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想像と共感と知識

わんこが二匹に増えて、新しく来たSinoは縄抜け名人なので、絶対に抜けないというハーネスを買い、それでも外出先ではヒヤッとすることもあって、ひとりでもハンドリングができるように(ハンドリングせずに済むように)ペットカートを買いました。早速使ってみた所、適応的に振る舞ってくれて、暴れることも、騒ぐこともなく、二匹でちんまりと収まってくれていました。

街なかでは「あるある」なのですが、ペットカートのドーム状の蓋を閉めた状態で押していると、一定数「赤ちゃん」と勘違いする人がいます。形状が非常に似ているのでさもありなん。「あら〜、赤ちゃんかと思ったら、可愛いワンちゃん❤」という感じで声をかけてくださいます。

もう一つの「あるある」は「きっと子どもに恵まれなかった御夫婦なのね」という感じの生暖かな眼差し。ペットを我が子のように可愛がることで「子どもの世話をしたい欲求」を満たしているのであろう…という憶測のなかには、微笑ましさもあれば、哀れみや、微かな蔑みを感じることもありました。子どもは自律・自立させなきゃいけないので、いつまでも「お世話」できません。ちっこくて可愛い生き物の「お世話」をしたい欲求は、自分が小さかったときから「おままごと」の「ごっこ」で楽しんでいましたが、その楽しみはいつしか重要なリクリエーションとなり、いまではリソースとなり、死ぬまで「お世話」させてくれる生き物はわたしの自律神経のために重要なのであって、哀れに思われる筋合いのものではありません。ましてや蔑みはピント外れ。わかってやっとりますので。

振る舞い、眼差しやかけられる言葉から相手の心情を推し量ることを「共感」といいます。共感に基づいて想像力が働き、自分がどう振る舞うか振る舞わないかの行動選択が生まれます。

わたしは自分のことを「エンパス」だと認識していたのですが、もしかしたら「サイコパス」だったかもしれない…今日はそんな話を備忘録的に。

発端は内田樹氏のポスト

実は以前、連れ合いが凱風館に合気道の見学に行ったことがあって、そのときの先生とのやり取りから「とても共感的な人だ」という印象があって、とても驚いたのです。更に

これが来て、いささか混乱しました。

共感できない相手を「異常」だとか「間違ってる」と考えはしませんが、軸足を「社会契約ベース」におくべし、と「理解と共感」のつながりとの序列化(「理解と共感が下)を図っているかのような解釈をわたしがしてしまったからです。「どゆこと?」

なのでこの考え方に関してはいったん「保留」とさせていただきましたが、わりとすぐに(数時間後に)例のわたしのinvisible friendsのひとりが「社会契約を反故にされにくい属性の人がいってることやん」と耳元でささやくわけですよ。

「社会契約を反故にされやすい属性の人」はどうしたって「理解と共感」で連帯して小さな声を大きくしなくてはヨノナカを動かすことができなかったし、その連帯なくして自分の安全や安心の拠り所も無かった…という身も蓋もない現実はわかりっこない。そこに共感的であれば出てこないフレーズであったか。

と、「保留」にあったファイルをシュレッダーにかけました(脳内イメージです)。

ほいでもって、今朝

うわー! これ、めちゃくちゃ思い当たる! まんまわたしやん!!!

小さな頃から他者の振る舞いを「なんで?」と不思議に感じることが多くて、それをある程度解消してくれたのが本だったのです。いろんな物語を読みました。中でも子どもが幼稚園に行くくらいまで繰り返し「定点観測」的に読んだのが「子鹿物語」自分がどの登場人物のどの振る舞いを「そうだよね」と共感的に受け入れられるか、その変化を味わうのに手近だったからです。「若草物語」「小公女」いろんな寓話や童話、アンデルセンの作品やリンドグレーン、ミヒャエル・エンデ、灰谷健次郎、ドリトル先生シリーズ、大草原の小さな家、データベースを膨らませてくれる教材はいくらでもありました。

わたしに「共感」できる領域がどうも極端に狭い(狭いなりに敏感ではあった)ということは、幼いうちから薄々勘づいていて、いちいち「なんで?」と突っ込むわけにも行かず、いったん「そうなんだ」と受け取る。受け取ったうえで「保留」にし、データベースが更新されるときに「そういうものなんだ」という「知識」としてファイリングし直し、その知識に基づいて「共感的に振る舞える領域っぽいもの」を広げてきたのです。知識に基づいてであろうと「共感的に振る舞う」ことが重なるうちに、それは自分の「現実」になるわけですから、「知ってて共感的に振る舞えるけど間違ってるかも知れない」という疑念は常にあるわけで、情報の更新が必要になることはしょっちゅうあります。その「上書き作業」をしているときに、自分の思考が「AIみたい」だと思うこともあって、「それってサイコパスやん」「ちがうもん!」というせめぎあいを長年脳内で繰り広げていたのですが(いちど連れ合いに相談したことあり)、これはわたしの「サイコパスへの偏見」であった…ということがつい先程露呈いたしました(告白)。

そんなサイコパスの戯言として聞いてもらいたいことがあります。

内田樹先生は「理解と共感」ではなく「社会契約」が重要とおっしゃいますが、わたしはこれは「どちらか」というモンダイではなく「どちらも」だと思うんです。

「理解と共感」も「社会契約」も「経験」と「知識」の影響を受けている。
「経験」と「知識」は「理解と共感」にも「社会契約」にも影響する。

ということを前提にここからの話は進みます。

秋に始まるとされる新型コロナワクチンの新しいやつ、俗に「レプリコンワクチン」といわれるもの。そうでなくても「mRNAワクチン」というこれまで無かったタイプのワクチンが、いったいどんなものだったのかの総括はまだなされていません。

こんな形で、ワクチンの健康被害など「ない」とする専門家と「すさまじい」とする専門家のバチバチが今日もウェブ上では繰り広げられていますが、過去のすべての公害・薬害ってこうだったよな…情報へのアクセスが容易になった分スピードアップしてほしいな…。というのが感想。

こういうとき、より権力とお金のある方が情報をコントロールできるので、下々のわたしたちはその情報の裏に隠された「思惑」がどんなものなのかを知識と想像力を駆使して「知ろう」としないと「公害・薬害」という暴力に加担してしまいます。傍観者として。

それはともかく、新型コロナからはじまったmRNAワクチンというものに関して「警戒的」な人と「無防備」な人の間の軋轢がこれまでになく高まったのも事実。あくまでも「任意」のはずのものが職場などの共同体では「強制的」に感じられ、実際に「強制されて接種せざるをえなかった」というケースもたくさん聞きました。「警戒的」な人が「無防備」な人までをも警戒するのも目の当たりにしました。

「シェディング」といわれるものです。

mRNAワクチンを接種した人から有害物質が出ていて、それによる健康被害があるのかないのか…という話です。

この有害物質については
・スパイクタンパク質
・酸化グラフェン
・有機溶媒
の3つのカテゴリで言われています。ひとつずつみてみましょう

<スパイクタンパク質>
コロナウィルスがヒト細胞に侵入するときのスパイクタンパク質をこさえる情報であるmRNAを注射で接種することで、ヒト細胞に直接スパイクタンパク質を作らせ、それに対応する抗体ができたら、コロナウィルスが実際に入ってきたときに抗体がはたらいて不活化することができる…というものなので、ワクチン接種したヒトの体液すべてにスパイクタンパク質が含まれる可能性はあります。
でも、タンパク質です。揮発する?

<酸化グラフェン>
どのロットにも含まれるのではなく、運悪く試験的に添加されたロットにあたったら…らしいのですが、そもそも点滴など静脈に流し込むような量で接種するのではなく、0.5mlとかその半量とかです。たとえそこに酸化グラフェンが含まれていたとしても、呼気などから他者に健康被害をもたらすほど大量に排出されるかどうか、です。

<有機溶媒>
特にアセトン。これはね、ワクチン以前からたまに臭うことがありました。おそらく糖尿病とかで血液中のケトン体が増えているのかと思います。わかりやすく言うと、除光液っぽいニオイ。これを感知する頻度が格段に増えたのは確かです。きっと代謝に負荷がかかっているヒトが増えたんだろうな、と。化学物質過敏症のひどい人ならともかく、わたしはこれを多少嗅いだところでどうってことありません。ちょっと心配にはなるけど余計なお世話というものでしょう。

そもそも、免疫システムの全容も、代謝システムの全容もすっかり100%科学的に明らかになってはいないのに、不確定な要素を危惧し、忌避し、非難までするってどうなんでしょう。忌避感が強いとノセボ効果が働く可能性もあります。ノセボ効果とは

プラセボ効果とは逆に、医師から薬の副作用を説明され、偽薬にもかかわらずその言葉に過剰に反応して、副作用の症状が現れることをノセボ効果と言います。まさに「病は気から」状態です。薬剤や医療者に対する不信感がある場合も、薬や治療の効果が減少する傾向にあります。これもノセボ効果です。

東京キャンサークリニックのサイトより

ワクチンを恐れるか、病気を恐れるかの違いはあっても
どちらも「おそれ」ベースで行動しているんですよね。
「〇〇こわいよね」の〇〇が違うだけ。
これは「共感」も「理解」も可能なことなんじゃないでしょうか。

そして
・病気が怖いからワクチンを打つ
・副反応が怖いからワクチンは打たない
のどちらも「法律」で認められた選択です。「任意」とはそういうこと。
このどちらの選択もお互いに尊重しましょうね
というのが「社会契約」。

「共感」も「理解」もさっぱりできないことを
「社会契約」を理由に「守れ」というのはいささか乱暴過ぎる。
どこかに「共感」と「理解」の落とし所があって
「社会契約」を自発的に守ろうと思えるのではないかと考えます。

どっちが先とか、優位にあるとか、優先されるべきとかそういうものではなく、並列。相反するもののように見えても、どこかに共通する何かがあるのではないかと模索するための「対話」やその対話のファシリテーションに価値があるのは、「まるいつながり」のためだと思っています。

そのヒエラルキー(三角のピラミッド構造)を否定して、別のヒエラルキーに組み込むとか、別のヒエラルキーを立ち上げるのではなく、インクルーシブ、包摂、共生のためのつながり。

だれかの言う事を盲信するのは、否定することとセットだと思うのです。

ワクチン関連とは別で、起きたことを紹介しておきます。

ガンをはじめ、難治性の病気の人全般にわたしがおすすめしていることのひとつに「酵素風呂」があります。米ぬかなどを発酵させ、その発酵した「熱」でカラダを温め代謝促進を図ると同時に、皮膚や粘膜(呼吸器や消化管)に共生している微生物叢を調和に導くことで栄養の吸収と活用と解毒を助けてくれるものです。

体質改善全般、病気治療のサポートに役立つのは、多くの人が経験しています。

それと、自然療法を「良きもの」として実践、啓発している人の中には「抗がん剤」を「悪しきもの」として否定する人がいるのも事実です。

わたしは、
ワクチンと同じで、その人の知識、気持ち、家族の知識や気持ち、経済的背景(自然療法は保険治療よりもお金がかかることが多い)や、そのた諸々を考慮して、
その人の「今ここのニーズにマッチする選択を支持する」
というスタンスですので、情報はポジティブなものもネガティブなものも洗いざらい手渡し、抗がん剤を使うとなれば、そのダメージが可能な限り小さくなるようサポートします。
「抗がん剤も手術もイヤ〜」と言う方でも、少なくとも年1回の血液検査と画像だけは問答無用で行っていただきます。必要ですので。

これが「わたしにできること」をわたしのサイコパス脳がAI的に導き出した解だということが、今となってようやくわかりました。わたしの価値観や方針なんてどうだってよくて、クライアントさんの「よくなりたい」のためにわたしができることが何か、という話なんです。

確かに「抗がん剤」はもともとベトナム戦争などで使われた化学兵器由来とも言われ、代謝阻害、代謝抑制の作用を持ちます。そして、実際にそれを扱う看護師さんや臨床検査技師が「抗がん剤被曝」で健康被害を被ることもあります。特に小児がんのお子さんをケアするご家族などは、「抗がん剤被曝」を避けるためにいろいろ注意事項を聞かれていることでしょう。

それくらい要注意な化学物質だということは承知しています。

けれども、

「抗がん剤を使用した人が入ったあとの酵素風呂には抗がん剤が含まれていて危険」
「酵素風呂はがん治療の人が多く通うから危険」

なのかかどうか、です。

抗がん剤治療を受けた人が入ったあとの酵素風呂に抗がん剤が含まれているかどうか、、、細かく分析すればきっと検出されると思います。でも、それが物質レベルで「代謝阻害」「代謝抑制」の作用をするほど高濃度であれば、たちまち発酵から腐敗に傾いて、70℃の発酵熱は保てません。そして発酵が続くなら抗がん剤の作用を発揮する前に分解されちゃう。でも、直後なら物質レベルで残っててそれを皮膚から吸収しちゃうんじゃないの?と心配になる気持ちもわからなくはない。抗がん剤がちょびっとでも含まれる「米ぬかパック状態」で家に帰るんでしょうか?シャワー浴びるでしょう。その前に、微生物の膜が入浴中の人のカラダから有害物質を吸い取ってくれているわけで、皮膚を通して物質レベルでなにかを吸収しているわけではありません。ビタミンが、ミネラルが…というのはあくまでも粘膜(とくに消化管粘膜)の微生物叢の調和によって吸収と活用が盛んになるという結果論なんです。経皮毒というのは、界面活性剤が皮膚のバリアを破壊するから入ってくるのであって、米ぬか中の油分と微生物が皮膚表面のバリア機能を高めてくれているさなかに微量の抗がん剤が入ってくる…というのは…無理があります。もしそうなら、温泉やサウナ、不特定多数の人が乗る満員電車や混雑してるレジなど、どこにいたって「抗がん剤フリー」にはならないわけで、あっちこっちでいちいち「抗がん剤被曝」します。どこへも行けやしない。
お ち つ け、って話。

そもそも、カラダの表面の構造は
いちばん外側はエナジーフィールドが覆っていて、
その次に微生物のフィルターがあって、
微生物の餌になる皮脂膜があって、
角質、表皮細胞、粘膜細胞…というように、なってます。
自分の細胞を覆うように少なくとも3つの層があって、酵素風呂はこれを整えてくれるわけです。
「酵素風呂ね〜、あのニオイが(or感触が)ダメなんだよね」と言われれば「そっか」という他ないのですが、
「酵素風呂には抗がん剤が混ざってて危険よ〜」なんてあちこちに吹聴する人がいた日には「なんでそこだけ見るの?」って返さざるを得ない。

いちばん大事な「社会契約」って、前にも書いた
「誰にでも分け隔てなく行儀よくしようね」ということだと思うのですが、
「ワクチン接種した人からのシェディングが〜」
「抗がん剤治療してる人から染み出る抗がん剤が〜」と危険視するのも
「行儀の良くない」振る舞いだとおわかりいただけますでしょうか?

知識を共生や調和のために用いるのは賛成
知識をヒエラルキー、支配、序列のために用いるのは好きじゃない

ヒエラルキー、支配、序列が好きな人がつくったAIがいずれ人間を滅ぼすというのはよくわかります。いずれ、どちらが支配者か上か「わからせ」ようと戦いになるからね。

都知事選に出ていたU氏が言っていること、間違ってはいないんだけど「どっちが正しいかわからせよう」とする態度にそこはかとない気持ち悪さを感じました。

見えている景色、手にしている情報が異なれば、「正解」は異なります。どちらも、どれも「正解」になり得る。「これが正解だ(他は間違い)」としたら見えない世界でも、「どんな景色を見ているのか」に知識レベルで近づこうとすれば、対話の糸口が見つかるというものです。「あなたにはそう見えているものが、わたしにはこんなふうに見えていてね」というような。

正しさは証明するものではなく、ましてや承認欲求を満たすためのものではありません。「何が起きているのか」は見る角度によって違うし、様々な角度でみてはじめて「より良くするためにできること」への道筋が見いだせるものだと思います。

内田樹先生がおっしゃる「社会契約ベースを…」というのはたぶん、「理解と共感」でつながる集団はその「理解・共感の範疇外」の人たちに対して、「互いに攻撃的になりやすい」という現実を変えるために、倫理や人権意識ないし法律(ワクチンで言えばあくまでも任意というのが法的な位置づけでした)をもっと重視し活用しよう、という意図だったことがようやく腑に落ちたのです。

誰かの「正しさ」で何かや誰かが「排除」されるのだとしたら、その時こそ「共感・理解」と「社会契約」の両輪のバランスを見直すとき。

AI思考のサイコパスですが、体質改善、トラウマ解消、ハッピーに生きるためのセッションで喜んでもらってます。

スパルタだとか冷たいとか、たまに言われる理由がやっとわかりました。本当にスパルタで冷たいかどうか、確認に来てください(笑)


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