同時多発的『がんばろう』の謎
医療系の研究施設で働いている。場所がら震災の被害は甚大であった。普段の生活は消えたのである。あれから2ヶ月足らず。以前の生活に戻りつつあるが、爪痕はそこらに溢れている。普通に海の写真を撮りたくて、早朝に出かけたが、未だに通行止めで近づけなかった。
震災の爪痕は破壊の痕跡だけではない。心が病んでしまった人もいた。職場でもオーナー側で1人が休職することとなった。本社でも鬱で1人が退職するという話を聞いた。幾度とお世話になった総務部の空課長である。地震のあとに僕へ励ましのメールを送ってくれていたのにだ。
『がんばれ!がんばれ!がんばれ!』。この一文で励ましのメールは締められていた。心に病を抱えている人にとっては、きつい言葉である。僕が鬱だったらどうしてくれよう。そう思っていたのだが、まさか空課長が病んでいたとは。もしかしたら課長からのSOSだったのかもしれない。
そう思うと、街中に溢れた『がんばろう』には心配も寄せてしまう。もしかしたら、あれはSOSなのではないかと。
僕は生物学が好きだ。とくに免疫学や遺伝子工学あたりの話には惹かれている。ロジックがおもしろい。基本的にはドミノ倒し。複雑なピタゴラスイッチをそこに感じてしまう。
細胞は常に自己を表現している。体から手を突き出し、内なるタンパク質を掲げているのだ。掲げているものが、外来由来のものだったら消される。ウイルスに感染していたり、癌細胞になっている可能性があるからだ。
細胞表面に提示されたタンパク質。それと街のお店に掲げられた『がんばろう』が同じに見えてしまう。もちろん目的は皆で頑張って復興しようという意気込みだろう。励ましであり、決意表明でもある。
けれどもお店のSOSにも見えてしまうのだ。体力的や経済的、もしかしたら心の病的なのかも知れないが、弱っている自己を表現しているようにも見える。空課長がそうだったようにだ。
もしもそうならば、街はまだまだ弱っているのだろう。街はお店の集合体だ。細胞が集まって生物個体を組織しているように、街はお店が集まって組織されている。同時多発的に『がんばろう』が掲げられたお店が集まって組織された街は、ひどく弱っているように感じた。
この解釈があっているかどうかはわからない。けれども不思議な現象だと思う。とりあえず僕は写真に収めておくことにした。あとから考え直すこともできるからだ。
用意したフィルムは複数本。全部で100shotは撮れる。僕は自転車で街に向かった。目に入る『がんばろう』をすべて撮ることにしたのである。
街に着くまでの『がんばろう』も撮った。街についてからは徒歩で撮りまくった。手書きのもの、無機質に印刷されたもの、デザインされたもの、大きいものから小さいものまで。可能な限り撮りまくった。
『がんばろう』の言葉を追いかけていたが、微妙に違う言葉もあった。『がんばれ』。『がんばる』。すこしの違いだが意味は変わってくる。一体誰に向けての言葉なのだろうか。僕は、書いた自分に向けての言葉のように思えて仕方ないのである。
終盤で見つけた言葉が印象的だった。『地震になんか負けない』。やはり自分に向けての言葉なのかも知れないと思った。
結局、『がんばろう』の写真は80枚くらい撮れた。余ったフィルムは帰り道の途中にある神社で消費することに。奇しくも桜が満開である。青空をバックに石の鳥居と鮮やかな桜。67中判リバーサルが得意な場面だと思う。とてもきれいだった。
僕の被災地の写真は撮り終えたと思う。破壊の痕跡よりも『がんばろう』の写真の方が僕にとっては興味深かった。もちろん数枚はお気に入りの写真となった。誤解を恐れずに言えばきれいだったのである。限りなく自然風景とも思えたからだ。
そろそろ地震と関係の無い写真を撮りたい。桜の写真は本当によかった。復興の邪魔にならないところから攻めていきたい。いろいろと試したいことも溜まって来た。僕の写真は止まらないのである。