やさしい坐禅のすゝめ
多くの人々と共に坐禅を親しみたい、
1999年生まれ 曹洞宗僧侶 真成(しんじょう)です。
−頑張らない「坐禅」
一度きりかもしれない坐禅体験
日本人であっても坐禅を1度もせずに生涯を終える人もいるかもしれません。
そもそも日本人だからといって、お寺や指導者の下で坐禅をする機会はそうそうありません。
だからこそ坐禅と出会ったとき、貴重な1回が決して苦い思いだけではなく、少しでも味わい深い豊かな体験をしてもらいたいと思います。
無理矢理坐らせるよりも坐禅の良さを体感してもらい、自(おの)ずから坐ろう、また坐りたくなる体験を共に味わってもらう
そしてそんな坐禅を少しでも多くの人と共に親しみ、分かち合うことが、坐禅に出会い、坐禅に救われた私の願いです。
坐禅とは
坐禅というと足を組み我慢して長時間坐ることに加えて、坐禅している中でうとうとしていたら木の棒で叩かれて辱めを受けることができる、そんな素敵なオプションがついた古来から伝わるSMプレイの一種
坐禅にネガティブな印象が強い人や、偏見強めなChat GPTにはこのように見えているのかもしれません。
しかし禅の先人の言葉をみる限り、どうやら残念ながら坐禅の内実は違うようです。
意訳
いわゆる坐禅とは段階を踏んでメソッド的に習熟していく(禅定:心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達する)ことを目指す坐りではなく、ただ寛(くつろ)いで、自分自身に落ち着いていられることである。
意訳
ただ、この(曹洞宗)の坐禅は、全てを休息して寛いで坐るものである。だからこの坐禅とは家にかえって穏やかに寛いで坐るようなものである。
坐禅は頑張るものというイメージとは正反対な坐禅ではないでしょうか?
この「やさしい坐禅」を多くの人と味わうことこそが僕の生きがいであり、生業(ライフワーク)なのです。
そしてこの寛ぎの時間こそ、不安定な時代を生きる現代人のすべてに勧めたいと思う坐禅であり、1日のうちのほんの1分でも5分でも、その短い時間があなたの残りの23時間何分を豊かにするものだと感じています。
仏教を思想として、博物館で展示されている古い化石をみるように扱うのではなく、2500年前から国を渡って伝わってきた生きた仏教というのを現代の人にも、自分自身のつま先から頭のてっぺん、このフィジカルで味わって体験していただきたいのです。
坐禅落第生のための坐禅
私はそもそも寺に生まれ育ちながら坐禅が嫌いで苦手な「坐禅落第生」でした。なんでそんなにきつい姿勢で坐り続けなければならないのだろうか。修行の時は無理にでも坐らないといけないのか、、と、僧堂での修行生活というXデーをビクビク恐れていました。しかしそんな中、大学2年の春に大きな転機が訪れました。
仏教を通じて仲良くなった友人に誘われて行ったお坊さん、藤田一照さんの坐禅会が僕の坐禅観を大きく変えてくれました。
その日がなければ今こうしてnoteを書くこともなかったでしょうし、一生坐禅が嫌いなお坊さんであったと思います。
本当に感謝しかありません。。
ろくに仏典に触れることなく遊び呆けていたので、先ほど引用した道元禅師の言葉も一照さんの坐禅会で初めて耳にして(大学の授業で聞いていたのかもしれませんが、全く聞く耳を持っていなかったのでしょう)、衝撃を受けたことを今でも思い出します。そこで出会ったのが入念な身体ほぐしから行われる坐禅でした。
それまで経験していた坐禅とは、全く別物で人生で味わった最も豊かな坐禅でした。
その日以来、僕の坐禅の根底にはいつも一照さんイズムが流れている訳です。
話を戻しますがそんな身体を入念にほぐすことを入り口とする坐禅こそ、僕にとって坐禅落第生のための坐禅。国境をも超える現代人のための坐禅。
タイトルにもしてある「普く勧めるやさしい坐禅」です。
ととのう×身体×坐禅
サウナではなく、坐禅でいう「ととのう」は、伝統的に坐禅をしている際や、その前から絶えず立ち戻るべき3つの基本「調身・調息・調心」です。
自分より外に模範回答がありそこに近づけていくのではなく、その場その場で自己の心地よさを基に坐禅ができる「身・息・心」の在り方に調(ととの)えること。
それは身体が調えば自ずと息が調い、そして心が調う、そして身体がととのい、、、
と絶えず深まりを増していく円環関係です。
ピアノに調律師がいて、ギター奏者の方が演奏前にチューニングをするように、現代人が「安楽の坐禅」「万事休息の坐禅」「寛ぎの坐禅」をするにはそれにふさわしい調律(チューニング)をすることになります。
身体、息、心を「調律」、「チューニング」することで、
安楽、万事休息、寛ぎという「調和」のとれた在り方になります。
不自然な緊張や在り方を手放して、解いて、緩めていけば、悟りないし気づきは結果として向こうからやってくるものと解釈しています
坐禅の作法は伝統的には姿勢を正して足を組んで(調身:結跏趺坐、正身端坐)、右手の上に左手を置いて親指同士がくっつきそうでくっつかない形を作り(法界定印)、左右に揺れ(調身:左右揺振)、大きく息を吐いて(調息:欠気一息)から自然に入ってくるかすかな呼吸(調息:鼻息微通)に耳を傾け、そして思量を停止、休息する(調心:非思量)。
しかし、これをやろうにも実は多くの人がファーストステップである「姿勢を正して足を組んで」の部分で、柔軟性の欠如など様々なフィジカルの問題で「寛(くつろ)ぎ」とは無縁の姿勢になってしまうのです。そして私には坐禅はできないと自分を諦めてしまい、新たな「坐禅落第生」が爆誕してしまうのです。
床が主体の生活を送っていたのならばその段階は素通りできたかもしれませんが、椅子主体で身体の使い方も違う現代人にはいきなり大きな壁にぶちあたります。
普段デスクワークが基本の現代人が何の準備もなしに、足を組んで約40分坐ることに加えて、うとうとしていたら木の棒で叩かれて辱めを受けるというのは落ち着いて自己と向き合う時間どころか、到底落ち着きとは程遠い我慢勝負の苦痛の時間になってしまうのです。
「頑張る」「苦しい」「息が詰まる」「緊張」「しかめっつら」
から
「頑張らない」「安楽」「息が通る」「ゆとり」「微笑み」
しかめっつらのスパルタ修行集団ではなく、微笑みのある楽しい修行であるからこそ、お釈迦様の周りにはその教えを親しむ人が集まったのだと私は思います。
そしてこれらへの言葉の転換こそ、僕が勧めるやさしいの坐禅のキーワードです。
修行はたのしいものである
修行が楽しいものなんて言ったら、修行は厳しいから意味があるんでしょうなんて言われてしまいそうです。もしくはよほどのドM気質かと疑われるかです。
修行には確かにそういった側面もありますが、私は仏教とは決して厳しいことをしなければ何かを得られないという「No pain, No gain」の枠組みの世界観ではないと捉えています。
『維摩経』の一説にはこうあります。
意訳
あなたたちはすでに仏教を学ぶ心を起こしました。仏教は面白いものです。あなたたちも仏教を楽しみなさい。
私もかつては仏教の修行は厳しいものであるから価値があるのだと認識をしていました。しかしそうではないからこそ、仏道修行とは万人に勧めることができる営みなのだと今は思います。
そして再び登場しますが、私が尊敬する曹洞宗の僧侶の藤田一照さんは、ベトナム人僧侶でマインドフルネス瞑想の第一人者であるティクナットハン師にこのように言葉をかけられました。
ついつい受験生マインドで頑張り癖がついている僕にゆとりを与えてくれる、そんな素敵な師の言葉を引用してまとめとします。
自己紹介
ご挨拶が遅れましたが、最後に簡単に自己紹介をさせていただきます。
こんにちは
1999/寺生まれ寺育ち 蘆月真成(あしづきしんじょう)
お坊さんです。
新学期には毎回先生を困らすことができるという、初見殺しの珍しい名字です。
容易に想像できるように、この名字のおかげ(せい)で、計らずとも多くの初見を殺してきた罪深名字です。
これまで殺してしまった初見の数は、これまで食べたパンの枚数を覚えているか?
というジョジョに出てくる名言のように、到底数えきれません。
私は静岡県の東部
小山町竹之下という自然に囲まれた場所にある宝鏡寺の二男として生まれました。
二男であることから家を継ぐ必要もない
お坊さんになる必要もない
好きなように生きなさいと住職である父に言われ育ちました。
それなのにも関わらず私はお坊さんになりました。
それはこれまで散々語ってきたように、仏教そして坐禅の魅力をこれからの人生を賭けて発信していこうと思うからです。
今の自分があるのはたくさんの素敵な友人、先輩、後輩、先生、大人あってこそです。
そんな方々のつらいときに支えとなり、誇りとなれるように今日も変わらず寺の掃除と、対面だろうとメタバース空間だろうと坐禅の参究に勤しもうと思います。
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