「タワー・オブ・テラー」とは何か、元ネタ映画を通して考える【随時更新】
東京ディズニーシーの「タワー・オブ・テラー」はオープン時、“東京ディズニーシー史上最恐”とかいう親父ギャグを看板にしていた。フリーフォールタイプのアトラクションとして、そして呪いにまつわるホラーストーリーとして、二つの意味で恐いので、まあおかしくはないのであるが。
さて、「タワー・オブ・テラー」は、綿密に練られたストーリーが有名だ。栄華を極めたホテル、大富豪で探検家であったオーナーの突然の失踪、鍵を握るのは呪いの偶像シリキ・ウトゥンドゥ、ホテルを保護しようと働きかけるニューヨーク市保存協会……と、まるで都市伝説のような物語は、一体どこから生まれ、何を伝えようとしているのか?
ここでは、「タワー・オブ・テラー」に影響を与えたであろう映画の数々を元に、このアトラクションが持つ文脈を考察し、ホテルにかけられた呪いを紐解いていきたい。
鍵を握る男:バーナード・ハーマン
具体的に、“「タワー・オブ・テラー」に影響を与えた映画”とは何か。アトラクションの周辺では、ホラー映画やミステリー映画のサウンドトラックがBGMとして流されているのだが、この記事におけるこれらの映画を指している。
そして、その90%がバーナード・ハーマンという人物による作曲だ。
本題に入る前に、彼が音楽を手がけた映画作品を、大きく分けて三つの時代に分類してみよう。
『市民ケーン』は、オーソン・ウェルズが監督・共同脚本・製作・主演を務めた意欲作である。同映画では、当時新しかった技法を多数取り入れ、新聞王チャールズ・フォスター・ケーンの遺言の謎をめぐる物語が展開された。
『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』の3作品は、アルフレッド・ヒッチコック監督がバーナード・ハーマンの音楽とともに製作した映画である。彼の映画もまた観客をあっと驚かせる展開の繰り返しで構成されており、バーナード・ハーマンの音楽が型破りで自由なその作風を支えていた。『めまい』では高所恐怖症の男がとある女性の亡霊を追って奔走し、『北北西に進路を取れ』では広告会社のロジャー・ソーンヒルがとあるスパイと間違えられる。『サイコ』では、不動産屋で働くマリオンが現金四万ドルを持ち逃げする場面から始まる。
『引き裂かれたカーテン』を機にアルフレッド・ヒッチコックとバーナード・ハーマンは道を違えてしまった。しかしその後も、フランソワ・トリュフォーによる『華氏451』などで、バーナード・ハーマン音楽は生き続けた。また、彼が1962年に作曲した『恐怖の岬』が1991年にリメイクされ、『ケープ・フィアー』という映画になった(原題はどちらも“Cape Fear”)。この際、彼の楽曲は手を加えられることなくほとんどそのまま再現されたのである。
なお、以下では『市民ケーン』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『華氏451』『ケープ・フィアー』にネタバレ有りで触れる。よろしければ、映画観賞後に読み進めることをお勧めする。
「タワー・オブ・テラー」
*以下の内容は、映画あるいはアトラクションに関する公式見解を反映したものではありません。悪しからず。
『華氏451』─ハイタワー・コレクションの価値
この作品において興味深いのは「ファイアマン」のコンセプトだろう。
英語でfiremanといえば「消防士」のことだが、『華氏451』においてこの語は「火を消す者」から「火を放つ者」へと意味が転化している(ちなみに私が見た字幕ではそのまま「消防士」としていたが、これは「消して防ぐ」対象が火から本に移り変わっている)。
『華氏451』は、レイ・ブラッドベリが書いた原作小説『華氏451度』を基にフランソワ・トリュフォーが1966年に映画化した作品である。
月並みな形容詞にはなるが、この映画(小説)は現代を予見した作品として非常に秀逸である。
筆者による原作小説への言及によれば、『華氏451』は、管理社会という言葉に代表されるような社会(state)の腐敗(culprit)よりもむしろ、テレビの登場と本を読まない人々(people)の腐敗にフォーカスをしているという。作中ではカラーテレビを通した印象的なやりとりのシーンがある。テレビを壁(walls)として表現し、その中に登場し観客(テレビ番組の観客であると同時に我々でもある)へ語りかけてくる演者は家族(family)として表現されているのである。
主人公ガイ・モンターグの妻であるリンダも、テレビに釘付けとなっていた。映画の中では、テレビによって人間が欺かれ、扇動される様を描いている。映画のオープニングでは、(本がない世界らしく)タイトルと役者が全て音声で読み上げられ、テレビを受信するアンテナがキーになることが示唆されている。
この奇妙な対比を色々な風に解釈することはできよう。
その中でも今回は、本というものが持つ性質にスポットを当ててみたい。
物語の途中、モンターグがリンダに本について語る場面にその鍵があると、私は考えた。
ここで対比されているのは、本の背後には作者たる一人の人間がおり、テレビの背景にはいないということである。
一冊の本には一人の作者がおり、その作者の人生や哲学がある。人々は各々の好みで本を手に取り、作者と一対一で対話する。相手の言葉を解釈し、察するには、作者の置かれていた持つ文脈を理解する必要が出てくる。本を通して「作者と対話する」という考え方は、別に珍しいものではないだろう。しかし、テレビが支配的で本は禁止されていた社会においては、新鮮な響きを持っていたに違いない。
他方、電波を通じて一斉に発信されるテレビ番組は、そうではない。人々はある統一的な機関からのメッセージを受け取るのである。そしてこのメッセージはパブリックで、すべての人に当てはまる、言わば解釈の必要性がないものである。
こうした対比を裏付けるのは、消防士の隊長が秘密図書館を発見して述べる次の言葉である。
空想の世界を描いた小説、時代により説く内容の変わる哲学書、段々と虚栄心を満たすための道具となる自伝、あまりにも多い文学賞を勝ち取った批評家賞作品、その他にも黒人やユダヤ人から嫌われた本などを挙げ、隊長はその悪影響を語る。
そして最後に、次のように締めくくる。
彼は、原作者のレイ・ブラッドベリが批判するような「腐敗した人々」の代表例であると言えよう。本の背景にいる作者のことを理解せず、「何も教えてくれん」と一蹴してしまう。そして、「万人が同じである」ことを目指して、それらの本を焼いてしまう。
一方で、映画終盤に登場する「本の人々」はそのようには考えていない。
彼らもまた本を焼く。しかしそれは、作者との断絶のためではない。むしろ、作者が橋を渡って読者の側へ来た段階で、その橋を切り落として追手を撒くようなものである。あるいは、作者の言葉や作者の置かれた文脈を具に拾い上げ、理解していくための通過儀礼なのである。
さて、「タワー・オブ・テラー」におけるハイタワー・コレクションの扱いを、この映画から考えてみるとどうなるだろうか。
例えば、ハリソン・ハイタワー三世がシリキ・ウトゥンドゥを持ち帰りアフリカ大陸から帰還してくることを知らせる新聞記事には、次のような記載がある。
また、その“報告書”の中にも次のような記載がある。
これらはいずれにしても、工芸品や芸術作品という「物体」を「アフリカ大陸からアメリカ大陸へ」「救い出す」ことを目的としている。しかし実際は、特定の工芸品を文脈から引き剥がして一瞥し、「意味がわからない」と匙を投げているだけであることが理解できる。『華氏451』における消防士や「腐敗した人々」と、同様の事態に陥っているのである。
更に拡大解釈を進めよう。ハイタワー・コレクションは、栄光と繁栄の時代のニューヨークにおけるある種の「真空の恐怖」であるとも言える。「空間恐怖」「空間畏怖」という語は、英語では"horror of a vacuum"と呼ばれ、もとはラテン語の“horror vacui”に由来する。この言葉はもともと、余白や隙間を嫌う抽象芸術上の単語として用いられた。
フリードリヒ・ニーチェが提唱した「教養俗物」という単語が、その実情を明らかにしている。
この文章はこの後、文化的に成熟していながら、それを用いて外部に影響を及ぼす機会を得ない個人の問題が語られる。また、教養俗物が社会的支配権を持っていたことによって文化的混乱が生じたことにも触れられる。
これらはいずれも「タワー・オブ・テラー」によく見られる内容ではないだろうか? 「人種の坩堝」と呼ばれたニューヨークにおいて違和感こそないが、随所にはその弊害が見え隠れしているのである。
話を最初に戻そう。ハイタワー・コレクションは、文脈を伴わない全時代的・全地域的な収集であると同時に、ある意味では獲得それ自体が目的化したものである。そのため、それぞれの工芸品は名称や見出しが特に大きな注目を集め、かえってその地域や作者とは切り離されている。
他方で、文化・芸術とは、特定の文脈における特定の人物の思想、潜在意識を反映したものであり、多かれ少なかれ、それを人に伝える役割を担う(あるいは担ってしまう)。
『サイコ』─シリキ・ウトゥンドゥの目とは何か?
1960年に公開された『サイコ』は、大きく分けて二部構成になっている。前半はマリオンの脱走を描いたクライムサスペンスであり、後半は彼女の妹の視点から描かれるミステリーである。
さて、Wikipediaに記載されたあらすじでわざわざ断っている通り、この前半の脱走劇は後半の内容とほとんど関係がない。マリオンが有名な「シャワー・シーン」で殺害された後、物語の後半では、消息を絶った彼女を彼女の妹や雇われ私立探偵が捜索するという流れになっており、警官や中古車屋は後半には全く登場しない。
それは何故だろう? もちろん、同じくアルフレッド・ヒッチコック監督が撮影した『北北西に進路を取れ』にも見られるように、シーンこそ重要なのであり辻褄合わせは二の次である、荒唐無稽であっても問題はないという考え方もできよう。しかし、それと同時に、この映画のキーワードは通底して「目」であるということを忘れてはいけない。
物語の序盤、マリオンが車を飛ばしていくシーンでは、淡々とマリオンの目元が映し出される。ジャネット・リーは目元だけで、マリオンの焦りとそれを覆い隠そうとあくせくする様子を演技しなければいけない。続いて警官に尾行されるマリオン、しかし彼女が四万ドルを持ち逃げしたことを警官が知るはずはない。この出来事があって、中古車屋では一刻も早く車を変えようと急ぐ。中古車屋からも怪しい視線を向けられる彼女。しかし、このこともまた四万ドルとは何も関係がなく、彼女が妙に焦っているということしか店員にはわからないはずだ。
しかし、マリオンはやはり焦る。それは、「実は知っているかもしれない」と一度でも思ってしまえば、それを否定する証拠もまたないからである。こうして、マリオンは人々の視線の渦中にいる限り、怯え続けなければいけなくなるだろう。視線の先にどんな感情があるかを想像することで、仮想敵を作り出してしまうのだ。
モーテルについたマリオンはそこの応接室でノーマンと会話するが、この一連の会話は鳥の剥製が見守る中で行われ、若干の不気味さを伴っている。その折、ノーマンは病気の自身の母親について次のように言っている。
視線に関する言及は他にもある。ノーマンの経営するベイツ・モーテルは旧道沿いにあり、新道が出来たせいで人は全く来なくなってしまった。
ノーマン・ベイツという人間は、こうして主流から逃れ安居している。物語の最後でも語られているが、そこにマリオンという女性がやってきたことにより、彼と彼の母親の関係は新たな局面を迎える。
さて、話を「タワー・オブ・テラー」に戻そう。
「目だ! あの目だ!」「なんだその目は! 一体何なんだ」「シリキ・ウトゥンドゥの目が!」といった具合に、ハリソン・ハイタワー三世が収奪した呪いの偶像であるシリキ・ウトゥンドゥは、その目が大きな特徴とされている。普段は閉じているが、呪いの力を発揮する際は開眼し、緑色に光る。
この「目」とは一体何なのか。それは、マリオンやノーマンの文脈に重ねれば「大衆の目」「見張られているという意識」ということになる。
このアトラクションの後の展開を加味して更に拡大解釈を進めよう。
『定本 映画術』の中でアルフレッド・ヒッチコックに対する聞き手を務めたフランソワ・トリュフォーは、『サイコ』を「この映画のおもしろさのひとつは、観客の気持ちが何度か変わるところにあると思います」と分析する。
これは、「タワー・オブ・テラー」についても全く同様のことが言える。
『華氏451』の節で見てきた通り、ハイタワー三世は世界中で収奪を行い、自身の殿堂を飾り付けてきた。しかし、書斎では「シリキ・ウトゥンドゥの呪いは本物だ! これ以上先に行ってはならん、私と同じ運命になるぞ!」と我々に忠告する。
その後、ゲストは秘密の倉庫を通して業務用エレベーターへと案内される。そして、エレベーターに乗り込み、シリキ・ウトゥンドゥの呪いを目の当たりにすることになるが……。
こう語った彼がその後、ペントハウスでエレベーターへと吸い込まれ、暗闇に落下していく。こうした彼の姿を見たとき、我々は彼の暴挙を知っていながら、同時に憐れんで不幸に思うのである(そして、次は我が身である!)。
その後、シリキ・ウトゥンドゥはこちらへ振り向いて、緑色の目を光らせる。ハイタワー三世との夜を再現しつつ、我々ゲストに対しても好奇の目を向けるのである。
『市民ケーン』─ホテル・ハイタワーとは何か?
ザナドゥ城に一人で住まうチャールズ・フォスター・ケーンは、監督のオーソン・ウェルズが直々に演じた。「タワー・オブ・テラー」のハリソン・ハイタワー三世のモデルは実在の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストであるとされており、チャールズ・フォスター・ケーンもまたハーストをモデルにして描かれたキャラクターだ。
ハーストは「ハースト城」という牙城を持ち、チャールズ・フォスター・ケーンは「ザナドゥー」に住まう。これはいわゆるハイタワー三世の「ホテル・ハイタワー」にあたるので、ここではこの「ホテル・ハイタワー」とは何かを考えてみたい。
ケーンの遺言「バラのつぼみ」とは一体何だったのか。物語の最後では、それは何かを象徴したものなどでは決してなく、あくまでパズルの欠けた一ピースであるということが語られる。それに呼応するかのように、この映画の中でそれぞれの登場人物が語る言葉を基に、ケーンの謎を解く手がかりが集まっていく。
ケーンが金持ちになった直接のきっかけは、彼の両親が経営する宿にあった。ケーンは、宿泊客が残した鉱山の地権と共に銀行に預けられる。そして25歳になったとき、彼に諸々の遺産が相続されたのである。
このことの全くの裏返として、この「バラのつぼみ」という遺言の正体は「全てを手に入れた男が唯一手に入れられなかったもの」、即ち愛であるということが示唆される。彼は無条件に愛され、無条件に受け入れられるという経験が欠乏していたがために、世界中を巡って美術品の買い付けに奮闘して心の隙間を埋め、恋人には自分の持つ全てを与えることで見返りに愛を求めた。
ケーンの友人でビジネスパートナーであったバーンステインは、来訪してきた記者に次のように語っている。
彼は人々を飼い慣らし、自分を愛してくれるように仕向けた。人々は彼に惹かれたが、だが一方で彼らが自ら幸福を手に入れようという瞬間になると、差し伸べた手をさっと引っ込めてしまうのだ。そのことは、ケーンの大学時代からの親友でありながら絶交となってしまったリーランドが次のように忠告している。
さて、ハイタワー三世という人物も、これとかなり近しい人間であったのではないかと考えられる。以下は、ホテル・ハイタワーのグランドオープニングにあたり、ハイタワー三世が行ったスピーチである。
ここで印象的な部分は主に二つである。
第一に、"I"や"my"という一人称が通して四回登場し、"People to New York"であるとか"give to you"といった言い回しで呼びかけているということである。これにより、ハイタワー三世はホテル・ハイタワーを通して、自身の権力を誇示することを目論んでいると考えられる。
これは、かつて「37の新聞社と2つのラジオ局」を傘下に収めた新聞王のチャールズ・フォスター・ケーンや、ニューヨーク・グローブ通信も興隆するアメリカンウォーターフロントのハイタワー三世だからこそできた芸当であるとも言える。こうしたマスメディアを通して彼らは自身のスタンスを時に明かし、時に隠すことにより、常に注目度を高めてきた。
第二の点を考える。ハイタワー三世は、自身の威信を見せつけるそのために、ホテルを"give to you"し、"share in my greatness"しているということだ。これは、ホテル向かって左側に設置されている「瞑想の庭園」(GARDEN OF REFLECTION)にも見られる思想である。
ここは世界中からの収奪品に囲まれた静かな庭園であり、ブロードウェイの喧騒が遥か遠くに聞こえる場所である。この場所を、ハイタワー三世は"SHARE"しようと言っている。
この"give"とか"share"という表現は英語の中ではかなり平易な表現であると言うこともできるが、彼が持っていたのは必ずしも「独占欲」ではなく、むしろ分け与えるという感情だったらどうだろうか?
双方を勘案して導き出される結論として、次のようなことが言える。ザナドゥ城をモデルとしたホテル・ハイタワーは、自身の権威を誇示することを目的とした建造物である。そのためにはまずホテルを一般公開する必要があり、ハイタワー三世はこれを通して自己開示の機会を得ていく。しかしながら、ケーンと同じように、ハイタワー三世は自分の持つものを与えることでしか人々を愛することができず、そのため、ホテルはどこか寂寥感を伴っているというわけだ。
さて、この一連の推察は、先程問題にした『サイコ』とも通底する。即ち、大衆の目=シリキ・ウトゥンドゥを獲得したこと、それを以て自身の権力を誇示しようとしたこと、そしてこの偶像を馬鹿にしてニューヨークの表舞台から姿を消したこと……。"idol"「偶像」という表現もまた興味深く、これは一般には、木や金属で作った偶像の中に神や仏を見出して崇拝するものである。つまりこれらは神や仏そのものではなく、あくまでその存在を仮定したものに過ぎない。とするならば、これは『サイコ』で触れた「視線」の問題と近似していると言えないだろうか。
すべてを分け与え、共有することで耳目を獲得したハイタワー三世がシリキ・ウトゥンドゥをわざわざ自室へと運び込もうとしたのは、ひょっとしたら、唯一それだけは独占しようという意図があったからかもしれない──ここまでくると、最早それは妄想の域を出ないとは思うが。
『北北西に進路を取れ』─君たちはどう生きるか?
『市民ケーン』のモデルになったのは実在の人物ウィリアム・ランドルフ・ハーストだと言われていて、『華氏451』や『サイコ』には原作小説がある。後で登場する『ケープ・フィアー』に至っては別の映画の改作だが、『北北西に進路を取れ』には原作が存在しない。
監督のアルフレッド・ヒッチコックと脚本のアーネスト・レーマンが、浮かんだシークエンスを次から次へと繋ぎ合わせて一つの物語にしているということらしい。だから、ロジャー・ソーンヒルという広告会社員の逃避行は、次から次へと繋がっているものの、実際には「本筋」が存在しないのだ。
ジョージ・カプランならば自分が狙われている理由を知っていると踏んだソーンヒルは、タウンゼント邸、警察署、ホテル、国連、寝台列車、砂漠……と彼の足取りを追うが、次から次へと行く先で彼は極悪な犯罪者へと仕立てられていく。聞くだけでも非常に興味をそそられる(そして荒唐無稽な!)物語だが、その仕組みは実に単純。「カプランとは一体誰なのか?」「一味はどうしてカプランを狙っているのか?」その答えは出ることがない。
なぜならジョージ・カプランなる人物は初めから存在しないからだ。政府スパイ機関が、敵の注意を引く為にホテルに履歴を残し、カプランという人物を捏造していたのである。
これは一体どういうことか。
ヒッチコックが積極的にそして効果的に用いたのが「マクガフィン」である。彼にとってマクガフィンとは、物語上は非常に重要な「存在」だが、全く「意味」を持たないものである。今作の後半では、一味があるフィルムを狙っていることが発覚するが、このフィルムに関する説明は一切用意されていない。それがUSBメモリーであろうと宝石であろうと問題がないからだ。
その証拠に、この映画には判然としない部分があまりにも多いのである。それはメイキングでも触れられていないし、脚本したアーネスト・レーマン自身の解説でも放置されている。「なぜヴァンダムは国連での集合写真に写っていたのか?」「何故、農薬散布機はトラックに突っ込んだのか?」「フィルムの中身は一体何か?」……。
そもそも『北北西に進路を取れ』というタイトルの元となったエピソードは消滅してしまっている。
当初からの絶対的命題であった「ラシュモア山でのチェイス」をフィナーレに据えるこの映画。そこまで物語を牽引するためにジョージ・カプランという人物が登場する必要があって、カプランの存在を仮定する上ではフィルムか何かとにかく「重要なもの」が必要であったのだ。結果として、ラブストーリーのお相手となる女性スパイも登場させることができた。
このことは、ホテル・ハイタワーにおける「タワー・オブ・テラー」事件にとって非常に示唆的ではなかろうか。
「タワー・オブ・テラー」およびアメリカンウォーターフロントの舞台は1912年とされているが、1899年12月31日にハリソン・ハイタワー三世が失踪してから13年の間、様々な人物がホテルを巡って争ってきた。ライバルとなるコーネリアス・エンディコット三世と彼の娘であるベアトリス・ローズ・エンディコット、ハイタワー三世の従者であるアーチボルト・スメルディング……彼らは、ハイタワー三世の亡き(無き)後、彼の解説抜きでホテル・ハイタワーやハイタワーコレクションと向き合い、シリキ・ウトゥンドゥの処遇を決めねばならない。
言い換えれば、ハイタワー三世にとってシリキ・ウトゥンドゥとは何であったか、ハイタワー・コレクションとは何であったかということは、我々には全く分からないのである。それどころか、ハイタワー三世とは一体どんな人物であったかすら、満足に定義し得ない状況にあるのだ!
ハイタワー三世をカプランと見立てるのであれば、我々ゲストが演じるのはロジャー・ソーンヒルであると言えるかもしれない。ブローウェイ・ミュージックシアターを後にしたゲスト、S.S.コロンビア号から下船してきたゲスト、トイビル・トロリーの遊園地を楽しんだゲスト、高価列車で今正にやってきたゲストが集う場所が、陰謀渦巻くホテル・ハイタワーであり、恐怖のホテル「タワー・オブ・テラー」である。そこで「ハリソン・ハイタワー三世」なる(現在は存在せず、その痕跡だけが残されている)人物が紹介される。そして、彼のホテルを見て回るうちに、シリキ・ウトゥンドゥの怒りに触れ、彼の運命を目撃することになる……。
他方、バックグラウンドストーリーすなわち「アトラクションの事前情報」としてハイタワー三世についての物語を知っている我々からすれば、このエピソードは更に異なる風合いを見せる。
「タワー・オブ・テラー」の物語は大きく二つに大別でき、それはもちろんハイタワー三世の失踪以前と以後である。1899年に失踪するまで、ハイタワー三世は実に世界中を探検した。1975年にアジア、82年にヨーロッパ、83年に中南米……といった具合に、様々な文化的遺産を収集した。その様子が1892年に開業したホテル・ハイタワーのロビーに展示されており、ホテル内は当時の収蔵品に溢れている。
ところが、こうした品々は、ホテル・ハイタワーの中にありつつ物語と何の関連もない。これらはすべて、ハイタワー三世がアフリカ大陸のコンゴ川に遠征し、シリキ・ウトゥンドゥという偶像を手に入れるという物語を正当化するために用意されており、代替が可能なものだ。例えば75年にヨーロッパを訪れても問題ないはずだし、そもそもハイタワー三世は単なる実業家で、博物館を買収するというストーリーでも構わなかったのだ。更に遡れば、このアトラクションの大元は「トワイライトゾーン・タワー・オブ・テラー」であり、カリフォルニア州の「ディズニーランド」や、いわゆるディズニーランド・パリではこれが採用されているのである。舞台はニューヨークからカリフォルニアに移り、全く別のものとなっている。しかし、同じ「タワー・オブ・テラー」の名を冠しているのだから、その代替の自由は明白である。
ちなみに、パーク内では窺い知ることができないが、「タワー・オブ・テラー」の特設サイト内で次のようなストーリーを確認できる。それは、上で触れていない1900年以後の話……。
ハイタワー三世の失踪後、U.S.スチームシップカンパニーを運営するエンディコット家がホテルを買収した。ベアトリス・ローズ・エンディコット嬢はS.S.コロンビア号の内装に関わっていたが、その間にコーネリアス・エンディコット三世はホテルの取り壊しを企図していた。ベアトリスはアーチーと呼ばれる男の助言でニューヨーク市保存協会を設立し、コーネリアスと立ち向かった。そして、1912年、アトラクションとして我々が参加する形の「見学ツアー」が実施される……。
この「アーチー」という男と非常によく似た名前を持つのが、ハイタワー三世の従者であるアーチボルト・スメルディングだ。彼はホテル・ハイタワー内に秘密の部屋を持っており、そこでは、ハイタワー三世に代わってシリキ・ウトゥンドゥの「永遠の恐怖」に囚われる人物を探しているとのことであった。見学ツアー開催の意図とは、正にそこにあったのである。
我々は真に、ハリソン・ハイタワー三世の居ない後を追うまま、正に彼になってしまったのではなかろうか。わからない、しかし、WHAT TERROR AWAITS? IN THE “TOWER OF TERROR”「“恐怖のホテル”にはどんな恐怖が待っているのか?」なる文言に誘われてやってきた我々と、これまで見てきた「清濁併せ呑んできた現代人で、文化で心の隙間を埋めている」ハイタワー三世という人物は、その愚かしさの点でほぼ同然となっているのではないか?
では、「タワー・オブ・テラー」とは一体何だろうか? それは、意味があるともないとも取れるただ「存在」するものを、後世の人々がどう引き継ぐかという選択に他ならないのではないか──否、その逆、意味をどのような形態で引き継いでいくかという「存在」の問題なのであろうか? そのどちらでもないのであろうか?
『ケープ・フィアー』─本当の“恐怖”とは何か
更新履歴
2022/07/08
*『北北西に進路を取れ』の項目を追記しました
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