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山であったおはなし.

腰のあたりから、ざぁざぁと音が漏れる。背中に担いだバッテリーや機材の重みが気になり、レシーバーの位置を整える余裕がない。次の地点で、機材を配り終えたら、一度、レシーバーの様子を確認した方がいいかもしれない。

足元は、ぬるっと滑る土の上。もう少し上がると、ざりざりとした小石たちがたまる谷に着く。そこからは、急な岩場を上がっていくことになる。待ち合わせは、その岩場の途中。何事もなければ、あと20分で到着するはず。バッテリーと無人撮影用のテープ交換を受け渡したら、わたしの荷物はもっと軽くなる。

受け渡し場所を楽しみに、上がっていた時。ふと、目の前が紫色に染まった。斜面の奥から、みどりの霧がふわっと道ににじみ出てきた。

気になるくらい聞こえてきていた、レシーバーの雑音がぴたりと止まった。きんと張りつめた気配が落ちてくる。また、現実から切り離された。

山に入ると、まれにこういうことがある。突然、現実とあちらとの境目にはまりこむ。

仕方がないので、斜面を背にして重い荷物を背中から降ろす。ザックを開けて、ペットボトルを出して水があることを確認。作業服のポケットを探る。

大丈夫。ポケットには食料が入っている。飴玉とクッキーと。ザックのポケットには、おにぎりとあんぱん。

周りの様子が、元に戻るのを座って待つことにする。

みどりの霧は、こちらをうかがうように、道の奥でのぞいている。その、ずっと奥から、細長い影が一つ。ゆらゆら、ふらふらと。斜面の杉を避けるようにして、歩いてくる。目はついていない。ただの影。

何が起きるかわからないので、道の端にそっと寄る。身体を斜面に貼りつけるようにして、わたしは息をひそめる。

この道は、なにかの通り道らしい。シカのふんが落ちていたし、時折けもの臭があったから、シカの道かと思っていた。けれど、その道に交わるみたいにあった、空気がゆがむ感覚は、この霧のあしあとだったのかもしれない。

みどりの霧と細長い影は、ゆっくり、ゆらゆらうごいている。こちらを見ているような、見ていないような。目の前にあるけもの道に沿って、山の奥へと動いていく。

その通り道の脇で、斜面に貼りついている私。怖さはないはずなのに、口の中が乾く。まばたきが、できない。じっと、みどりの霧を見ている。ぐんぐんと、空気が重くなる。息が苦しくなっていく。こっそり、ひっそりと呼吸を頑張る。

ぷちん。

「……たま、いるか。どこだ」

レシーバーから突然、声が聞こえた。ぎょっとした。待ち合わせしていた先輩からの連絡だった。

しびれたようになっていた手を動かし、レシーバーを握ろうとして、顔を上げた。目の前に、細長い影がいた。息が詰まった。

……気づいた時には、となりに先輩が座っていた。待ち合わせに来ず、応答のない私を探し、道を降りてきたという。わたしは、斜面の脇で倒れていたらしい。

水を飲んで、一息ついて。荷物を持ち直そうかと斜面をむいたら、朽ちた小さな祠のあとがあった。ぎょっとして振り返ったら、先輩と目が合った。

「おまえは、いつも。変なものみつけるな。今度は何を視た」と、先輩はあきれたように笑った。正直に、細長い黒い影とみどりの霧の話をした。

「明日、おまえは別ルートな」

帰り道、コンビニによってワンカップのお酒を買った。明日、あの道を上る先輩に頼むつもりだ。

あの祠のあとに、お酒を置いてきてください。と。


その夜、変な夢を見た。小さなロウソクがぽつりぽつりと、山の中へと続く。その終点は、斜面の途中にある割れ目だ。

そこには、みたこともない縁日の屋台がたくさん並ぶ。緑色のおおきな羽を持った、小さな人たちが。こそこそ、ふわふわと笑っていた。お祭りの日みたい。たくさんの人がいるのに、とても静か。

お祭りを見ているうちに、道にあるロウソクが消えていく。

じゅっ。じゅっ。炎の消える音が、リズミカルに聞こえる。最後のロウソクが消えるとき、斜面にあった割れ目が埋まった。からからと、石が崩れる音がして、真っ暗になった。

真っ暗に驚いて目覚めたわたしの前には、出張先のホテルの壁があった。起き上がろうかと、寝返りを打ったら、目の前に真っ黒の影。

影が薄く笑った。鳥肌が立った。

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