リアルはすぐに僕から消え失せる【ショートショート#22】
なぜあのときそう考え、そう感じ、そうしてしまったか、僕には既に分からない。いつもそうだ。
二日前、成美とモールの中にあるタリーズでコーヒーを飲んでいた。
成美は、会社の上司からパワハラを受けていると言っていた。僕はその話に興味が持てず、相槌すら打てなかった。いま思えば、聞いているふりでもいいから、うんうん、と頷いていればよかっと思う。
しかし僕は、そうしなかった。それどころか、成美が話している最中にその場からいなくなり、トイレへといった。別に用を足したかったわけではなかった。ただ、気づいたら身体が勝手に動いていたのだ。
トイレから戻り、席の方を見ると成美はいなくなっていた。どきりとする。自分がとってしまった行動を後悔する。
急いでテーブルに戻り、成美が居た席の周りを確認するが、成美の荷物は残されていない。胸が締めつけられる。すぐに携帯に電話をするが、電源が入っていないとメッセージが流れる。
僕は落ち着くために、席につき、飲みかけの冷めたコーヒーを一口飲む。美味い不味いは関係なく、コーヒーの匂いや苦味が、僕を世界に繋ぎ止める。椅子に深く座り直し、背もたれに身体を預ける。
ふと、ブログのことが気になる。毎日夜に更新しているブログのネタを考える。今さっき買った、村田沙耶香の本のことでも書こうかなと思い、僕はパタゴニアのバックパックから本を取り出し、読み始めた。
気づくと、コーヒーを飲み終えてしまっていた。僕はコーヒーカップの底のほんの僅かなコーヒーを眺め、テーブルに残されている、もう一つのカップに手を伸ばす。半分以上入っているコーヒーを一口すする。
カップの反対側には口紅の跡がある。「ああ、成美は、確かにさっきまで、そこにいたんだ」と安心する。
僕にとって過去の出来事は、本当に自分が経験したことなのか、ただの思い込みや妄想ではないのかと、確信が持てなくなってしまうときがある。出来事は過ぎ去った瞬間に、突然リアリティがなくなってしまう。
僕はカップに残された口紅を見ながら、心の痛みを探す。しかし、もう、どこにも見当たらない。成美とともにどこかに消えたようだ。
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