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負け惜しみ=「すっぱい葡萄」

濃い時間を過ごした。

みたいな文章を見ると何かしらの意地悪な気持ちになるのは何故だろう、なんてことを数分考えていると、ふとこれを思い出した。

すっぱい葡萄
狐が己が取れなかった後に、狙っていた葡萄を酸っぱくて美味しくないモノに決まっていると自己正当化した物語が転じて、酸っぱい葡萄(sour grape)は自己の能力の低さを正当化や擁護するために、対象を貶めたり、価値の無いものだと主張する負け惜しみを意味するようになった。
引用:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%84%E8%91%A1%E8%90%84

もしかすると、これは自分が濃い時間を過ごしていないと感じているが故の負け惜しみか。

あるいは、自分の過ごした時間を濃い時間であったと素直に表現できないことへの負け惜しみか。

はたまた、これまで触れた多くの「濃い時間」話において、濃いのかなと期待してよくよく聞いてみたら、全然濃くなくて残念だったことから、はなからどうせ大したことないんでしょうという色眼鏡が発動してしまうようになったという残念か。

いずれにせよ、「濃い時間」という言葉を見ると、「ありゃどうせ酸っぱいよ」と思うようになっているのかもしれないと。それは今までの自分自身の人生と照らし合わせたものが一つであろうし、濃い時間と称されるエピソードを聞いた時の通例、期待と残念のギャップによるものでもあろうし。

しかしながら、どうせあの葡萄は酸っぱいぜ、なんて感情は自分の美学と沿わんのです。負け惜しみ感情はダサいと。

にもかかわらず、そういう感情が沸きあがることに違和感を覚えているのですね。

さて、こういう自分の美学と感情とのそりが合わない時ってどうしましょう?感情を無視するのか、放置するのか。あるいはそういう感情を見つめ直して湧き上がらないように是正するのか。湧き上がらないように別の感情で埋め合わすのか。もう一つあるか。美学の方を替えるか。

おそらく、人の生きざまってそこで決まるんですよね。現実と理想とのギャップと向き合った時にどうふるまうか。この場合は、目に見える何かと、自身の感情とという現実と、美学という理想との向き合い方ですね。

よしんば、目に見える葡萄が酸っぱくもないのに酸っぱいと思い続ければ、強がりのひどいさもしい人柄になるだろうし、美学を押し曲げれば諦め癖のある無気力な自分を育てることになるかもしれない。現実を直視して、理想の反応を描いて、そう振舞えばいいのだけれど、その時、当初湧き上がってきた感情ってどこに行くんですかね。

ともあれ、




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