深夜零時のセブンイレブンが救っている心について
飲み会帰り、ほろ酔いで一人暮らしの家まで帰るとき、私は他のどの瞬間よりも孤独を愛することができる。
カンカン、と踏切の音が定期的に明瞭に響く音と、たまに往来する車の排気音以外は、世界は無音だ。夜特有のずっしりとした空気に包まれながら、昼間には無いものたちが浮き上がる歩道をぽつぽつと歩くのがとても心地よくて、昔から好きだった。深夜の一人歩きはあぶないと母に口酸っぱく言われて育ったので、遠くに住む歳をとった彼女にはいまだにわるいと思うこともあるが、それでもタクシーを使う気にはならない。この時間を、便利さの代わりに放棄するのは勿体無く感じてしまう。
ひとりで飲んだ帰りではなくだれかと飲んだあと、ということが重要である。孤独というのはつまり、「還る」べきものだから。孤独で無い状態から解放されたという実感こそが私を浮き足立たせるのだ。そこそこ楽しい飲み会だったとしても、くそほど詰まらない飲み会だったとしても、どちらでもいい。
私の住む街は核家族層が多い住宅街で店もほとんどないので、深夜零時には大方寝静まり、街灯以外の灯りはほとんど消える。だがひとつだけ、煌々と光っている建物がある。それがセブンイレブンだ。お馴染みの「7」のネオンライトの看板が輝くさまを遠くから視認すると私は、光源にあつまっていく蛾のように店に吸い込まれていく。
同じようにあつまってくる人々はさまざまだ。残業帰りなのだろうスーツのサラリーマンや、寝付けなくて来たのかぶらぶらもカップ麺を物色している部屋着の人、仲睦まじくお菓子を選ぶカップルがいることもある。もしかしたら他の夜にもすれ違ったことがあるかもしれないが、私は顔を覚えるのが苦手なので顔見知りの人はいない。だがそこにいる人たちに対して私はいつも妙な連帯意識を覚えてきた。
今日も飲みの後、23:30、私は夏が来る前の今、時間が止まってほしいと思いながら、帰路に着く。今日は2ヶ月ぶりに、気になる人と仕事で会ってサシ飲みをした。私が自分からご飯に誘う異性は彼だけだ、というのも、彼から誘ってくれることが稀だからこちらから言うしかないのだ。今回も、こちらへ仕事で彼が来るということで、「暇ならごはん行きましょうよ〜」となるべく自然な(?)DMを送った。彼からは、「行きましょう」とだけ返信が来て、それだけで浮かれた私は、3軒くらい気になる店をサーチして提案して、予約も私がした。そのくせ、歳がかなり離れているので結果的にご馳走になってしまい、お土産ももらうのも毎回のことなので、完全に厚かましい女になってしまっている。だがもう自己嫌悪も悲観もない。開き直っている。私は「都合がいい」女だ。
「都合がいい」というとき、多くは身体の関係だけで肉体的に消費されていたり、あるいは貢いだり世話してあげるパトロン的な役割になっていることを指していたりする。私は現在そのどちらにも当てはまらない。だがたしかに、自分は「都合がいい」のである。
私は彼のことを一方的に好きで、彼の言動や機嫌、思考を気に掛けている。彼が「行きたくない」といえば私は残念がりつつも引き下がるしかないし、彼が「ここ行こう」と誘ってくれたなら大半の予定は空けると思う。そういう意味で都合がいいのだ。私は彼とのごはんに漕ぎ着けることにも必死なのに、彼は適当な気分で私の選択を決定できてしまうのだ。しかも彼にはすでに別の女性がいてその人とは長いから、私とサシでご飯に行くのは確実に暇潰しか、もしくはビジネスの付き合いの飲みだと思っているだろう。書いていて虚しくなるのでこのあたりでやめておく。とにかく、自分が「都合がいい」存在になることを、もうやめようと思い知るような恋をしてきたのに、今またこういうことを書いていること自体、成長がない。だが彼に惹かれてしまうということと、自分が「都合がいい女」になることは、同義ではないはずなのだ。私は、彼が私に対して何も求めないのに、一方的に都合良く存在することはやめたいと何度も思う。例え彼を好きなことを止めるのに時間がかかったとしても、その間都合よく消費されることに黙っていたくないし、何より、自らを都合よく消費させる選択はしないでいたい。
今日一緒にワインを飲んでいる時は、例に漏れず、やっぱりいいなあ、と思っていたのに、こうしてひとり夜道を歩いていると、微風が脳内をさあっと吹き抜けていく心地もして、私は正気と夢見心地の狭間で「もうやめだ」と思う。今日の散歩の静けさはひとしおだ。
胃の内壁が少しひりひりする。少しアルコールを飲みすぎた。最近アルコールは控えていたし、食べ物も食欲が満たされればなんでもいいみたいな生活だったから、今回は数日分くらいの贅沢を摂取してしまった。吐くまではいかないけれど、どくどくと動悸がして少し思考が朧げになるくらいには酔った。そんなときに、ああ私って人間なんだな、と思う。普段、生きているということを生物学的に実感することは少ない。感覚や感情に鈍感になっているし、精神的にも平穏だ。それはつまり異常がないということだから、幸せなことだ。だから今回みたいに飲みすぎた夜は、熱とか、動悸とか、朦朧とした脳とか、身体的な不調を体感して、自分が生きた人間だということを確認するのだ。
セブンイレブンの看板が見えてきた。例に漏れず向かっていく。私がここに立ち寄るとき、私は何かを買うことは少ない。なんでもある場所なのに、なにもほしくない時に寄るからだ。日中にコンビニに寄ったら、アイスコーヒーくらいは買うけれど、夜には飲まない。私は今日も飲み会帰りだから腹も膨れているし何も欲しく無いので、セブンイレブンに入ったところで何も買わない。だが、イタリアンフェアやらの新作スイーツ、レンチンするだけで食べられる家系のラーメン、かつて祖母の大好物だったしろくまアイスなんかを確認しては、全てのものがある空間、必要なものも不要なものも手にはいり、これほどに便利な存在はないと思いながらも、内心では欲のない状態との齟齬を噛み締める。ひととおり巡回したら、流れるようにお馴染みの入店音をさせて出ていく。ありがっしたー、という気の抜けた挨拶を背中に受けたその時、「肉まんあって良かったね」「ね。わざわざ来た甲斐があった〜」という男女の会話が聞こえた。
私はその時、ここに来る人々との連帯感は、私の単なる思い込みだったのかもしれない、とふと思った。肉まんが欲しくて肉まんを買いにコンビニに来る人もいるのか。そんな当たり前のことを、深夜のコンビニにおいては勝手に排除していたらしい。私はなんとも言えない気持ちで、またぽつぽつと帰路に着いた。
日本で初めてのコンビニエンスストアができたのは1971年。今では国内で5万店舗以上も点在しているコンビニだが、その歴史は半世紀ほどのものだ。コンビニ文化も、まだ人類史においてはニュースタンダードの一つに過ぎず、セブンイレブンがとりわけ特別なわけでもない。だが私にとっては、ここのセブンイレブンがない生活はもはや想像できない。このセブンイレブンがなかったなら、私はいつもただ街頭のしたをひたひたと歩いて帰る、孤独のなかで「だれかの便利」として消費しがちな自分に嫌悪するか自戒するかを繰り返し、ただ粛々と帰る、そんな夜を重ねていたはずだ。だがそうはならずに済んでいる。ひとりであるという状況、稼働しているものの息が聞こえる夜、何でもある場所だけど何もいらない自分、そこにあるセブンイレブンに、私は何度も救われている。
都合がいい自分がいやだ、なぜならそれは自分を大切にしていないような気がするし、自分が幸せになれないと思うから。それなのに都合よくなる恋愛ばかりする、むしろ、結果として都合よくなっていることは相手のことを好きである証明にも感じられた。一方で自分にとって都合のいい(都合よくいてくれる)だれかには興味なく、愛がもてなかった。でも自分を都合よく消費したいわけじゃない。私は彼のことを恋人から奪いたいとか、彼に好きになってほしいとか、そんな欲を持ち合わせているわけではなく、だから結果として都合がよくなってしまっているのだ、と思っている。求めるものがなく、見返りもないにもかかわらず、それでもなんとなく惹かれることが価値だと思うから、その現状に満足することさえあるのだ。
最近撮った気に入っている写真の話、今度つくりたい作品の話、最近許せなかったニュース、最近よく考えてしまうこと、歳を重ねることへの気持ち、離れていってしまった友人への本音、いま熱中していること、違和感を持つこと、そういうことをたくさん話してくれて、今日もうれしかったな。風変わりだけどおもしろくて、ややこしいところがあるけど尊敬しているし、面倒臭いけどセンスが良くて、ちょっと雑に扱ってしまうこともあるけど本当はもっと知りたいの。でもこんなことは一生伝えないから安心してほしい。酔った勢いでも零すことは絶対にない。
ひとり夜道に着いて緊張がゆるむとき、ふとこの気持ちが溢れそうになって、そういう時のたびに私は、このセブンイレブンに寄り道をするのだから。
安心して孤独になる。そして私は消費から自由になる。
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