「愛されて」育ったんだね
単に褒められているにもかかわらず、他者評価と自己評価のギャップに苛立つなんてなんてこともありましょう。
今日はそういうことに輪をかけたお話でして。
「愛されて育ったんだね」
そうやって投げかけられるシーンってどういう場合があると思いますか。
こんな感じでしょうか。
そう。
褒め言葉でしかないと思っていたんです。
でも、よくよく考えるとそれに限らずでして、例えば。
こっちね。
これの皮肉として発されることの方が実は多い気がしてるんですよね。
「愛されて育ったんだね」
もちろん状況によりますけれども、そう言われたら「ああ上手に褒める人だわ、うふ」なんて感じるより「こっわー」って感想を抱く方が適切だったりするかもしれません。
根性がババ色をしている人はですね、愛されて育った訳のない相手に、決して褒め言葉足りえない鋭利な何かを、皮肉で投げかけている、と。
巧みに。
すなわちこれは「あんた間抜けだわね」の意訳です。
とても奇麗な「愛されて育ったんだね」という言葉に「あんた間抜けだわね」という意味を含蓄できる。
なんと便利な言葉でしょうか。
繊細さはその冷たさに血を流す。
愛されていないと自認あるいはそのように感じている人からすれば、そのギャップに傷つき、間抜けという評価にさらに傷つく。とてつもない刃物です。
これのミソは、否定できないというところですね。
「愛されて育ったんだね」
という言葉に、どのような皮肉を含まれているかは、そのババ色の内側にしかわからない訳です。外の人がババ色の内側を察して、「なんてことを言うんだ」とでも言おうものなら、言われた相手を「愛されていない」と評価し卑下するとも評されかねません。擁護しづらいんですよね。皮肉の効用とでもいいましょうか。
なんでそんな意地悪しちゃうんでしょうか。
もしかすると、愛されて育っていないからかもしれません。
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