僕がnoteを書く理由はそこにnoteがあるからだ

どうも、タモツです。

1週間ほどnoteを毎日書いてみた。おかげで楽しい日々を過ごさしてもらった。そろそろ固定記事も欲しくなったので、自己紹介というものを書いてみようと思う。

とはいえこのアカウントの文章はフィクションを謳っている。その意図は楽しく書くためだ。ノンフィクションに拘って表現を狭めてしまうくらいなら、部分的にはフィクションでも構わないと考えている。

もちろん文章のコアな部分は実体験に伴うものだが、そことフィクションの境界にもあえて線を引かないでおこうと思っている。めんどくさいからだ。すべてがフィクションと思ってくれても構わない。表現したいものが読者に伝われば、それがフィクションかどうかは些細な事だ。それならば僕の自己紹介も必要ないだろう。理想は詠み人知らず。憧れる作者名だ。

その代わりに僕なりのnoteを書く意味を紹介しておこうと思う。

結論から言うと、僕がnoteを書く理由は、そこにnoteがあるからだ。かっこよく聞こえてしまうが、決してそれを狙ったわけではない。手垢のつき過ぎた薄っぺらいセリフにも聞こえるが、そこにはしっかりとしたロジックがある。

そもそも何かを書くということは、思考の出力を伴う作業だ。今風に言えば情報発信。意識高く言い表せばアウトプット。その目的は人によって様々だ。千差万別。十人十色。そこに正解や不正解は無い。

誰かに何か伝えたくて書くこともあれば、自分用の記録として書くこともあるだろう。目的は多種多様なのだ。だからかその目的の理由を後付けしたとしても違和感なく収まってしまう。

人は合理性に惹かれる生き物だ。非合理で動く自分はゆるせず、合理的と思える理由を後からつけてしまうこともあるだろう。そこから逆説的に考えれば、もしかしたら書くということは極めて非合理と思えることなのかも知れない。

一台のパソコンを世界と考えたとき、そこに住む人類はどのパーツに当てはまるのだろうか。そう問いたとき多くの人はCPUと答えるかもしれない。

CPUとは中央演算装置のことでパソコンの脳であり中心とされるパーツだ。高い思考能力を持った人類はそこを担う存在だと考える人が多くても不思議ではない。

けれども実際はどうだろう。赤ちゃんはよく何でも口に入れたがるが、あれは未知のものを調べて情報を収集しているのだという。片や知ってることを誰かに教えたくなる衝動は誰もが持っているものだろう。

外に情報があれば取りに行く。内に情報があれば出していく。つまり見方によってはただの記録装置にも思えてくるわけだ。

そう考えれば本を読む目的も問えば様々な答えが返ってくると思うが、本質的には「そこに本があるから」に行きつくかもしれない。

察しの通り『僕がnoteを書く理由はそこにnoteがあるからだ』という言葉の意味もそれと同じなのである。そこには人が思い描く合理的な意味合いはない。あるのは本能的な行動原理のみ。報酬は脳内における麻薬物質の分泌。だからこそ書くということは単純に楽しいのだと思う。noteの運営を「いまはじめたいこと」へ昇華した理由もそこにある。

そんな書く場所を提供してくれているnote株式会社様には本当に感謝しています。(すりすり)

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