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読書会がはじまりました

民主主義が根付いている北欧のなかでも選挙の投票率が高いスウェーデン。新興感染症においてもユニークな方針を貫いて、今月いっぱいで行動規制が撤廃されることになりました(詳細記事はこちら)。翻って日本はというと、自民党の総裁選挙に名乗りを上げた4人に訊いてみると

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行動規制の緩和はしないのに、Go Toトラベルの再開はする、というお方がいてわけがわからなくなります。そして、Twitter上のアンケートだと、

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その、わけわからないことを仰るお方にいちばん期待が寄せられている…という結果。っていうか、「わたしが総理大臣になったら」って、自民党の総裁は総理大臣になれるという前提で番組が構成されているのが気に入らない。総裁選の次に総選挙ですよ。総選挙で与野党が入れ替わる可能性だってあるんですよ。政権交代などありえないとテレビ業界はもう決めているんでしょうか。

いよいよ衆院選が不安になってきました(^_^;)

民主制の国では「有権者」が票を投じることで、どんな政治を行ってもらいたいかの意思表示をすることができます。国会議員、なかでも衆議院議員は、代議士とも呼ばれるくらいですから、彼らはわたしたち有権者の「代理」でもあります。自分の意見を代表してくれる人を国会に送り込むことで、民主政が成り立っているというわけ。これは国会に限らず、都道府県、市町村などの地方議会も同じ。議員は市民の代表。市民が選んだ「意見を代表する」のが議員。子どもの頃から学級委員、生徒会など、選挙でえらぶのは、その練習をしている側面もあるはず。

ところがこの記事

にあるように、

毎月200人以上の髪を切る中で感じていたのは、生徒たちは校則に対して不満はあるものの「我慢するしかない」「変えられない」と諦めているということでした。

自分たちはルールを守る側で、決められたルールには「従う」以外のチョイスがない、と諦めているのか、そう思い込んでいるのか、思い込まされているのか、悔しさは感じるけれど「変えよう」という発想には至らないようなのです。

今回、読書会で読む「あなた自身の社会」はスウェーデンで実際に使われている社会科の教科書(1992年版)の日本語訳。彼の国の中学生の社会科の学び方は日本の「歴史」「地理」「公民」という科目の分け方とは大きく異なっていて、わたしの印象では「今、わたしたちが置かれている状況がなぜそうなのかを理解し、どうしていきたいのかを考えられるように導くもの」のように感じました。ともかく、年号や地名を覚えることにページや時間を費やすような構成にはなっていません。「あなた自身の社会」は3冊ある社会科の教科書のうちの1冊で、あとの二冊のタイトルは「わたしたちの世界」「権力と経済」です。一見ぜんぶ日本でいう「公民」かと思っちゃいますが、「わたしたちの世界」で扱われる項目のなかに、地理や歴史っぽい部分はありそうですが、扱う歴史は第二次世界大戦後の近代史で、「なくようぐいすへいあんきょう」のような年号を覚えなきゃいけないようなものではなさそうです。

人から薦められて手にした本ですが、興味をそそられました。

中学生のときの「公民」で、ひどい経験をした記憶があるからです。

選挙のしくみについての授業でした。日本の選挙では、立候補者は「供託金」を納めなくてはなりません。特に国会議員に立候補する場合の供託金はとても高額です(今は300万円)。このことについて先生は

自分の食い扶持を心配せなあかんような奴に国を任せられんからなぁ

と言いました。給料がそこそこ高いのは「賄賂になびかないため」で、これは理解できます。でも、立候補するのにこんな資金が要るのであれば、可能な人は限られるし、その言い方は「金持ちに任せといたらええんや」というように聞こえました。この人、公民や道徳で同和教育も担当している教師であるにも関わらず、平気で差別をするし、朝鮮半島にルーツをもつクラスメイトに失礼なことを言う人で、竹刀を振り回して生徒を取り締まる生徒指導の教諭でもあったので、「わたしたちは国政には関わりを持てないのだ」という諦めを身につけるのには充分でした。

日本中で同じような教育が行われているとは思いません。

読書会では、図書館司書の参加者が中学の社会科の教科書を調べてくださっていて、スウェーデンの「あなた自身の社会」にも通じる構成になっていて、自分で考える課題も設けられているとわかりました。

でも、40年近く前、わたしが中学生のときには、衆議院が何名、参議院に何名、それぞれの任期や憲法前文を暗記して試験に正しく正解を書くのが「公民」であって、政治にじぶんたちがどのように関わっているのかを教わった記憶は一切ありません。

先の美容師が胸を痛めている高校生たちと同じように「お前らには変える力など無い」という抑圧を感じていましたが、それでも反抗的な生徒はいて、高校では「変えよう!」という意欲のある生徒が生徒会長に立候補して、実際に小さな変化が起きることもありました。

民主主義、民主制は、もしかしたらあれから40年近くたった今のほうが後退しているのかもしれません。

実際、この国では政治のことをカジュアルに話す雰囲気はなく、SNS上で意見のちがう人は互いにバカにしあい、意見を共にする人はエコーチェンバーで満足しているだけだったりします。すり合わせをして建設的な話が展開するということがほぼ無い。その状況は都合よく利用されて、権力者は権力の私物化を好き放題できちゃうのです。

読書会は各回1時間半で、初回は内容についての話にはまだなりませんでしたが、「個人に現れる病気はどれも社会のシワ寄せのように感じる」と参加への思いを語ってくださった、精神科医のことばは強く響きました。わたしも治療家として同じことを感じているからです。

環境に有害な物質は人体にも有害です。
「国民の理解が得られない」から「差別を禁止する法律が作れない」のではなく、「国民の理解を進めるために」差別を禁止する法律が必要なのです。
現行の法律では取りこぼしがあるなら、なくすよう法律を変えるべきです。

政治に無関心でいることは可能でも
政治と無関係でいることは不可能です

固くなった頭でひとりで読んでいてもちっとも楽しくない(むしろうなりたくなる)本ですが、意見を交わす、思いを共有する、課題の発見、新しい見方を知る、より良い未来に1ミリでも近づくためのおしゃべりが楽しくないわけはありません。

明日は、2回目。またリポート書こうかな。


本業は治療家。個人セッションやってます。

カラダとココロの困りごとなんでも棚卸しに来てください。

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