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選択/選択/選択/...

私の幼い頃の夢は、「ケーキ屋さん」だった。

まぁこんな夢はありふれていて、実際私が通っていた保育園の1/4程度はそう言っていたのではないだろうか。ちなみにこの夢はいつまで続いたかというと、小学4年生まで。その頃に親に言われた「ケーキ屋さんは厳しいよ」という一言によって諦めてしまった。これもまたありふれた話。親もそれまではずっと肯定してくれていたのだが(それだけでもありがたい話だ)、10歳という節目を迎えたからには現実的な将来を教えなければ、と焦りを感じたのだろう。

ただし、意外とこの夢は引きずっていて、中学時代は毎週末何かしらの菓子類を家で作っていたし、中学3年生の時には教室に貼ってあった製菓学校の募集要項を毎日のように眺めていた。

そんな私の転換点はどこだろう。

そう考えた時に真っ先に思い浮かんだのは、母校(高校)に合格したときだった。

正確にいうと中学2年生にあるきっかけで猛勉強を始めたことなのだが、今回は話さない。というか話すことでもない気がする。

母校に合格して何が一番ドラスティックに変わったかというと、単刀直入に私の志望大学だ。

高校1年生、4月の私は、「地元の〇〇大学に進学してくれれば十分!」という親の言葉を基準に、そこを目指していた。目指すべきゴールはそこしか知らなかった。そこが一番だと思っていた。

しかし、私の担任の先生は、高校1年生の6月、「東京の大学を目指したらどう?」と真剣な眼差しで私に言う。

正直、その時点では雲の上すぎて「はぁ」と気の抜けた返事しかできないレベルの大学。眼中にさえなかった場所。当時の私は「どうせ先生が実績作りたいだけやろ」と疑いつつも、上を目指しておくだけ目指して、ダメそうだったら途中で変えればいいだけか、と妙に自分で納得して、それ以降あらゆる模試で第一志望にその大学を置くことにした。

それからの私というのは、家に帰ったらずっと勉強、土曜日も日曜日も勉強、たまの3時間の本屋が息抜き、年に2回程度しか友人と遊ばないという鬼畜スケジュールで予習・復習・補填勉強をこなすことになった。自分で強いていただけだから別に楽しかったのだが。どうやらこっちの才能はそこそこあったらしい。

そして2年半後の春、私はバビルの塔のようだったその大学に合格したのだった、1点差で。

この経験で大きく変わったことは、3点ほどある。
ひとつ目は、友人に恵まれたことだ。それまで私と同じくらい全力で何かに取り組んでいる、という人はあまり見かけたことがなかった。それ故に「全力で取り組むことを謙遜するふり」ばかりしてたのだが、大学時代の友人は全くそんなことをやる必要がなく、むしろ追いつくために全力で頑張ることが必要不可欠になった。また、人格的にも出来上がっている人たちばかりで、本当の気遣いというものを彼ら彼女らから学んだ(ただ一人地方出身を貶されて大口論をした相手もいたが、それもまた良い経験)。

ふたつ目は、全く手が届かないと思っていても案外手が届くこともあるのだ、ということ。勉強が努力で比較的なんとかなってしまうジャンルだったからかもしれないが、これはある程度の自信につながった。

みっつ目は、必ずしも自分の背中を押してくれるのは家族ではないということ。私は先生に恵まれたのかわからないが、私が自己韜晦する度に「できる!」「あなたが受からなかったらどうするの」とめげずに声をかけ続けてくれたのだった。正直高い目標を設定されて、苦労もあったなと思うが、家族ではそんなことできなかったと思う。大事にするが故に。もし家族のコミュニティだけに縛られて生きていたならば、私はもっともっと小さい箱に収まっていたかもしれない。

というわけで人生の大きな転換点を経験したのだが、この転換点を経たからこそ私は「死ぬ気で努力しないと私の人生好転しない」という価値観を形成し、体に刷り込ませてしまった。今でも足元10cmくらいはそれが蝕んでいるという自覚はある。

ただ、こういうこれまでの人生の擦り傷は、20代のうちにちゃんともう一度同じところを擦らないように気をつけて気をつけて、瘡蓋にしていくものなんだろう。だから、それができるかできないかがひとつ私の人生の大転換点。楽しく生きるか否かの分かれ目。

20代のうちに綺麗な瘡蓋を作った暁には、元気に外に走り出したい。



#あの選択をしたから


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