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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2018年6月の記事一覧

見えないもののデザイン

見えないものをデザインすること。 見えないというか、とりわけ人間のやることのデザイン。しかも、いわゆるUXとかをデザインすることではなく、ルーティンなオペレーションのデザインでもなく、多くは一度きり実行されることのデザイン。 例えば、プロジェクトのデザインであり、その中の小さなタスクのデザインだったり、はたまたワークショップのデザインだとか。 そういうもののデザインも結局はデザインだから、うまく考えてデザインしないと、どれも良い感じには動かない。機能しない。これぞという目

言語の減圧力

これはなるほどだ。 言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。 連日、紹介している中井久夫さんの『徴候・記憶・外傷』からの引用。 言語は世界を減圧する。 言語がバリアにならなければ、人は世界の圧力に押し潰されてしまうのだろう。わからない=うまく言語化で逃げられない対象を、人が避けたがるのもそのせいに違いない。だから、言語にならないものは見ないふりをする。言語化されているものは言語

すべることば

プロジェクトを成功させるために絶対不可欠なもののひとつは「そのプロジェクトは何のために行うのか」を明確にして、プロジェクトメンバー間で共有を行うことだと思っている。 目的が明らかでないのに、どうやって何をやるかが決めたのだろう?と不思議に思うプロジェクトがおそらくたくさんある。やることが目的化してしまっていて、何故それが必要なのかが議論されないので、やることの品質を評価できない。どんなにがんばっても、何をもって「うまく言ったね」というつもりかが不明瞭だから、プロジェクトがう

メタ世界

日常語、常識的な知、安心感のある見覚えしかない環境や新たに記憶する必要もないルーティンな出来事。 そうした要素によって作られた日常の生活の向こうには、また別の世界がある。 別の世界、といっても、死後の世界とかそういった類のものではない。 ここでいう「別の世界」とは、日常的な知覚が精神安定のためにあえて排除している意味や価値の不確かなものの世界のことだ。つまり、本来的にはいまここにある同じ世界である。 もの自体はいつも同じように存在していたし、いまだ存在しないものの気配でさえ

徴候と予感

僕の仕事は、ドキュメントに残らない。 いや、普通ならコンサルティングの人たちがやりそうな、企業の課題を、コンサルティングとは違うアプローチで解決することを目指すという仕事柄、それなりにちゃんとドキュメントはつくる。 でも、そこに僕の仕事があるかというと、違う。 一番の核になる部分は、そこには残らない。なぜなら、そこに書かれたことが形成される過程そのものを形成するところに僕の仕事の本質はあると思うから。その過程を制御しつつ、適度にノイズも取り込みながら、ドキュメントに書か

細やかな事物

ちゃんと丁寧に考えることがなんとかできて良かったと思う。 ちゃんと丁寧に、安易なわかりやすい答えに欺かれることなく、何故?を問うことを必要なだけ行い、あ、そうかと心底感じられるところまで、何故、何らかの行動を起こす必要があるかを明らかにした上で、本当に行うべき行動の計画を立てる力がどうにかこうにか自分にそれなりには備わっていて良かったと今日は思った。 その力さえあれば、困難な問題を前にしてもなんとか光を見つけることはできるから。 答えはすぐに見つからなくても、適当な答えに

形態的類似

カルロ・ギンズブルグの『闇の歴史』がおもしろい。 中世から17世紀にかけてのヨーロッパにおいて、無数の人々が参加者として告発され、裁判にかけられて刑に処された、魔女崇拝の集会であるサバトという、実際には行われたかが定かではない集会が、それなのに、何故さまざまな地域や時代において、ほぼ定型の内容のものとして罪人の告白として裁判記録に残っているのか? また、その内容はどこでどうやって定型化されたのか? 主に、罪を裁く側の視点での記録しか残されておらず、裁かれた側からの記録が残

思考の土台

21世紀になっても人びとの、わからないことへの対処はとにかくオカルト的になりがちだ。 いま読んでるカルロ・ギンズブルグの『闇の歴史』という本に14世紀のフランスにおいて、ハンセン病患者とユダヤ人が共謀して、貯水槽や井戸や泉に毒物を散布したという嫌疑がかけられ、罪に問われた件が話題にされている。とにかく、歴史的には、嫌疑をかける側の証言ばかりが残ることになるわけだから、本当の事の次第を読み解くのがむずかしく、その事自体が歴史の真実を隠し、それゆえに冷静なはずの歴史家までもがオ

黄昏

もやもやする、という言い方が嫌いだ。もやもやしてる状態を嫌うような姿勢が感じられるからだ。 という僕自身は、つまり、もやもやした状態が嫌いどころか、歓迎したいくらい好みだ。なんだか腑に落ちないものがある状態、気持ちが晴れない状態こそ、チャンスがある。違う場所に足を踏み入れるチャンスがあると思うからだ。 黄昏が「誰そ彼」であることを示すように、夕暮れには人の姿が見分けにくくなり、表情や輪郭はぼやけてしまう。人間と亡霊の区別もつけがたい。世界が薄明のなかに沈んでしまうことで