ビジネス優先の罪

人が生きていく上で、資本主義社会は、すべからく「お金が大切」になる。それが正しいか間違っているかはともかく、事実としてこの国は、資本主義国家であるのだから、その事実を認め日々を過ごすのは当然である。

自分が生活する社会の基盤が資本主義である限り、ビジネス=お金を稼ぐことは、必須というわけだ。

(もちろん、お金を手に入れる方法がビジネスだけとは限らないが、真っ当な仕事、いや本当は真っ当でなかろうが、ビジネスでお金を得るのは多くの人にとって、当然の手段であろう。だって普通に生きるだけでも、お金が必要だから)

結果的に、社会全体が、成人同士が合意のビジネスについては、規制が甘くなるのも仕方がないのだろう。自己責任能力があるとみなされる大人が、サービスを受ける対価として、お金を払う。そしてサービスを提供するものはお金を得る。そのサービスの内容がどうであれ、基本的に認めるわけだ。

(金と交換される物が、社会、公共に多大な害をなすと認められない限り、だいたい許されるだろう。もちろん、麻薬、覚醒剤、薬物など、どこまで社会に負の影響を与えるかといいう判断は、ギャンブル等も含め、ゆらぎはあっても、一応法律で決まっている。酒や煙草も、実際のところ間違いなく健康には有害だが、現時点はともかく認めているわけ)

だが、厳しい制限、規制が本当に必要なのは、未成年(まして自分で稼ぐことができないとわかっている)に対するビジネスであろう。提供するサービスの内容が問題な場合もあるが、それよりも、わたしが本当に、大人が責任を持ってどうにかすべきと考えるのが、サービスに支払えるお金を持っていない未成年に「払えるであろうという想定」で、親による同意もなく、あるいは同意を確認できる手段もなく貸し付けて後払いさせるようなビジネスである。 

そのようなビジネスが、規制を受けず普通に存在している事自体、大人として恥ずかしく異常なことであり、それを結局は認めている日本という国家は、どうしようもなく出鱈目な大人たちによって運営されている、誠に恥ずかしく情けない、低俗な国家であろう。

この国の政治家達(彼らこそが、法案を作り審議し、政策として規制ができる)は、もう何年も前から指摘されている、まともな大人なら誰でも、それはあまりにも危険だと考えるビジネスを、規制できていない

こんな事を言うと、すぐに他国との比較を持ち出す人もいるのだろうが、明らかに間違っていることを、他国がどうとか、他人がどうと比べる必要などどこにもない。他の国全てが認めても、悪いとわかっていることを認める必要などない。それでこそ独立国家だろう? 

金がともかく必要な社会では、明らかに有害な商行為であっても、自主規制に頼ることは、ビジネスとして成立している時点で、ほぼ無理なのだ。誰かが自分で戒めても、誰かがやってしまう。結果的に、金さえ儲かればいいという輩、集団だけが残り、焼け太る

だからこそ、国家という共同体が規制するしかないのだが、ビジネスだからと国家がそれを認め、本気で規制しようとはしない。民主主義国家において、政治は国民の総意であるはずなので、つまるところ、責任を持つべき大人たちが全体として、未成年から搾取するビジネスを許容していることになる。

結局、彼らの頭の中は金と欲望だけなのだ。未成年の自主性などといいながら、金儲けさえできれば、金さえ回れば、そして自分達の欲望さえ満たせれば、それでいいという考えは、人間の倫理観をどこまでも低俗にする。そして低俗な大人たちによる民主主義国家は、全てにおいて低俗であるその低俗さは、当然次の世代へと受け継がれていく

だが残念ながら、このように低俗極まりない、ビジネス優先の原理原則が、カジノのための万博や、汚職にまみれた五輪を、様々な問題を抱えているとわかっていても、ひたすら綺麗事で誤魔化し突き進めてしまう日本の政界や財界、そしてそのカネに群がる言論人にとっての原理原則となっているのが、日本という国家の現状であろう。

自民党のパー券疑惑など、その氷山の一角に過ぎない。誰も当人たちは本当に反省などしていない


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