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正義感・劣等感・炎上

ムーブメントがどうやって起きるかを解説した動画です

ひとりで始めたときには
「なんやあいつ」というようなことでも
最初にフォロワーがひとりついて
そのフォロワーに誘われてフォロワーが増えていき
フォローしないほうが「なんやあいつ」という雰囲気になる

踊る阿呆に見る阿呆同じ阿呆なら踊らにゃ損損…とでもいうかのように。

みんながリーダーになるのではなく
なんか変わったこと、面白そうなこと、素晴らしいことを
ひとりでやってる人がいたら
最初のフォロワーになる勇気を持とう

そう、呼びかけています。

流行やトレンド、ウェブ上のムーブメント(#metooとか#kutoo)も
ひとりから始まったことっていろいろあると思う

そして、
「炎上」という現象もそれ(ムーブメント)なんじゃないかな
と思った次第

過日、X上で精神科医を名乗る人が30年ほど前の性暴力エピソードを投稿し、「女性の皆さん気をつけて」というような注意喚起をして燃え上がりました。気の毒にも人格否定や家族への誹謗中傷にまで発展し、アカウントを削除されましたけれど、削除の直前に「俺は覚えているという圧を加害者にかけるのが狙いだった」という後出しジャンケンのような言い訳をしていました。それならエピソードを披露した投稿の最後を「俺は加害者の大学やサークルを覚えているぞ」とか「傍観者だったことを後悔している」で締めればよかったのです。「被害者落ち度説」にも繋がりかねない注意喚起をしたのは不注意なのかジェンダーギャップなのか…。

それとは別で

2010年代の後半あたりから、Social Inclusion(社会的包摂)への取り組みは学校教育、公共の施設、エンタメコンテンツなど、いろんなところで見られるようになりました(ニッポン以外)。マイノリティとされてきた人への「アライ」であることを意思表示するのは一種のトレンドにもなっていて、たとえばヴィクトリア朝時代のイギリスを舞台にしたドラマで、インド系、アフリカ系、アジア系の人が現代のイギリスと同じように、白人と共にひとつのテーブルについて会話しているシーンがあったりします。サフラジェットを思わせる女性の中にアフリカ系の人がいたり、シャーロック・ホームズに妹がいたという設定のNetflix映画ではなんと、レストレード警部をインド系の俳優が演じていて感慨深いものがありました。実写版のアリエルをアフリカ系の俳優が演じていてちょっと物議をかもしたのも興味深い出来事でした。

これまで「白人」が演じてきた登場人物や、人種の設定があえてなされていなかったイギリスを舞台にした物語の登場人物を「非白人」が演じることに違和感を感じる人もいて「イメージが壊された」「裏切られた」ような気分なのだそうです。

その物語・世界には登場しなかった(排除されていた)「属性」の人が登場することで、個人が持つイメージが壊れたり、裏切られた気分になるのは、わからなくはありません。わからなくはないけど、、、排除を感じずにいられたのは「特権」だったことにも気づいてもらいたいと思いました。

トランスジェンダーや、レスビアン、ゲイの登場人物をその当事者ではない俳優が演じることへの批判もあります。当事者が演じるのが望ましいことだとは思いますが、完全にIncludeされているとはまだ言い難い現段階は過渡期として非当事者が演じるのもアリだとわたしは考えます。

ちょっとズレるかもしれませんが、当事者しか演じられないのだとしたら、チャン・ツィイーとミシェル・ヨーが共演した京都の花街を舞台にした「SAYURI」はあり得ないレベルのNGで、ロシア系ユダヤ人の一家の物語である「屋根の上のバイオリン弾き」を日本人が日本語に翻訳して上演するってどうなの?という話にもなるわけで、一定のリスペクトが感じられるならアリだと思うのです。

Star Trekシリーズでは1960年代の開始当初からアジア系、アフリカ系の人がメインキャストにいて、視覚障がい、車椅子のクルーもTNGあたりでは登場するし、ディスカバリーになるとLGBTなども加わり、家父長制もルッキズムも、ありとあらゆる差別を作り出す「壁」が吹っ飛んだ世界が描かれています。Marvel作品もこの流れに乗ってます。Sochial Inclusion万歳。

いわゆる「欧米」というくくりでエンタメコンテンツをみると、上記のようにSocial Inclusionが進んだ世界を描いて、Exclusion(排除)されている側に属する人を勇気づけ、子どもたちがエンタメコンテンツを通じてExclusionを学ばないような予防線を張っているのかな…というように見えます。

一方アジアに目を向けてみると…韓国や中国のエンタメコンテンツはジェンダーや家父長制にけっこうセンシティブになっています。特に韓国のものはジェンダー、家父長制、格差、ルッキズム、とそれらを生み出す社会構造に批判的だったり、問題点をあぶり出すようなものが次々と作られています。

「世の中とはこういう物」
「女性とは」「男性とは」という刷り込みが起きないように
という配慮と
「世の中にある構造の問題」を可視化する
というチャレンジが感じられる作品は辛いシーンやエピソードがあっても、その狙いがはっきりしているので安心してみていられます。

女とは、男とは、というジェンダーや、家父長制的な価値観を、当たり前の日常のひとコマとして、サラッと扱われると「そういうものだ」と洗脳されそうだし、いちいち目くじらを立てると「うるさい」と言われるだろうし、ニッポンのドラマや映画は見ていて非常に疲れることが多いので、ほぼ見なくなりました。

ニッポンはまだまだジェンダーバイアスがきつくて、家父長制も大事にされていて(政府主導で)、若い女性を一方的に性的に消費する文化に寛容で(秋元康と鬼畜な仲間たち許すまじ)、同調圧力が強く(〇〇警察とか)、波風を立てないことが美徳とされるとか…権力者や強者がその権力・実権を民主的にではなく独裁的に私利私欲で使うために都合のいい世の中です。

だから、明確な差別発言をしてもそれほどマイナスに働くことはなく、むしろ人によっては出世できちゃったりもします(法務局の人権侵害認定を受けた杉田水脈)。有耶無耶にすることもできます(五郎丸歩)。

SNSのXなどウェブ上では、そこそこ批判を浴びてはいますが、実社会にそれが反映されているのかと言うと…怪しいことこの上なし。むしろInclusionのために尽力する人への攻撃はウェブ上にとどまらず実社会でも実力行使されているのが現状です(Colaboのバスカフェとか)。

諸外国ではInclusionの流れが勢いを増しているように見える一方、ニッポンにおいてはExclusionは相変わらず勢いがあって、Inclusionが妨害されるその理由について考えてみたいと思います。

#metoo や#blacklivesmatter など、瞬く間に世界を席巻したムーブメント、特に#metooなど日本人のほぼ半数が当事者であったり身近に当事者がいるのに、いまひとつ盛り上がりに欠け、むしろバックラッシュのほうが勢いがあったのはどうしてなのかを、「炎上」という現象から考えてみます。

冒頭で紹介した動画では「素晴らしいことを始めたひとりのバカの最初のフォロワーになること」を勧めています。それが世の中にポジティブな変化を起こすきっかけになる、と。

どれほど大切なことを言っても、どれほどおかしなことを言っても、注目されなければ影響力が無いのはウェブ上でも現実でも共通します。SNSではその匿名性から現実ほど最初のフォロワーになるハードルは高くないとはいえ、見ていて思うのです。

「いいね(Like)」で盛り上がるムーブメントよりも
「指摘→批判→人格攻撃」に燃え上がる炎上のほうが勢いよくないか?

「X」の投稿は「いいね」の数で共感されているかどうかが数値化されているように見えます。

「いいね」の数とポジティブなリプライがたくさんつくのが「バズる」

「いいね」の数もそこそこあって、批判的・攻撃的リプが多いのが「炎上」

必ずしも元々インフルエンサーだった人の投稿にそれが起きるわけではなく、それほど注目度の高くなかった人も常に「バズる」「炎上」する可能性があります。最初の方で紹介した精神科医とされるアカウントは炎上するまで見たことがありませんでした。

「バズる」のか「炎上」するのか、投稿の内容だけではなく、初期にどんなやりとりがあったのかなかったのかも、決め手になっているのではないかと。

「バズる」のは一時的に注目度が高まるだけでさして問題はありませんが、いったん「炎上」してしまうと歯止めが効かないようです。「批判」や「指摘」のリプライがついた時点で「ごめんなさい」「改めます」が言えればいいのですが、「負けたくない」とか「間違ってない」という思いが強すぎたり「異なる考え方や感じ方」を受け入れない姿勢が見て取れると、人格攻撃が始まります。

「一切の共感を示す必要のない人間」という烙印を押されたように。

どうして意見を伝える、真意を問う、というような建設的な対話ができないのでしょうか。

そもそも「議論」という、異なる意見を持つ者が互いに納得できる着地点を見出すため対話を訓練していない…というのもあるでしょう。どちらが正しいかを競い合うものだという認識であったり、論破を目指すような進め方だったりします。

年長者や有力者に従順に従うことが「美徳」とされ、波風を立てないことが「大人」になることと訓練されるニッポンの学校教育では、「対等」に意見を述べ合うことや、問題提起をして解決するお稽古はしていません。上から与えられた「正しさ」に従い、疑問を持たず(封印して)、和を乱さないことがなによりも重要なのです。

いったん「正しい」とされたことは、武器として使うことも許されます。

ただし、権力構造の中で自分よりも「下」とみなした時には…という条件つき。

だから「政権与党」のお墨付きを得ている杉田水脈議員や、スポーツ界の重鎮となった五郎丸歩氏は何を言ってもそれほど問題にはならないし、社会的制裁も受けないのでしょう。

「上」に向かって不満のエネルギーを発散させることは悪いことで、「下」に向かってぶつけることは問題なし…という統治者には非常に都合のよいルールがあたかも普遍的なルールであるかのように、学校教育で植え付けられるのです。

上にいるものがルールをつくる
下にいるものはそれに従う

上に不満をぶつけても何も変わらない(罰則ならある)
下に不満をぶつけることは黙認・容認される

「人はみな平等」と社会科の教科書には書かれていても、現実には先生や先輩は「上」で、下級生や規格外な見た目や行動のクラスメイトは「下」。クラス内でも人気者や人をコントロールするのが得意な人は「上」で、その「上」が決めた価値観でカーストが敷かれる。…こういった状況に置かれれば無力感や劣等感を感じるなという方が無理な話で、だれもが「劣等感」と「無力感」を抱えた状態で大人になるのがニッポンの教育。

いろんなハラスメント
セカンドレイプ
トーンポリシング
マンスプレイニング
…といった、わりと最近になって「名前」がつけられた社会的にNGとされる振る舞いは、劣等感を持つ人の「武器」になって過剰な攻撃(炎上)に使われてはいないだろうか。

というか、劣等感が根っこにあるがために、優越感への渇望があって「間違いを正す」という正義感が暴走するのかもしれない…と思ったのです。

劣等感が根っこにあるがために、優越感へのしがみつきがおきて「指摘」や「批判」が受け入れられず、暴走した正義感に燃料を投下してはいないだろうか…と思ったのです。

「間違いを正す」という正義感それ自体は決して悪いことではなく、むしろ世の中のアップデートには必要です。ただ、それは「間違ったこと」が「望ましい状態」へと変わるために用いるものであって、「間違えた人」の「人格攻撃」になると、正義ではなく暴力だと思うのです。

そのボーダーライン、境界線がどこにあるのかはわかりません。でも、根底にある劣等感に無自覚だと、暴走をコントロールするのは難しいような気がするのです。

他人の「間違い」を見つけた途端に「劣等感」が刺激され、「こいつよりも上に立てる」と思った瞬間に暴力のスイッチがONになる人もいるでしょう。

他人の「間違い」を指摘して受け入れられなかったときに「劣等感」が刺激されて、「こいつは叩いても良い」と暴力のスイッチがONになる人もいるでしょう。

劣等感が根底にあると、
間違えた人よりも自分のほうが「正しい」という認識が「優越感」になり、間違えた人を「下」とみなし、
鬱憤晴らしの対象として暴力的になれちゃう
…ということが「炎上」のような気がするのです。

自ら命を断つほどの攻撃に発展することもある「炎上」は
人格攻撃をする人がもちろん良くないのですが
これもまた
学校教育からはじまる厳しい序列社会が生み出している
人権意識が育たない「構造」に根本的な原因があるように思うのです。

劣等感、優越感
このふたつは感情の中でも取り扱いに気をつけたいセット。

自戒を込めて

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