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ネタのための「閾値」越え

就活の時、資格は取るべきか否か、みたいな話題ってあがりませんでしたかね。

わたしを取り巻く当時の環境は、中の下から中の中、あるいはもう少し上あたりを背伸びしてうろつく学力レベル。すなわち関東で言うならばGMARCHに届かず、関西で言うならば関関同立からこぼれ落ちる類の烏合の内でした。

持てるべく学歴という武器は心もとなく。

モラトリアムで得た経験はおよそキャバクラバイトで獲得した黒服のふるまいと、いかにして授業に出席せずして単位を獲得するかという要領の良さばかりであり、実質の学力においてはまったくもって期待に及ばず。就活におけるすっぴんであり、半パン白ランニングの無課金でありました。

丸腰です。

そこで偏差値53くらいの若者は耳を傾けたくなる訳ですよ。

資格でも取ってそれなりに茶を濁らせはできんものかと。

過半を夜の生活で無為に過ごしたとても貴重な4年間は決して戻ってきませんから、あたりを見渡して拾える小手先の何かが一瞬おいしい水に見えるのです。

漢検準2級、簿記3級、ITパスポート(当時だとシスアド)、TOEIC730点。

なんかそれらしい2万円くらいの講座に通えば取れるっぽいと。学校の食堂にずらりと並んだ勧誘のチラシには、様々それらしい科白がおどっています。

しかしながら。

それはドラゴンクエストで言うと、たけざお、ひのきの棒、こん棒、どうの剣とでも言いましょうか。それくらいならば、中の下の学力でも大体に肌身で理解できてしまうのです。これから立ち向かう就活のボス戦にあっては、そのどれもがあまりに小手先で、冗談もほどほどにシロマティーであると。

こんなもん就活には意味ないだろ。

就活に漢検準2級って。

ボス戦にこん棒持って行ってどうするんだよ。そういう気持ちです。いまさらそんな小手先じゃ茶は濁らんと。そう思った訳です。

それならば、この4年間、キャバクラでのアルバイトで勝ちえた話術で、町行く人をキャッチする度胸と値切り交渉を持ちかけてくる若い兄ちゃんとの交渉術で、それで行った方がいいだろうと。

そう。

みんな言うじゃないですか。
人間力って。

建前;小手先の資格より人間力の方が意味がある、そういう判断で。
本音;資格勉強をするのがめんどくさくて、合格する自信がない。

心の声

そういう心底意味不明な人間力という言葉を信じて戦おうと、そう決めた当時の訳は、およそほんのわずかで良いはずの努力の放棄と、4年間の怠惰の正当化でした。

惨敗でした。

志望した就職先にはすべて落ちました。

当時氷河期と呼ばれた環境を鑑みても、あまりに努力不足で、無力で、いくら反省しても全く足りないくらい無対策でした。

あの時、資格の勉強をしておけばよかったなんてことは微塵も思っていません。当時、なんらかの小手先で資格を獲得していたとしても、きっと結果は変わらなかった気もしますし。

新卒での就職で踏み外したわたしは、いわゆるまっとうなサラリーマン人生というか、出世の道というかを諦めました。
そこそこの大手に入って、ジョブローテで色々な経験をし、そこそこ出世して、そこそこの給料を貰って、それなりに家族を持つ。

そういう道を諦めました。

そういうことをしたかったのか?と問われると、多分当時はしたかったのだと思います。平凡ながら、それなりの社会人生活を。その方が安心できると妄信していたんだと思います。

大学4回生の半ば、就活に見切りをつけたわたしは、就職したらその後はきっとできないであろうことをやろうと思い立ち、海外で生活することを決めます。

オーストラリア。

そういう人間にとってとても都合のいいビザ。1年間、働きながらその国で生活できるワーキングホリデービザの存在を知るのです。せっかく行くのだから「ある程度」何か自分に残るものを手にしたい。

ある程度とは何か。

何事もそうだと思うのですが、趣味でも勉強でも、仕事でも、よく耳にもするし、口にもしませんか。ある程度できるようになりたい。

では、そのある程度とは何か。
わたしにとって、ある程度とは、以下のようなものでした。

・対外的に評価に値し
・自身が能力として保持し続けられ
・その後の人生においてそれを学び続けたいと思える種の状態

ある程度とは

オーストラリアに行くならばそれは英語に関する能力であり、帰国後を見越すのならばその後の就職につながる職業体験であり、1年間を学生でもなく社会人でもなく過ごすのであればやりたかった芸能活動でした。

ここではじめて気づくんですよね、資格ってそれだと。

資格があれば対外的にアピールできて、資格を取るには体系的に学ばざる得ないのでそれなりに身に付きます。そして、アピールできて身についた知識ってそれを前提に人生が進むわけで、それからも学び続けたいって思えるんですよね。それに準ずる資格がなければ確固たる経歴を手にしようと。

これをわたしは冒頭の「閾値」と呼ぶようにしました。

やりたいことをやろう。
どうせやるなら閾値を超えようと。

学生時代400点台だったTOEICをオーストラリア滞在時にTOEIC790点まで伸ばし、インターンとしてとある企業のシステム企画のサポーターとして働き、モデル事務所のオーディションを受けてハリウッド映画に参加しました。

閾値を超えておくと便利なんですよ。
人に言いやすいですし、自身のよりどころにできますから。

資格の性質の一つとして、自身の経験を形にするという性質があるように思っています。

弁護士、公認会計士、税理士、司法書士、社労士、行政書士なんて特にですが、取得しなければできない仕事もあるので、一概には言えませんし、むしろ資格がすなわちそういった専業資格を連想させるが故に、資格の意味合いを正確にとらえられないようにも思われます。

英語のスキルを伸ばしたいからTOEICを勉強する。
それは正しいふるまいですし、間違っていないと思います。
TOEICの点数を高くしたいから、英語を勉強する。
これも然りです。良いと思います。

加えて、こういう考え方もあるのです。
英語をある程度学んだので、それを形にするためTOEICの点数を取っておく。そのために勉強する。

わたしは後者でした。

その後の人生においても大抵その指針で日々を過ごしました。

英語の次は日本語でしょうに。
→漢字検定準2級

ITに関する仕事がしたいからやる。ある程度スキルが付いたので、それを示すために資格を取っておく。
→民間のプログラミング言語に関する資格

管理職になったのでマネジメントをやる。知見がたまったので、資格を取っておく。
→民間の心理学に関する資格

チームメンバーの健保や保険その他諸々お金に関する質問に答えられるように体系的な知識を得ておきたくて。
→FP技能士

経営に携わるようになり法務、経理の知識を付けざるを得なかった。体系的に形にしておきたかったので資格を取っておいた。
→法務系士業

せっかくだしもうちょい英語を伸ばしておこう。
→TOEIC Aクラス

Web制作会社の経営に関する知見を形にしておきたい。
→修士論文

そんな感じで。

資格を取るべきかどうか問われたら、取っておくに越したことはないよと、わたしは言います。

少なくとも閾値を超えておいた方がこうやって後々ネタにできるので。

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