たもさん。@tamootsu

コーチング。自分ひも解きセッションを生業にしています。興味のある方は連絡ください。 ネ…

たもさん。@tamootsu

コーチング。自分ひも解きセッションを生業にしています。興味のある方は連絡ください。 ネガティブ・ケイパビリティを生きる。

最近の記事

夜明け前のスロージョギング。アスファルトを踏みしめるジャリジャリという音が心地いい。

この時代に生きる人間はやれることが多い。そして出会える人間が多い。むかしでは考えられないような距離を誰もが簡単に移動もできる。インターネットを使って遠くの人ともつながれる。自分の作品や意見を気軽に世界に発信もできる。 ひとむかし前では特別な人間しかできなかったようなことが、誰しもスマホひとつで、片手で、指一本でできてしまう。すごいと思うことが当たり前になったこの世界。 オレたちはそのお陰で幸せになれたのか?苦しみは減ったのか? 便利になったとは思うが、人類が幸せになれたと

    • 「コンビニ人間」を読むと癒される。オレは主人公の恵子に共感すると共に憧れる。

      どうしてオレは「コンビニ人間」という小説にこれほどまでにハマっているのか。 オレの偏ったこの小説に対する解釈を言語化しつつ、同時に自己探究もしてみようと思う。 主人公の恵子は“コンビニ人間”というプログラムを完成させ、それを自分にインストールし、完全に自動化したロボット(コンビニの歯車)として完璧な存在となっている。(この小説でそんな説明は一切ない。オレの独自の解釈だ。下記につづくものもすべてオレの勝手な解釈に過ぎない) 彼女は自分を“コンビニ人間”として創り上げ、コンビ

      • 「同じ河に二度入ることはできない」ヘラクレイトス。朝ジョギングしていて思った「人生は片道切符の循環だ」

        紀元前540年前、ヘラクレイトスという人が「同じ河に二度入ることはできない」と言ったらしい。思うに、いま目の前に流れている河の水は流れ去り、まったく違う水になっている。河に入りじっとしていても移ろいでいる。同じところにいるようで一瞬たりとも同じではない。 人間の身体を河に喩えるなら、身体に入っては出ていく水分、空気、食べもの。一瞬たりとも同じ身体でいることはない。河も身体も循環しているが一回きりの一方通行で同じ状態は二度とない。一期一会である。 しかし、その河に何度も入る

        • 朝散歩をはじめてから午前中は身心ともに調子がいい。憂鬱な気分も短時間でいつの間にか消えているような気がする

          朝の全力散歩をはじめてから午前中は身心ともに調子がいい。とくに散歩にスロージョギングの時間が増えてきてからは、憂鬱な気分も短時間でいつの間にか消えているような気がする それに加えて、日の出前の早朝はマジックだ。どんな風景も凛とした静けさと、冷んやりとした澄んだ空気と、夜明け前の暗闇が世界を特別なものにする。日中では味わえない異次元の世界だ。オレはそれに魅了され夜明け前の朝散歩がつづいているような気がする。 このふたつがオレの身心に変化を与える。 とはいえ、人生に対する考

        夜明け前のスロージョギング。アスファルトを踏みしめるジャリジャリという音が心地いい。

        • 「コンビニ人間」を読むと癒される。オレは主人公の恵子に共感すると共に憧れる。

        • 「同じ河に二度入ることはできない」ヘラクレイトス。朝ジョギングしていて思った「人生は片道切符の循環だ」

        • 朝散歩をはじめてから午前中は身心ともに調子がいい。憂鬱な気分も短時間でいつの間にか消えているような気がする

          オレにとって〈人間がめんどくさい〉とは

          オレはいろんなことが“めんどくさい”とすぐに思ってしまう。 そしてそれは生きていくことがめんどくさいとなる。 どんなときに“めんどくさい”が発動するのか考えてみた。 人と自分と比べたとき、人の目や反応を気にしたとき、過去の自分と比べたとき、先(未来)のことを考えたとき、こんなことがこれからも続くかも知れない、また起こるかも知れないと思ったとき、自分の中の「〜すべき」が出てきたとき、特にそれを人に強要したくなったとき、イラついたりモヤついたとき、自分という人間に“めんどくさい

          オレにとって〈人間がめんどくさい〉とは

          得体の知れないものについて書いていたら、その日のうちに答えに近づくヒントがあらわれた【カミュとサルトルの間で右往左往する】実存は本質に先立つ

          オレは深い無意識のところで意味や目的をいつも求めている。それは自分ではどうしようもなくいつもうっすらと感じる。しかしそれが実際に何を意味しているのか、なぜそんな得体の知れないものに執着してしまうのよくかわからない。 ここでいう意味や目的は、辞書を引くと出てくるような額面どうりの意味を指しているのではない。得体の知れない何かである。言葉にできない微妙な感覚で、一番それらしいものが意味とか目的という表現になってしまう。 そしてその得体の知れないものがオレを苦しめる。得体の知れ

          得体の知れないものについて書いていたら、その日のうちに答えに近づくヒントがあらわれた【カミュとサルトルの間で右往左往する】実存は本質に先立つ

          さすらわず、さまようひと

          朝散歩をするために玄関を開ける。外はまだ暗い。外の温度を感じる。 空を見上げる。どんよりとした雲が立ち込めている。地面は濡れている。 鳥の短い鳴き声が合唱となって聞こえる。砂利の駐車場を通り道路に出る。 道路の反対側へを小走り横切る。車はほとんど走っていない。信号はあるが守らない。 臨機応変にいこう。車があきらかに通っていないのに、田舎の横断歩道で信号待ちをするほどオレは教育に洗脳されていない。それでも若干の後ろめたさを感じるのは、教育の呪いというしかない。 クソみたい

          さすらわず、さまようひと

          いかにアウトプットをするかを考える

          最近は“いかにしてアウトプット”をするかを考えている。 インプットも大切だけど、オレはアウトプットの方を重要視している。だからアウトプットの質やバリエーションを増やしていきたいと考えている。 オレのアウトプットの常套手段は、新しく学んだり、本を読んで知識を手に入れたり、何か気づきを得たらまず真っ先に妻に話すことだ。 これは意図的にやっているわけではなく、話したくてしょうがなくて話している。止めることのできないオレの衝動だ。だからときに妻はオレの話をうるさそうに聞いてくれて

          いかにアウトプットをするかを考える

          すべては移動しているだけ。そういう世界観で世界を見てみる。

          車はオレを乗せ家からスーパーに移動し、お金はオレの財布からスーパーのレジの中に移動し、野菜はお店の棚から我が家の冷蔵庫に移動する。 野菜は畑からお店、我が家の冷蔵庫を経てオレの胃袋に移動し、トイレに流される。 水は太陽に温められて海から蒸発し雲になり移動し、山にぶつかり雨になり地上に移動し川になる。地表に移動した水は植物に吸収され実に移動し、それを動物が食べ腸で吸収され血管を流れ細胞に移動し、吐かれた息と共に水蒸気として体外へと移動し、風に乗り遠くへと移動する。 太陽のエ

          すべては移動しているだけ。そういう世界観で世界を見てみる。

          妻に髪型を預ける

          妻はオレの坊主頭から伸ばしっぱなしになっている髪型が気に入らない。とくに後ろから見たときの襟足が鬱陶しいみたいだ。 ことあるごとに「髪を切れ。髪型がカッコ悪い」と言ってくる。確かにその通りだと思う。自分では直接見ることができないからよくわからないが、なんにとなくの想像はつく。 そんなときふと思うことがある。 「オレの髪型は誰のためのものなんだ?」と。 妻にはオレの髪型を否応なしにしょっちゅう見ることになる。逆にオレは自分の頭に付いている髪型を見ることはあまりない。後ろか

          妻に髪型を預ける

          「わたし」というモノがないと考える

          オレはよく自分というものにがっかりしたり、うんざりしたり、残念に思ったりする それはやさしくなかったり、理想とずれていたり、一貫性がなかたり、ありたい自分でなかったり、心が狭かったりしたときにあらわれる。 それらのほとんどが誰かと比べての自分への残念さだったりする。 あの人だったらこんなふうにはしないよな(オレにはできない)とか。 あとは、それとわかっていてもそうできない自分への不甲斐なさだ。 少しだけ寛容になればいいだけなのに、心の隅から「こうあるべきだ」という思いが

          「わたし」というモノがないと考える

          感情との付き合い方。感情は身体感覚からはじまる

          イラついたり、不安になったり、楽しかったり、平和な気分になったり、オレたちは生きている限り、いろんな感情を体験する。 できれば不快な感情は起こってほしくないし、楽しかったり、うれしい気持ちをいつも味わいたいと願う。 さて、みんなはこんなことを考えたことはないだろうか? そもそも不快な気持ちとか、うれしい気持ちってなんなんだろう? どうして不快な気持ちは味わいたくないのに、たのしい気持ちを体験したいと思うのか、って。 オレはある体験を通じて、ちょっとだけその深淵に触れる

          感情との付き合い方。感情は身体感覚からはじまる

          自己責任論のウソ!世界に責任なんて本当は存在していない!

          オレはこの世に責任ってものは厳密にいうと存在しないと思っている。 自然界を見てほしい。動物、植物を。彼らはあいつの責任で食べ物にありつけなかったとか、自分の努力が足りないせい(責任)で太陽の光が当たらない、などと思わないだろう。 自責も他責もない。 事実、現実、結果があるだけだ。 たとえばネコが縄張り争いをして負けて痛い目にあったとして、 自分が痛い目にあってのは、自分が弱いからだ、自分の責任だ。自分が悪い。とはならないと思う。 逆に、あいつのせいだ、あいつのせいで自分

          自己責任論のウソ!世界に責任なんて本当は存在していない!

          すべてのものは試行錯誤した実験の結果である

          すべてのものは試行錯誤した実験の結果である。 タンポポは水と養分をよく吸収するために試行錯誤の末に真下地中深くに根を伸ばし、葉は太陽の光を目一杯に受けるために重ならないように開き、花は虫たちに目立つような色に染めあげ、種子は遠くに仲間を増やすために風の強いときにぐっと頭をもたげ、綿毛を飛ばす。 トカゲは鳥や猫に襲われたとき、尻尾を切り落とし身を守る。鳥は空を飛ぶために体を軽くし、ガゼルはチーターから逃げるために高く飛び跳ねる四肢を持つ。 人間は二足歩行になり、体毛をなく

          すべてのものは試行錯誤した実験の結果である

          彼女は身体にうんざりし、オレ精神にうんざりする「肉を脱ぐ」を読んでいる

          図書館で小説を借りて読むのが最近のマイブーム。 ここ数年、哲学や心理学やビジネス書や自己啓発やエッセイばかり読んでいたが、たまたま図書館で目についた村田沙耶香の「コンビニ人間」を読んでから、立て続けに図書館にある彼女の作品を読みまくり、読む本がなくなったから、いまは直観で適当に選んだ小説を読むことにしている。 そこで先日、著李琴峰「肉を脱ぐ」という本に出会った。 題名は好きだけど、表紙は最悪でいつもなら絶対に手に取ることはないと思う。 でもその日は、図書館の中を物色しまく

          彼女は身体にうんざりし、オレ精神にうんざりする「肉を脱ぐ」を読んでいる

          不安や恐れは行動していないから現れる説ならば…

          精神科医の樺沢紫苑氏がYouTubeで「不安は行動をすることを促すために現れる」みたいなことを言っていた。 原始人の時代は不安を感じるときは、身に危険が迫っているときだ。 だからそのままじっとしていては獰猛な動物に喰われたり、敵の部族に襲われたり、食べものにありつけず餓死をする。 そうならないために人間には“不安”という感情を手に入れたのかもしれない、知らんけどw 脳は「このままではやばい、行動を起こさないと命が危険に晒されるぞ」と不安な気持ちにさせ、そわそわさせ、脈を

          不安や恐れは行動していないから現れる説ならば…