修正文は誤解を生む
毎日新聞は、人権についてよく記事を書く。昨年日経から毎日に変更した読者としては、正直押し付けがましく感じるときもあるが、あえて自分のバランスを取るために、毎日新聞と契約し続けている。デジタルでもいいんだが、家に来た若者がたまたま、今時珍しいと思うほど、真面目な成年だったし、その後代わった人が、とても控えめだったこともあり、契約を続けているわけだ。
本日(6月20日)付けの朝刊で、ヘイト投稿への地裁の判決が出たという記事を見た。特定の事象ではない広義の意味での「ヘイト投稿」について、私は自分がツイッターや、SNS、あるいは匿名掲示板でどれだけ傍若無人にあるいは、敵意丸出しで、文字通り悪意を込めてやりとりしてしまうか理解しているし、だからこそNoteというのは、blogの延長のような安心感があり、自分に向いていると感じている。
(Noteの本来の目的とは多分違うのだろうが、まぁ、規約違反してるわけじゃないので、構わないだろう)
ということで「自分ごとではないけれど、今後の自戒のつもり」で記事を読んだ。それで記事をさっと読んで、私は予想とは違う意味で驚いてしまった。
以下引用
私は前段階の、差別表現とともにというのが、あまりすっと入ってこない一方で、投稿したとされる文面を見て、これが差別表現とは正直思えなかったため、「これは本当にやりすぎじゃないのか?」と考えてしまったのだ。
元々、男性がこの投稿をしたのは、安田菜津紀さんが、自分の亡き父親が
自分の国籍を隠さざるを得なかった理由を追った記事に対するものである。
特定国籍の人を「嫌う」という時点で、たしかに差別であるが、逆に言うと、嫌わなかったと言えば確実に嘘になるだろう。嫌ったと言うよりも見下していた。あるいは、裏切られたと思った。色々な言い方はあるだろうが、
それを安田さんの父親も理解していたからこそ、あえて出自を隠したのだと思う。
かつてのユダヤ系の人たちへの差別と、似た構図であろう。また、第二次世界大戦中、多くの在米日本人がアメリカで受けた差別と同じだ。「日本人は嫌われていた」これは、一つ一つの個々のケースではなく、全体としての事実だろう。その行為が正しかったか、間違っていたかではないのだ。
もちろん、そんなことで嫌うのは「間違っていた」はずだ。もちろん逆に、○○人だから「好き」っていうのも、同じくらい「間違っている」のだろうが。
個々の人間ではなく、ある特定の集団でくくられる度、集団としての政治的行動により、一部の個人への「好き」「嫌い」につながることはよくある。
そして、おそらくだが、ある一定の期間、少なくとも日本人は、同じアジアの国をルーツにして、様様な理由で日本にやってきた人たちを、「嫌っていた」「見下していた」。実際に触れあえば、そうでない場合も多いのに、
その場合も、せいぜい、「あなたは○○人なのに、好きだ。」というようなことは今でも珍しくないはずだ。
だから、彼が言ったことは、ヘイトと言うより客観的な論評だ、、そう思ってしまった。もちろん、これは私の勘違いである。いや勘違いというよりも、毎日新聞の記者が、そのまま文章を書かずに、あえて簡略化したからこその誤解である。私は、この簡略化と言うか訂正はおかしいと思っている。
おそらく記事になっている男性が実際にした返答=実際の文章を読んで、これをヘイトでないと思う人は、普通存在しないのではないか。これこそ、むき出しのヘイトであろう。吐き気がするようなヘイトだ。
私が今年いっぱいは、購読を続ける約束になっている毎日新聞は、事実を書くときは(もちろん、それが大切だとわかっているはずだろうから)、変な遠慮というか改訂をするなら、もっとはっきりとニュアンスが伝わるようにしないと、全く持って事実に基づかない印象を、逆に与えてしまうと注意して欲しい。
確かに原文を読めば、私でも不快になる。でも、その不快さが伝わらないと、この報道の目的が、逆に働いてしまうと思うからだ。
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