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「不快な解釈」を選択する権利
A:「私、馬鹿やけぇこういうことわからんのんよね」
B:「君は馬鹿じゃない。しっかり考えて理解しようとすれば理解できるから、一つ一つ一緒に解決していこう」
このやり取りで、Aは馬鹿にされていると感じ、Bに見下されていると解釈した。また、知人がこのように話していたのを聞いたことがある。
Barにて
C:「最近生きてて楽しい?」
D:「なんなん、そんなつまらん人間に見える?」
Dは割と強めに怒ってたらしい。
少しくらいの皮肉が含まれていればまだしも、Bにも、Cにも悪気は微塵もない。ゼロである。しかしながら、受け手はそれを自身への攻撃であると感じ、極端に不快な方向へ解釈する。
コンプレックスが強いのか、想像力に欠くのか、触るものみな傷つけてララバイしたいのか、はたまた、そういう自身にとって不快な解釈をすることを無意識に好んでいるのか。
そんな中、納得した視点がある。
メッセージの受信者には「複数の解釈可能性のうちから、自分にとって最も不快な解釈を選択する権利」が賦与されているということである。
コミュニケーション感度の高い人間とコミュニケーション感度の低い人間のどちらがこの権利を活用することになるのか、想像することはむずかしいことではない。
http://blog.tatsuru.com/2005/06/30_1254.html
「被害者」はどのようなコメントであれ、それが自分にとってもっとも不愉快な含意を持つレベルにおいて解釈する権利をもっている。
~中略~
どういう場面でどういう立場からの発言であるかという「文脈」の発見、発言者のこれまでの言動の総体の中に位置づけてその暗黙の含意や事実認知上の信頼性、遂行的な確実性を査定すること・・・そういった一連の作業を経てはじめて、無限の解釈可能性のうちから、とりあえずもっとも適切と思われる解釈にたどりつくことができる。
http://blog.tatsuru.com/2008/06/11_1020.html
メッセージの受信者には、自分にとって最も不快な解釈を選択する権利がある。
なるほどな、たしかにな、と。
不快な解釈を定常としている人と会話すると、不用意に敵意がこちらに向くので、極力不快の量を減らそうという力が働いてしまう。
すなわち接点を減らすという。
全方位的な分断は望むところではない。
少なくとも、自身が深くかかわることのできる人々とは共に、物事を適切に理解する力をもって、発信者の意図を汲み、適切な解釈を行えますことを。
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