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天と地のはざまで

いま地球上に住むすべての「人間」の根源が、彼らにあるわけではない。
彼らはあくまで、一人の「原始人類」から始まった大きな流れの先にある、数えきれないほどの細かい分岐のさらに先に、今も生存する一部族であるだけだ。

それでもありのままの姿を切り取ったこの記録には、私もDNAの一部分に彼らと何かを共有しているのではないかという錯覚を感じさせられる。地球の反対側の、深い深い森のどこかに住む彼らと。

『ヤノマミ』
2010年に刊行された、国分 拓さんのルポルタージュである。

テレビ番組が放映されたこともあるので、そちらを見た方もいるのかもしれない。私は番組のことは知らず、ある友人からこの本のことを聞いてずっと読みたいと思っていた。

少し前に、最寄駅から家に帰る途中の古本屋で、黴臭い本棚に偶然この本を見つけて、迷わず買ってその日に読んだ。

いろいろなことを思い、言葉にできたり、あるときは言葉にならないイメージとの戯れで終わったりを繰り返した。




結局、言葉一つ生み出せなかった。

この本を読んで…というよりヤノマミとして生きる人々のことを知っても、何かを得たり、自分の人生が変わる、ということはないと思う。

それは、彼らと私たちとの間には物理的、環境的、精神世界的にあまりに隔たりがあり、そして、それはこちらから無理矢理に詰めるべきものではない、ということを歴史が証明しているからだ。

イゾラドと呼ばれる人々。そして彼らのための場所がまだ実在していること。それのみに、おそらく人類としての価値があるというだけだ。

狩猟採集によってのみ生き、円の形をした家の屋根の下、血縁による集団の中で生まれ、死んでいく。天と地の間でいくつもの生を経て、やがて虫になって消える定めを持つ、彼らの生を真似ることは資本主義社会に生きる自分にとって、あまりに異質であり悲しいほどに距離がある。

興味が昂じて大学で文化人類学を学んだため、その行動習慣や思想には半端なく想像力をかきたてられる。
財産所有の概念の不在、死んだ者は名前やゆかりの地も含めすべて記憶から葬られ、あとには涙だけが残るという話。そして、生まれたての子を人間として引き取るか精霊として天に返すかという判断を、一人で下す若い女たち。

けれど、国分さんのリアルな文章を前にして、ただ彼らが森に在り、精霊とともに永遠の一年をただ過ごしていくその眼差しを想像するとき、余計な言葉は私の中から抜け落ちていく。

「私たち」側が越境することはあれど、彼らが彼らの領域から無理をして出ていくことはないだろう。
もしかしたら、「私たち」「人類」がつまらない諍いで破滅に向かうとき、彼らだけが生き残っていくのかもしれないし、逆に、彼らがアマゾンの奥深くで消えていってしまうのを、見つめることしかできないような日がいつか来るのかもしれない。
そこにひとの意思があろうとなかろうと、起こることは起こる。それをヤノマミも私たちも、それぞれの言語に置き換えて、言い表して納得するのだろう。

幸運に幸運が重なった結果として、私は出逢ったことのないヤノマミの人々がまるですぐ傍にいるように感じることができる。
この幸運は、私にとってでも、もちろんヤノマミにとってでもなく、「人類」という茫漠とした生物種にとっての幸運である。

私は、宮崎駿の描くナウシカの、「私たちは、闇に灯る一つの光だ」という言葉が好きだ。
アマゾンの奥深くで、1万年の時空を超えて生をつないでいく彼らが、本当に闇にきらめく灯火のように思えてくるのは、きっと私の錯覚ではないのだろう。


*追記
本当にたまたまなのですが、今夜NHKで「イゾラド」というドキュメンタリーが放送されました。
二人きりで発見され、最終的にその言語を話す最後のイゾラドとなった、アウラという男性を追った内容でした。(ディレクターは国分さん)
こちらも大変考えさせられる番組でした。オンデマンドで見られるようなので、ぜひ。

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