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地元の祭が無くなるということ

こんにちは。

8月になってしまった。
しかも、もう3日も経ってしまった。
時の流れが年々加速していくのを感じる。
いや、本当は加速なんてしてなくて、僕の体感が変化しているだけなんだけど。
これが…老い…?

あと、やっぱり暑いよね...。
セミも元気に鳴いてます。

毎年この時期になると、多くの地域でお祭りが開催される。
日本の「夏祭り」の文化は、季節を代表する風景だ。
老若男女問わず、昼間から浮足立ち、夜中までともに騒ぎ、飲む。
お祭りの風景は、古来から日本人の精神を体現してきた。

民俗学では「ハレ」と「ケ」という概念がある。
「ハレ」は神事や祭礼などの非日常的な場面を指す。
一方「ケ」は普段の生活…日常を指す。
夏祭りはまさに「ハレ」の日だ。
活気に溢れ、ときには騒乱も起こる。
しかし、そうして人々は魂のエネルギーを補充して、また日常に戻っていく。
人間が人間らしく振る舞うために、お祭りの活力は欠かせないのだ。

僕の地元にも、誇るべき美しい夏祭りがある。
いくつか挙げよう。

秋田市のお祭りといえば「竿燈まつり」が有名だ。
市内の大学生も参加しているらしい。
活気があって大変良い。

横手市の「大曲の花火」も美しい。
日本各地から観光客が来てくれるので、それも嬉しい。
実は、まだ見に行ったことがないので、いつか生で見てみたいのだ。

そして僕の故郷、能代市は「能代役七夕」というお祭りがある。
そこで「天空の不夜城」という巨大な城郭灯籠がお披露目される。
この迫力はすさまじい。
青森のねぶた祭りに負けるとも劣らない勇壮さだ。

夏の夜を彩る鮮やかな灯り。
人々が向ける感嘆のまなざし。
こどもたちの泣き声、笑い声。
地元の愛すべき風景が、そこにある。


……今年までは。

一つ、悲しいニュースが入ってきた。

「天空の不夜城」と並んで開催される、もう一つのお祭り。
「能代こども七夕」というものがある。
ここでの主役はこどもたち。
地域の未来を担ってくれるであろう、若く純粋な魂が震える日だ。

こどもたちの流行りを取り入れた灯籠はカラフルで、
また一味違う雰囲気を呈する。
ずらっと屋台が立ち並び、こどもたちは欲求のままに親を連れ歩く。
「あれが食べたい、これが飲みたい、それが欲しい!」
親の財布の紐も緩くなっていく。
中学生、高校生くらいのこどもたちは、親の制約なく街へ繰り出し、
友人や恋人と喧騒に混じる。
一見するとカオスだが、しかし間違いなく、そこには若き生命の活力がある。

こういう景色が、もう、見られなくなる。
正確には、全面的に終了するわけではなく、別の方法で存続できるか模索していくそうだ。
こうした問題の背景にあるものは少子高齢化。
お祭りに参加する人も、運営する人も、少なくなっているのが現状らしい。
正直に言って、かなり寂しさを感じる。
ただ、こうやって憂いている僕自身もまた、進学、就職のために地元を出たので、
あまりとやかく言える立場ではないのだが。


文化が一つ終わる、というのは、どういうことなのだろう。
継がれてきた伝統が終焉すること。
守られてきた価値が消失すること。
人々の記憶から忘れられてしまうこと。
パッと思いつくのはこういうことだけど、もっと複雑なのかもしれない。
あるいは、ただただ消えて無くなるだけなのかもしれない。

文化が消えるとき、僕たちは何を失い、何を得るのだろうか。
おそらくは、記録されてこなかった「失われた文化」が、
日本の古層には大量にあるはずだ。
そういったものに目を向けることは、先人の感情にアクセスする契機だと思う。
いつか、「能代こども七夕」が、そういう役割を担う日が来るのかもしれない。

ただ、願わくば、
いつか自分の子どもを連れて、屋台のわたあめを買ってあげたいな、と思う。

さようなら!

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