遂げるために思考をする際、必要になるのは考えるための素材だ。 どんなに思考力があろうと考えるための素材が使える形で手元(いや、頭の中の"手元"的な場所にだ)にないと、考えることはできないのだから。 思考による組み立てはたしかに抽象的作業である。だから、もちろん実体としての素材はなくともなんとかなる。 かといって、抽象化された状態の素材すらなければ、何も加工できないし、組み立てられないのは、実体をもつモノでの創造となんら変わらない。 組み立てられた全体が

言葉と他者

言葉というものを信じすぎてはいけない。言葉だけで何か定義しようとするのは現実的ではない。 言葉はとにかく曖昧だ。 人によっても取り方は変わるし、同じ人でも状況によってどう解釈するか、どういう意味で使うかは変化する。だから、言葉だけで議論するとき、議論する同士が相手がどのような立場でどのような意味で言葉を発しているかを配慮しない場合には無意味な言い争いにしかならなくなる。 言葉の扱いに配慮するということは、他者に配慮することに他ならない。自分とは違う他者というものを前提に「確

結合を結合できない

やっぱりね、という感覚であると同時に、この読み解きができてしまう高山宏さんはやはりすごいと唸る。 ここ最近、きっと見つかるだろうと思っていたものが『殺す・集める・読む』のなかのこの一文に集約されている。 関係と社会、そしてそれを反映する言語の曖昧化という広い意味で「膨満(インフレート)」する世界を前に、そういう空気を「抜く(デフレートする)」時代がやってくる。かつて王立協会がやったインフレ世界への中央中枢への介入を、1920年代にマクロ経済の用語でケインズがやったのだと